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【沖縄戦:1945年5月18日】「血塗られたギブ・アンド・テイク」─シュガーローフ・ヒル制圧される 米軍、兵士の戦闘神経症発症が多発

シュガーローフ・ヒルの戦い

 早朝より日米の安里52高地(シュガーローフ・ヒル)争奪戦が繰り広げられたが、砲撃・迫撃の集中と戦車による攻撃によって米軍は午前10時ごろシュガーローフ・ヒル頂上付近を占領した。同地を守備する独立混成第15連隊第1大隊(野崎大隊)はこの日夜、奪回・逆襲をおこない米軍を頂上付近から一時撃退したが、死傷者を多数出し翌19日未明にはシュガーローフ・ヒルから撤退した。
 ハーフムーン・ヒル(別称:クレセント・ヒル)を守備する独立混成第15連隊第3大隊は、米軍の猛攻をうけながらも同地南側の陣地を保持するとともに、この日夜、米軍に包囲されていた連隊砲陣地の救出攻撃を実施し、連隊砲中隊・速射砲中隊の各中隊長を救出した。
 第62師団長は首里司令部東方の赤田町付近に配置されていた同師団輜重隊を首里司令部西方の松川方面(現在の沖縄県立沖縄工業高校付近)に移動させ、シュガーローフ・ヒル制圧後の安里・首里司令部西方の防備を強化した。
 「血塗られた丘」「長く、血塗られた、ギブ・アンド・テイクの戦い」「地獄の一週間」といわれたシュガーローフ・ヒル争奪戦はついにここに終わることになる。なお「地獄の一週間」とは米軍が不意に(あまり深い意図はなく)シュガーローフ・ヒルに近寄り日本軍の猛攻撃をうけ多大な損害を出した12日を起点にした表現だろうか。
 この戦いでは11回にもわたり攻守が入れ替わり、1日で4回も頂上の攻守が入れ替わった日もあったそうだ。海兵隊はこの戦いで約2600人もの死傷者を出し、約1300人もの戦闘神経症発症者を出したといわれている。戦闘神経症については後述する。

その他の戦況

 首里司令部北方の大名高地では、守備隊の独立歩兵第22大隊第2中隊が「タマリ戦法」と呼ばれる米軍を陣地内にあえて引き込んでから攻撃する戦法を用いて善戦した。末吉南側地区では第2歩兵隊第3大隊や独立歩兵第13大隊などが米軍の攻撃をうけたが、これを撃退した。
 首里司令部北東の石嶺高地に配置されていた戦車連隊は多大な被害をうけ、戦力は四分の一、砲兵も1門のみとなった。戦車連隊長は特設第4連隊の第2大隊を第一線に配備して陣地強化をはかった。
 首里司令部東方の運玉森(コニカル・ヒル)方面では、同高地北西の高地や運玉森頂上で米軍と対峙・近接戦が繰り広げられた。特にコニカル・ヒルでは米軍はヒモのついた手榴弾を投げ、体にヒモがからみつき、手榴弾をよけたり遠くに蹴り出して排除することなどできないまま日本兵が爆死する事例が存在する。

米軍の新作戦企図を警戒

 第32軍はこの日夜、米軍の増援部隊に関して次のように各部隊に参謀長電を通報した。

 諸情勢ヲ綜合スルニ敵ハ沖縄方面ノ現戦況ニ関連シ二十日前後沖縄本島方面ニ対シ強力ナ増援乃至奄美島就中喜界ヶ島状況ニヨリ先島方面等ニ新ニ上陸ヲ開始ノ算大ナリ ソノ兵力ハ二箇師団内外ト推定ス

