『華厳経』睡魔・雑念 格闘中9
「菩薩明難品」
ひとつ前の、「如来光明覚品」にて、仏の元に来詣に訪れた十方の国々の菩薩(〇首菩薩)らと、文殊師利とのやり取りで、終始しているのが、この「菩薩明難品」である。
菩薩の名前が、〇首菩薩と”首”の漢訳が共通しているのは、音が一緒だったのだろうか、或は意味が一緒だったのだろうか。漢訳の元の表記(サンスクリット)を確認することが出来ず、残念ながら2巡目にしても、確たることが分からないままとなってしまった。
この品の構成としては、9名の菩薩に対して、文殊師利がそれぞれに違った問いを投げかけ、それに対して、9名の菩薩が偈を以って答え、最後に9名の菩薩から、文殊師利に問いを投げられ、それに対して、文殊師利が偈を以って答えるという作りになっている。(ここでも、9の菩薩とのやり取り+文殊と9名の菩薩とのやり取りという合計10のやり取りが行われ、華厳経に流れる数字のモチーフである”10”が、きちんと踏襲されている。)
個々のテーマ(文殊師利の問い)を、それぞれ別の菩薩へ、問いを投げかけているという場面は、禅問答のような緊迫感が伝わってくるというものではなく、なにか、もっとゆったりした中で、文殊が考えたことに対して、各々の菩薩はどのような意見を持っているのかを、確認でもするような感じを受ける。(お茶の写真を選んだのは、車座になって、菩薩らがお茶でも飲みながら、ゆったり意見を交換している、勝手なイメージを持ったからである。)
木村清孝先生は、この場面を次のように評している。
この、木村先生が「十分に堀り下げられていない」という点にこそ、厳格な問答ではない、むしろ、菩薩同士がお互いの意見を聞き合うような場面を想像したのである。
むしろ、私は、この「菩薩明難品」では、一が多となるが、実は根底では一であるという点が協調されているように思える。以下、代表的な偈を上げてみよう。
上記以外のやり取りの中にも、内容には直接的に表現されていないものの、婉曲的には、一が多であり、多の根底は一であることが示されているように思える。
華厳経の教学の十玄門では、このことを以下のように説明している。『国訳大蔵経』の衞藤即應先生の解説ではさすがに時代が経ってしまい、当方の理解が少し及ばないため、玉城康四郎先生の解説にて、端的に確認したい。
われわれは、常に独立した存在であるが、やはり、世間・社会・周囲の人々と関係した存在となっている。その関係性の中で、自身の気持ちや思いをどのように守っていけるのか、流されず、かといって、自分ばかりに固執せずにいるには、どのようにすればよいのだろうか。2巡目のここに来ても、まだトンネルの先は見えていない。
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