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【沖縄戦:1945年5月11日】米軍、首里司令部攻略に向けて総攻撃 米空母バンカー・ヒルが特攻により大破

11日の戦況

 米軍はこの日、首里司令部攻略を目指し、司令部防衛線の全線で総攻撃を開始した。以降、米軍は那覇市街地方面の防衛線左翼(西方)、大名高地方面の防衛線正面(北方)、運玉森方面の防衛線右翼(東方)という三方向から首里司令部を攻撃することになる。

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首里司令部とその周辺の要図:「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)

 五月十一日、米軍の総攻撃が開始された。はじめのうちは全戦線とも密接な連携がたもてた。だが、まもなく部隊間の連絡は断ちきられ、米軍は、西側、中央、東側で、それぞれ相当頑強な日本軍に出会い、熾烈な戦闘にはいった。
 戦いはこれまでの戦闘を一層激しくしNFたようなものだった。西は那覇市安里のシュガー・ローフ(慶良間の見える丘、と地元では呼ばれる)から、東はコニカル高地(運玉森)に至るまで、十日間にわたって、米軍は攻撃の手をゆるめなかったが、日本軍は部分的には敗れても、全体としては、ほんのわずか後退するだけで、これまで長期間にわたって構築してきた陣地をなお死守していた。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

安謝方面 
 昨日突破された西方の安謝方面では、戦車を伴う有力な米軍が安謝南方約500メートルの高地帯の守備隊陣地に猛攻をくわえてきた。守備隊の独立第2大隊、機関砲第103大隊などは砲迫撃の支援により南下する米軍に多大な損害を与えたものの、米軍は安謝南方の高地を占領し、天久台上北端付近まで進出した。

その同じ日の夕方[11日の夕方]、第三大隊の海兵隊は、天久村落の北側にあたる海岸の岸ちかくを、戦車隊や火炎放射器を動員して占領した。この進撃で海兵隊は、天久の北側の丘陵地帯から、いまは廃墟と化した琉球の首都那覇市を、見降ろすことができた。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

沢岻、経塚方面 
 首里北方の沢岻、経塚も米軍の攻撃をうけ、経塚を守備する独立歩兵第23大隊、独立機関銃第14大隊などは歩兵第64旅団司令部との連絡も途切れ、米軍は沢岻台上北端に進出し沢岻高地は危機に陥った。この日夜、内間付近に集結中の米軍を攻撃するため、独立歩兵第15大隊に配属されている独立混成第44旅団の第2歩兵隊第3大隊の第9中隊主力が斬込みを敢行した。斬込隊は相当の戦果をあげながらも、石原文二中隊長以下多数の死傷者を生じ、20数名が帰還したのみであった。
 独立歩兵第23大隊はこの日夜半、ようやく後退命令をうけ大隊長以下50~60名が沢岻に到着し、歩兵第64旅団有川旅団長の指揮下に入ったが、部隊はほとんどの戦力を失っていた。

前田集落南側 
 前田集落南側では終日混戦となったが、守備隊はおおむね現在地を確保した。

石嶺北東 
 石嶺北東の146高地および同高地の南方高地は朝7時30分ごろから戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけたが、砲迫撃の支援により守備隊は米軍戦車数両を擱坐させ、夕方には撃退した。

幸地南西 
 歩兵第22連隊正面の幸地南西でも米軍の攻撃をうけたが撃退し、連隊は戦力の再建に務めた

運玉森方面 
 歩兵第89連隊が守備する運玉森方面では、運玉森北西800メートル高地の100メートル閉鎖曲線高地北側高地(西原町安室の高地か)は米軍の猛攻をうけ、同高地守備の第7中隊は勇戦したものの、陣地の一角を占領された。また運玉森北東800メートルの54高地(西原町安室のさざなみ保育園あたりか)では守備隊の第5中隊の一個小隊が抵抗を続けていたが、翌12日は遂に全滅した。

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日本軍陣地や壕を焼き払う米軍火炎戦車 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-38-2】

慶良間諸島の戦況

 このころ慶良間諸島では米軍による掃討作戦がおこなわれていた。
 渡嘉敷島では5月9日、米軍は阿波連方面に艦砲射撃を実施し、阿波連湾および野嘉良崎付近に約1000名の米軍部隊が上陸した。渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊長は斥候の報告により米軍の上陸を知り、10日朝各隊に応戦準備を命じた。
 10日10時ごろ、艦砲射撃の支援下に米兵150名が渡嘉敷方面に上陸し、渡嘉敷集落周辺の高地に陣地を構えるとともに集落北側に物資の集積を開始したが、戦隊への攻撃は活発ではなかった。
 この日米軍は昨日に引き続き渡嘉敷集落周辺高地に陣地を構築し、時折迫撃砲の射撃を実施するとともに、渡嘉敷港から軍需品を陸揚げした。戦隊長はこの日夜、軍需品の爆破と迫撃砲陣地攻撃のため二組の斬込隊を派遣した。
 後日、阿嘉島にも米軍が上陸し、攻撃がおこなわれるが、渡嘉敷島での米軍の掃討作戦とともにまたあらためて触れたい。