 これをうけて徳之島の独立混成第64旅団(旅団長:高田利貞少将)は翌19日未明奄美全地区に甲号戦備を発令し、対上陸戦闘を準備した。

新聞報道から

 大阪朝日新聞は45年5月18日付の記事で次のように報じている。

戦勢楽観を許さず、帰趨を決すこと数日(大阪朝日45年5月18日)
沖縄本島における陸上戦闘はここ数日来敵の攻勢は急調となり、戦局決して楽観を許さぬ事態に至っている、即ち那覇、首里両市の北方並に我謝を結ぶ東西四十キロの全戦線に第七師、第七十七師、海兵第一師、海兵第六師計四個師の全兵力を投入した敵は本島内に敵が獲得した北、中飛行場からの基地空軍の協力下にわが主陣地に対し全面的な総攻撃に出で殊にその主力が首里、那覇の中間地区を指向しているものの如く敵は戦車群を先登に遮二無二我が陣地線に滲透し来り、目下那覇市北辺をめぐる彼我の戦線は犬牙錯綜して血みどろの激戦を展開中である
  [略]

米軍における戦闘神経症

 米軍ではこのころより戦闘神経症(戦闘疲労症、戦場神経症)を発症させる兵士が続出した。シュガーローフ・ヒル争奪戦だけで1289人もの兵士が戦闘神経症を発症させたといわれる。
 戦闘神経症の症状は体の震えなど運動機能のマヒ、延々と泣き続ける涕泣、無言、無表情、大小便の垂れ流し、機関銃の乱射などの異常行動があげられる。ある証言では、兵士たちは戦闘神経症をバーン・アウト症候群と呼び、それは多くの場合は奇妙な行動をとるというよりも、あたかも機械が壊れたかのようにぷつり人間としての機能が停止したような症状と表現している。

シュガーローフ・ヒル付近で撮影された戦闘神経症を発症させた兵士の映像 体の震えや涕泣という典型的な戦闘神経症の症状があらわれている:NHK「沖縄戦全記録」より

 兵士が神経を病む原因としては「鉄の暴風雨」といわれるほどの猛烈な砲爆撃、シュガーローフ・ヒル争奪戦に象徴されるような白兵戦・肉弾戦の連続、そして泥濘と豪雨、腐乱した死体、血、汚物、ウジ、ハエなどの壮絶な周辺環境などが考えられる。
 米軍は5月末の時点で海兵隊で6,300人、陸軍で7,700人の戦闘神経症患者を出したといわれる。米軍は兵士の戦争神経症に対応するため精神科医の対策チームを派遣し、特別の野戦病院(第82野戦病院)を北谷町に設置した。
 初期治療は良好な結果をもたらしたようで、比較的多くの患者が早めに回復し、任務復帰するなどしたが、一部の者は病症が重く、サイパンなどに後送される場合もあり、なかには生涯病症が回復せず、市民生活に復帰できなかった兵士もいたようだ。また戦後も兵士たちは精神的負担によりPTSDを発症し苦しめられることもあった。
 なお戦闘神経症は日本兵も例外ではない。八原高級参謀は米兵の戦闘神経症に触れ、「日本軍は[略]かかる患者の発生は稀であった」というが、それは司令部にいた者の弁であり、戦闘神経症に対して実質的に何らの処置もしようとしなかった軍の首脳の弁でしかない。失語、自傷、体の震え、壕を飛び出して戦場をさまようといった異常行動など、明らかに戦闘神経症と思われる症状を発症させた日本兵や住民の姿が多数目撃されている。

引用・出典・参考文献

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『宜野湾市史』第6巻 資料編5 新聞集成Ⅱ(戦前期)
・保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(琉球大学『人間科学』第8号)
・同「沖縄戦の記憶─戦争トラウマとそのかたち」(同第12号)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)

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シュガーローフ争奪戦から帰還した海兵隊機関銃部隊の兵士たち:沖縄県公文書館所蔵【資料コード0000112260】【写真番号80-23-3】


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1945年の沖縄戦の毎日の出来事を発信しています。44年の沖縄戦準備や戦後の収容生活、女性や子どもやアジアの人々にとっての沖縄戦も発信していきます。ヘッダー画像は1945年4月1日沖縄島に上陸する米軍(沖縄県公文書館【資料コード:0000112162】より)。
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