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【沖縄戦:1945年5月22日】「死屍累々の逃避行」─第32軍司令官、首里放棄・南部撤退を決意 沖縄戦敗北を見越した陸軍中央の政治工作

首里放棄・南部撤退へ

 第32軍牛島司令官は、首里での徹底抗戦か首里を放棄し南部に撤退するか、撤退するならば知念半島か喜屋武半島に撤退すべきか、各兵団から意見聴取したが、この日夕方、首里撤退・南部撤退を決意し、喜屋武半島の摩文仁に司令部を移転させることとした。第一線部隊の撤退は29日ごろを予定し、軍司令部管理部長(葛野高級副官)の指揮する司令部各部の将兵以下約250名が先遣隊として摩文仁に派遣された。
 首里放棄・南部撤退により、軍は新しい作戦計画を策定した。その概要は次のとおり。

   方 針
 軍は残存兵力をもって玻名城、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線以南の喜屋武半島地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留すると共に、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする。
 陸正面においては、八重瀬、与座の両高地を拠点とする主陣地帯に全力を投入して抗戦することを主義とする。
  部署の概要
一 独立混成第四十四旅団 主力をもって玻名城、八重瀬岳の線を占領し、一部をもって海正面を警戒する。
二 第二十四師団 右の混成旅団に連係し、与座岳付近から国吉、真栄里を経て名城(真栄里南西二粁)にわたる線を占領する。
三 前記両兵団は、一部をもって具志頭(玻名城東方)、富盛(八重瀬岳北東)、世名城(八重瀬岳北)、西原屋取(世名城西)、兼城(糸満北東)、糸満の線を占領する。
四 第六十二師団 名城から摩文仁に至る海正面を占領する。この間に兵力の掌握、整頓を実施し、且つ随時陸正面の各方面に増援できるよう準備する。
  [略]
八 軍司令部 摩文仁と予定する。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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摩文仁の司令部や各兵団司令部(緑枠)と主要な地名(赤枠):戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 軍の撤退作戦としては、まず軍司令部が撤退予定日の29日より数日早く首里を発って津嘉山を経て摩文仁に撤退し、その後に各兵団の撤退がおこなわれることになった。なお軍司令部や主力部隊の撤退が完了するまでのあいだの作戦として、第62師団は首里司令部南方の津嘉山を経て与那原方面に進出する米軍を撃退するとともに、第24師団は有力な一部の部隊を現戦線や南部までの要地に配置し、米軍の南下を遅滞させることが命じられた。
 この時点で軍の兵力は疲弊しきっていた。兵員こそ3万から5万はいたようだが、そのほとんどは現地召集の初年兵や防衛隊であり、精鋭部隊は壊滅していた。また兵器の保有は、小銃は人員の三分の一から四分の一程度、重火器は十分の一程度しかなかった。
 それでも戦闘を継続するとはどういうことなのか。第32軍の首里放棄・南部撤退は、作戦方針に「努めて多くの敵兵力を牽制抑留すると共に、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」とあるように、国軍全般作戦つまり本土決戦のための時間稼ぎであり、「捨て石」としての持久戦の続行のため、損耗しきった兵力でも戦闘が継続されようとしていたのである。

「死屍累々の逃避行」として南部撤退時の戦場の凄惨さを語る元一中鉄血勤皇隊員の比嘉森正さん:NHK戦争証言アーカイブス

22日の戦況

 米軍の攻撃はこの日、首里司令部南東の与那原方面以外では活発ではなかった。
 与那原方面は朝から雨であり、米軍はその悪天候をつくかたちで攻勢を仕掛けた。米軍は未明より奇襲攻撃をおこない、与那原南側の雨乞森高地は米軍に占領された。
 同方面の守備を担う船舶工兵第23連隊の所在部隊は反撃をくわえたが、撃退できなかった。雨乞森西側稜線にあった野戦重砲兵第23連隊第2大隊の観測所は、米軍が観測所まで迫ったため、観測所を目標に射撃するよう部隊に命令し、その掩護下で高平まで撤退するような悲惨な状況であった。