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慶良間諸島で保護された朝鮮半島出身の軍属たち(いわゆる「朝鮮人軍夫」) 後ろの島は慶留間島だという 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-05-4】

軍司令部の動向

 第32軍はこの日、戦況を次のように報じた。

 朝来敵ハ航空機ノ強力ナル協同ノ下ニ小波津、幸地南側高地、経塚、澤岻、内間、安謝ノ各方面ニ対シ各々第一線兵力戦車十数両歩兵三〇〇~五〇〇ヲ以テ猛攻ヲ加ヘ来リ我ハ幸地以東ニ於テ克ク主陣地ヲ確保シアルモ同地以西ニ於テハ奮戦コレ務メタルモ遂ニ〇八〇〇─一一〇〇頃ノ間経塚、澤岻北側高地、末吉兵舎北側高地、安謝ニ敵進出接戦格闘中ナリ 軍ハ飽ク迄経塚、澤岻北側高地、安謝ノ陣地線ヲ確保シ敵ニ多量ノ出血ヲ強要スヘク努力シアリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 また第32軍牛島司令官はこの日、海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官に有力な一部で引き続き小禄地区を守備し、主力をもって陸軍部隊と一体となり首里周辺の戦闘に参加せよと命令した。
 それとともに軍は第24師団と第62師団の作戦地境をおおむね平良ー仲間道の線とし、前田南側地区の独立歩兵第11大隊および第62師団輜重隊を歩兵第32連隊長の指揮下に入れた。歩兵第32連隊長はこの日夜、右第一線の独立速射砲第3大隊の任務を主として対戦車戦闘に任ずるよう部署した。

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負傷した日本兵を捕えた海兵隊員 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-10-2】

米空母バンカー・ヒルと航空特攻の実態

 この日、陸海軍の航空総攻撃が実施された(第七次航空総攻撃、菊水六号作戦)。 
 このなかで小川清および安則盛三の二人の特攻隊員がそれぞれ操縦する二機のゼロ戦が出撃し、沖縄海域に展開していた米空母バンカー・ヒルに二機とも特攻、命中した。バンカー・ヒルは沈没こそしなかったものの、乗組員のうち372人が死亡し、264人が負傷する大損害をうけた。 
 第5航空艦隊宇垣司令長官の日誌『戦藻録』にもこの日の特攻作戦について、「相当の損害を本総攻撃により与え得たる気持ちなり」と記されているが、実際は航空特攻には純軍事的に深刻な問題が内包されていた。
 すなわち爆弾を抱えた特攻機が敵艦船に向かって急降下し体当たりするのが航空特攻であるが、じつはこうした攻撃だと急降下の際に特攻機に揚力が生じてしまい、機自体がエアブレーキとなり、爆弾の破壊力や貫通力がかなり低減されてしまうのである。これにより多くの米艦船が特攻攻撃をうけながらも、実際は沈没に至ることが少なかったのである。
 こうした事実は特攻隊員たちもすでに把握しており、この日、バンカー・ヒルに突入した二機の航空特攻機は、まずバンカー・ヒルに爆弾を投下した上で、艦船に向かって突入したといわれている。本来であれば爆弾を投下し命中したのだから帰還してもいいのだが、特攻による死そのものが目的となり、強制されていたのである。

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特攻機が命中し大破した米空母バンカー・ヒル:沖縄県公文書館【写真番号111-09-2】

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バンカー・ヒル甲板上に並べられた戦死者の遺体 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-09-4】

最高戦争指導会議

 この日、ナチス・ドイツの降伏によりソ連対日参戦が現実味を帯びるなか、対ソ問題について鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令部総長のいわゆる六巨頭による最高戦争指導会議が三日間にわたり開催された。
 もともと最高戦争指導会議にはこれ以外の国務大臣や参謀次長、軍令部次長なども参加していたが、重大局面にあたり、この日はじめて六巨頭のみでの最高戦争指導会議となった。
 この最高戦争指導会議では、ソ連の対日参戦を防止する、ソ連の好意的態度を取りつける、有利な戦争終結のためソ連に仲介をしてもらう、という三つの目的のため対ソ外交を開始することになった。そのための条件としては、南樺太の返還、漁業権の解消、北満州の諸鉄道の譲渡、旅順や大連の租借、北千島の譲渡などソ連への「手土産」をも覚悟するというものであった。

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鉄道の信号塔だが、海兵隊は通信線の支柱として使っているそうだ 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-02-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・吉田裕『日本軍兵士─アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)

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立て続けに二機の航空特攻をうけて大破炎上する米空母バンカー・ヒル 45年5月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-10-2】