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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中9

「菩薩明難品」

ひとつ前の、「如来光明覚品」にて、仏の元に来詣に訪れた十方の国々の菩薩(〇首菩薩)らと、文殊師利とのやり取りで、終始しているのが、この「菩薩明難品」である。

菩薩の名前が、〇首菩薩と”首”の漢訳が共通しているのは、音が一緒だったのだろうか、或は意味が一緒だったのだろうか。漢訳の元の表記(サンスクリット)を確認することが出来ず、残念ながら2巡目にしても、確たることが分からないままとなってしまった。

この品の構成としては、9名の菩薩に対して、文殊師利がそれぞれに違った問いを投げかけ、それに対して、9名の菩薩が偈を以って答え、最後に9名の菩薩から、文殊師利に問いを投げられ、それに対して、文殊師利が偈を以って答えるという作りになっている。(ここでも、9の菩薩とのやり取り+文殊と9名の菩薩とのやり取りという合計10のやり取りが行われ、華厳経に流れる数字のモチーフである”10”が、きちんと踏襲されている。)

個々のテーマ(文殊師利の問い)を、それぞれ別の菩薩へ、問いを投げかけているという場面は、禅問答のような緊迫感が伝わってくるというものではなく、なにか、もっとゆったりした中で、文殊が考えたことに対して、各々の菩薩はどのような意見を持っているのかを、確認でもするような感じを受ける。(お茶の写真を選んだのは、車座になって、菩薩らがお茶でも飲みながら、ゆったり意見を交換している、勝手なイメージを持ったからである。)

木村清孝先生は、この場面を次のように評している。

 「それらの問答を見ますと、中には十分に掘り下げられていない問題もあ
 ります。〔中略〕深刻な問いが提起されますが、これに対しては、〔中
 略〕ほとんど一般的に説明するだけに終っております。〔中略〕正面か
 ら受け止めようとした形跡は見て取れません。」


木村清孝,『華厳経入門』,KADOKAWA(角川ソフィア文庫),2015,pp.112-113

この、木村先生が「十分に堀り下げられていない」という点にこそ、厳格な問答ではない、むしろ、菩薩同士がお互いの意見を聞き合うような場面を想像したのである。

むしろ、私は、この「菩薩明難品」では、一が多となるが、実は根底では一であるという点が協調されているように思える。以下、代表的な偈を上げてみよう。

 「譬えは〔ママ〕大地は一なれども、能く種々の芽を生じ、彼に於いて怨 
 親無きが如く、仏の福田も亦た然なり。」
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.259-260

 「文殊よ、常爾にして法王は唯一法なり、〔中略〕一切諸仏の身は、唯是
 れ一の法身にして、一の心、一の智慧、力無畏も亦然なり。」

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.266-267

上記以外のやり取りの中にも、内容には直接的に表現されていないものの、婉曲的には、一が多であり、多の根底は一であることが示されているように思える。

華厳経の教学の十玄門では、このことを以下のように説明している。『国訳大蔵経』の衞藤即應先生の解説ではさすがに時代が経ってしまい、当方の理解が少し及ばないため、玉城康四郎先生の解説にて、端的に確認したい。

 「一多相容不動門。一も多も互いに含み合って、一の中に多が有り、他の
 中に一があり、しかも一は一、多は多である。私もあなたも彼も全部互い
 に交わり合っていながら、しかも私は私、あなたはあなた、彼は彼で
 す。」


 玉城康四郎,『スタディーズ 華厳』,春秋社,2018,p.204

われわれは、常に独立した存在であるが、やはり、世間・社会・周囲の人々と関係した存在となっている。その関係性の中で、自身の気持ちや思いをどのように守っていけるのか、流されず、かといって、自分ばかりに固執せずにいるには、どのようにすればよいのだろうか。2巡目のここに来ても、まだトンネルの先は見えていない。





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