 軍の右翼の要点運玉森高地は、金山大佐の率いる歩兵第八十九連隊の主力がこれを占領し、同高地東南麓与那原の町は、海軍陸戦隊の山口大隊が陣し、その南方雨乞森は、船舶工兵第二十三連隊の残存部隊、大里城趾は樋口大佐の重砲連隊がそれぞれその守備についていた。
 大里城趾のわが重砲隊は、運玉森高地を攻撃する敵の側面を砲撃し得る有利な地位にあったほか、以上の諸陣地は有機的に相支援し、もって軍の最右翼の守りを安全ならしめていたのである。しかるに、軍が、左翼那覇、天久台方面の戦線維持に躍起となっている間に、いつしかわが右翼戦線にも罅がはいりつつあった。
 敵は、我々が、退却作戦を議していた五月二十二日夜、運玉森高地の東側斜面─歩兵第八十九連隊は山頂を乗り出すと、中城湾内の敵艦隊に集中射を浴びせられるので、内方斜面にいわゆる反斜面陣地を占領していた─の死角を横這いして与那原に侵入、山口大隊を急襲して、二十三日払暁までに与那原西側鞍部を占領してしまった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 軍はこれまでの牧港や安謝川の戦例から、与那原方面に進入した米軍の尖端戦力が強化されないうちに撃滅するべきだと考え、第24師団長および軍砲兵隊を督励するとともに、特設第3連隊を第24師団長の指揮下に入れた。同連隊の連隊長である土田中佐は、津嘉山東方1.5キロの86.6高地付近に進出し、部隊を同高地南北の線(兼城ー86.6-喜屋武地区)に配備した。
 また軍は特設第4連隊に対し、高平付近(与那原南南西3キロ)に進出し、南下する米軍を阻止するよう命じた。
 ちなみに特設第3連隊長は第32野戦兵器廠長、特設第4連隊長は第32野戦貨物廠長であり、それぞれ後方支援部隊であった。こうした部隊を前線に展開しなければならないぐらい、第32軍の戦力は低減していた。
 軍はこの日の戦況を次のように報告している。

 球参電第六七八号(二十二日二二三〇発電)
 十九日以来敵後続兵団ノ戦線投入ハ逐日其ノ戦力ヲ増加し昨日来敵ノ攻撃ハ再ヒ本格化シ朝来全線激戦中ニシテ特ニ東海岸方面ヨリスル敵滲透攻撃急ニシテ我部隊ハ首里東西陣地ノ線ヲ保持シ懸命ノ努力ヲナシアルモ今ヤ新ニ投入シ得ル戦力ナク敵ノ滲透ヲ余儀ナクセラレツツアリ
  [略]

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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米沖縄攻略軍の首脳 左から第10軍司令官バックナー中将、中央は第6海兵師団シェパード少将、右はその副官クレメント准将 45年5月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-32-4】

神航空参謀の沖縄脱出

 第32軍航空参謀の神直道少佐は5月10日、戦況報告と航空攻撃要請のため沖縄を脱出し本土・台湾へ向かうよう命じられ、軍司令部を出撃した。しかし脱出のため海軍が準備した飛行艇との合流がうまくいかず、しばらく待機していたが、軍司令部は戦況の急変をうけ神航空参謀を司令部に呼び戻していた。
 こうしたなかで神航空参謀はこの日、首里放棄・南部撤退も含め軍の最新状況を確認した上で再び司令部を出撃し、島尻方面へ移動して飛行艇の到着を待ったが、やはり飛行艇との合流はうまくいかなかった。神航空参謀は27日、クリ舟による挺進連絡を決心し、30日に糸満の名城からクリ船に乗って沖縄を脱出し九州方面へ出発することになる。

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戦死した戦友に祈りを捧げる 45年5月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号09-10-1】

