【沖縄戦:1945年3月12日】「反軍、反官的言動ヲ為ス者ナキヤ」─国頭支隊秘密戦機関「国士隊」結成式
北部一帯に張り巡らされた諜報網
国頭郡伊豆味国民学校でこの日、沖縄北部の防衛のため配備されていた国頭支隊(宇土武彦支隊長)の配下で諜報、防諜、謀略、宣伝などの秘密戦を展開する「国士隊」の結成式が開催された。
国士隊結成式には、宇土支隊長以下国頭支隊より10名、役所の吏員や教員、議員、医師など比較的有力者の翼賛壮年団員ら28名が出席した。なお国士隊のメンバーは現在判明しているだけで33名おり、その身分や行動は秘密とされた。メンバーには身分証明書も交付されたようだ。
「国頭支隊秘密戦機関『国士隊』結成ノ件報告」と題された支隊の文書には、国士隊結成の目的が次のように記されている。
また国士隊の任務として、10日に開催された国士隊の結成準備幹部会合に関する細部指示事項として
とある。なかでも興味深い任務は、諜報である。諜報については、次のように記されている。
などとある。要するに支隊の目・耳として住民が住民の動向を監視し、情報を収集し報告する機関が国士隊といえる。
国士隊隊本部は、現在の名護市に置かれ、恩納、東、大宜味、羽地、今帰仁、本部、久志、金武の各集落に支部が置かれた。沖縄戦の地上戦がはじまる直前、軍の諜報網、住民同士の監視の目が北部一帯に張り巡らされていったといえる。そして、こうした国士隊による調査や監視、報告が後に日本軍のやんばるでの「スパイ」の摘発と処刑につながっていったともいわれる。
ただ国士隊の活動がいつごろまで持続したかは、不明瞭なところもある。米軍が沖縄に上陸し、その一部が北部へ進撃するなかで、国士隊もおよそ壊滅状態となったという指摘もある。
いずれにせよ「加害者の日本軍」と「被害者の沖縄の住民」と大別しては見えてこない沖縄戦の現実があり、加害者と被害者や軍と民の境界線上にいた「マージナルマン」の存在と役割を考えねばならない。そして軍は常にそうした「マージナルマン」を作り出す工作をするということも、である。
第32軍の「スパイ」への異常な警戒
そもそも日本軍は、民間人を「地方人」として軍事情報を守る観点から警戒していた。また、このころは、沖縄への差別・蔑視も根強く、沖縄の日本軍である第32軍はなおさら信用ならざる存在として「地方人」たる沖縄人を警戒していた。実際、第32軍は、沖縄について「所謂『デマ』多キ土地柄」「防諜上極メテ警戒ヲ要スル地域」などと表現している。
他方、第32軍の沖縄駐屯と住民の戦争動員により、軍民は混在・混住しており、防諜という点ではかなり難しい状況にあった。そこで軍は、地域の警察や消防、警防団などを用いて住民を監視させるなど、住民同士の監視体制を構築していった。特に移民帰りや家族に移民のいる者などは「スパイ」と疑われ、厳しく監視された。上述の国士隊の諜報の任務にも「外国帰朝者特ニ第二世、第三世ニシテ反軍、反官的言動ヲ為ス者ナキヤ」などという文言があったことには注意したい。
軍の沖縄住民「スパイ」視や「スパイ」への警戒は日を追うごとに増大していき、一般住民の移動を制限したり、沖縄の言葉の使用を禁止するなどの措置をとった他、ハワイ移民帰りの住民を「スパイ」として虐殺するなどの行為を行っている。また地上戦がはじまると、軍はそれ相応の理由もなく住民を「スパイ」視し、脅迫や暴行をくわえ、殺害する場合もあった。精神的な疾患や知的障害によって軍の命令や質問に十分こたえられなかった住民もスパイとして殺害された。
軍の「スパイ」への異常な警戒は、住民同士の相互不信を招き、見知らぬ人物や戦災の状況などを詳しく聞いて回る人物を「スパイ」として軍に密告する住民も出てきたため、監視の目を警戒し、物を言えない雰囲気が出来つつあった。
硫黄島の戦い
このころ硫黄島では激戦が続いていたが、米軍は、占領した千鳥飛行場について工兵部隊を用いいち早く修復を開始していた。2月26日には小型機の緊急着陸用に使用可能となり、3月4日には観測機用の滑走路2本を修復、同日に本土空襲後のB-29が燃料補給のため緊急着陸した。そしてこの日、第62建設大隊により5800フィート(約1800メートル)の爆撃機用滑走路が完成した。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・藤原彰編著『沖縄戦─国土が戦場になったとき』(青木書店)
・石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・Ⅲ 資料編3」(『沖縄国際大学文学部紀要』社会学科篇第13巻第1号、1985年)
・三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)
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「国頭支隊秘密戦機関『国士隊』結成ノ件報告」:「秘密戦ニ関スル書類」(内閣府沖縄戦関係資料閲覧室公開)