「機密戦争日誌」より

 大本営陸軍部第20班(戦争指導班)の業務日誌である「機密戦争日誌」のこの日の頁には、臨時議会の召集に関し、内閣書記官長の迫水久常と打ち合わせをしたとある。
 その内容は、若干意味が理解し難いところもあるが、大略、沖縄戦の戦況悪化(決定的な敗北)を考慮し、今後召集する臨時議会について、陸軍としてどのような態度をもって臨むべきかという迫水書記官の問いに対し、陸軍として臨時議会について(その召集について)強いて反対するところではないが、開催するのであれば一刻も早く開催し、全権委員法(当時、内閣に独裁権限を与える戦時緊急措置法の成立が企図されていたが、それのことだろう)を成立させ、期限内に議会を終了させるべきだと答えたという。
 その上で日誌は次のように結んでいる。

沖縄ノ推移悪化セル後議会ヲ開カントセハ足払ヒヲ喰ヒテ政府ハ頓死スヘシ。

(「機密戦争日誌」45年5月22日:JACAR、Ref.C12120327500)

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 沖縄戦の戦況が悪化してから議会が召集されれば、様々な批判や非難が高まり、妨害をうけて、全権委員法の成立など本土決戦に向けた政府の態勢が崩壊する(議会を召集するなら沖縄戦の戦況が悪化する前にやってしまいたい)という危機感と、その裏の政治的打算が記されている。つまり沖縄戦の戦況悪化を見越し、陸軍はこの日より政治工作・議会対策について検討を開始したといえる。
 また梅津参謀総長は翌23日の幕僚会議で「和平思想や弱音を吐く者がある。沖縄作戦の終末に際し、国民の士気を落とさない手段を探求する必要があり、沖縄決戦を強調しつつ、反面だめな場合の手を打つ」と発言した。
 「機密戦争日誌」における議会対策と沖縄戦の関連の記述は、うがった見方をすれば陸軍にとってこのころの沖縄戦は政治工作・議会対策のための「時間稼ぎ」と位置づけられていたということもできる。また梅津参謀総長の発言は、和平思想の台頭を防ぎ、国民の士気を鼓舞し、本土決戦に持ち込むための「捨て石」として沖縄決戦の強調の意図が読み取れる。つまり、このころの陸軍中央にとって、沖縄戦は本土決戦のための軍事的な「時間稼ぎ」「捨て石」というよりも、本土決戦のための、ひいては陸軍の政治力・求心力維持のための、政治的な「時間稼ぎ」「捨て石」にされていたといえるだろう。

宮古島からの緊急支援要請

 この日の米軍「マジック」には、昨21日に海軍宮古島警備隊が在台湾の海軍部隊に発信した通信が傍受、解読され、その内容が配信されている。そこには次のようにある。

4.南部琉球ー宮古島から弾薬及び糧秣報告
5月21日、宮古島警備隊(海軍)は、以下にあげる「20日現在量」を電報にて報告した。
「(1)弾薬(火砲毎)
 120ミリ高射砲実包 18
 25ミリ機関砲実包 158
 13ミリ機関砲実包 396
 我々の技能は向上しているものの、戦果は拡大していない。それは極度に弾薬を節約する必要があるためである。而して航空輸送にて喫緊に、機関砲弾薬を補給するよう要請する。
 (3)糧秣 2632人分(海軍部隊推計)
 主食 108日分
 副食 128日分
本島での陸海軍合計は、3万3千人の多数に及び、現地自活の必要があるも、現地自活の限度を超える段階に到達している。そのため弾薬と糧秣を輸送することがぜひとも必要となっている(特に主食と食塩)」。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 宮古島を中心に宮古諸島には陸軍部隊として1個師団2個旅団、さらに海軍部隊の約3万人の大兵力が展開し、食糧事情が相当に悪化していたといわれるが、この「マジック」からはそうした宮古島の窮乏が垣間見れる。

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座間味島で村長の子どもを抱くグスタフ少佐 45年5月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-23-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』〈10〉
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)

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首里司令部間近の首里当蔵のキリスト教会:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02000455】【ファイル番号001-05】