見出し画像

『華厳経』睡魔・雑念 格闘中8

「如来光明覚品」

正直、1巡目は、読み飛ばしてしまったのか、この品が”両足の相輪より放たれた、光明に照らされている場面”であることを理解していなかった。

木村清孝先生は、『華厳経入門』の中で、李通玄居士と、明恵上人との名前を挙げ、この場面での光明について次のように述べている。

 「この章〔「如来光明覚品のこと」〕は実践的視点からも見逃すことので
 きない意味をもっております。〔中略〕ここに示される仏の光の増幅・拡
 大の有りさまを静かに観察することが瞑想を深める有効な方法の一つにな
 りうるからです。〔中略〕唐代の李通玄がそれを『仏光観』と呼ばれる観
 法として大成し〔中略〕明恵上人高弁は、後年この仏光観を自己の実践と
 て取り込み、新しい宗教的境地を開かれたのです。」

木村清孝,『華厳経入門』,KADOKAWA(角川ソフィア文庫),2015,p.111

この明恵上人の実践について、玉城康四郎先生は、次のような感想を述べられている。

 「明恵上人は宗教体験をしばしば会得されました。光明三昧ですね。仏の
 光の渦の中に巻き込まれていく、そういう体験が明恵上人の宗教的体験の
 特徴なのです。」

玉城康四郎,『スタディーズ 華厳』,春秋社,2018,p.167

ここで、話題に挙がっている”仏光観”とは、なんであろうか。それについて、前川健一先生は次のようにまとめている。

 「仏光観は『華厳経』「光明覚品」及び李通玄の所説に基づき、毘盧遮那
 の足下から発する十方を照らす光を十重に観察するものである。」

前川健一,『明恵の思想史的研究 -思想構造と諸実践の展開-』,法藏館,2012,p.160

 「仏光観では仏の放光に沿って十方の一切を空と観じ、さらに最後に観察
 している自身の心を空と観じる」

前川健一,『明恵の思想史的研究 -思想構造と諸実践の展開-』,法藏館,2012,p.164

前川先生のまとめ方からするに、一種の”空観”(空を観ずる行)であろう。

1巡目で、光の世界が果て無く続く様子は分かっていたものの、当然そのようなイメージの中に、体感として自分の意識を置くことなどできず、残念ながら、2巡目にしてさえも、文字面を追うばかりである。

私自身は、李通玄居士、明恵上人などがこの場面で感得した”光明”とは違い、以下の自分自身のことを述べているような、文殊師利が頌した以下の偈が気になった。

 「生死の流れに漂浪し、愛欲の海に沈淪し、痴惑は重網を結び、昏冥にし
 て大いに怖畏す。〔中略〕世間の諸々の放逸なるものは、長く迷うて五欲
 に酔い、非実に妄想を興し、永く大苦の障と為る。〔中略〕彼の苦の衆生
 は、孤煢〔こけい〕にして救護無く、永く諸々の悪趣に淪み、三毒恒に熾
 んに燃え、間無く救う所も無く、昼夜常に火の焚ゆる」

   〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.246-247

文殊師利が、全身とその心までを写すような鏡をこちらに向けて立っていて、自己の姿を写されているようである。ガマの油の話では無いが、タラりタラりと、冷や汗が垂れてくる。(ガマの油は、傷に効くが、この冷汗は、残念ながら、何の役にも立たないであろう。)

このような、いわゆる衆生の状況に対して、文殊師利は、10回に渡って、梵行〔ここでは、衞藤即應先生による脚注では、菩薩行とされる〕について頌しているが、そのうちの分かりやすい5回目の偈の中から幾つか挙げてみたい。

 「一向に如来を信じ、其の心退転せず、諸仏を念ずることを捨てざれ、
 〔中略〕仏法の流れを退かずして、善く清涼の慧に住せよ〔中略〕四威儀
 〔四事:行・住・座・臥〕の中に、仏の深き功徳を観じて、昼夜常に断ぜ
 ざれ〔中略〕身の如実の相を観じ、一切皆寂滅にして、我非我の著を離れ
 よ」

  〔旧字体を新字体に改めた。〕

 『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.237

菩薩についての定義は、研究者、或は読み手、お経の文脈などにより、様々であろうが、ここでは、私は、”菩薩”=”仏に憧れ、その徳に少しでも近づこうと努力する衆生”と定義したい。

仮にその定義をそのまま利用させてもらうと、衆生としては、文殊師利が10回に渡り頌しているような、菩薩行(この場面では特に、”如来〔ここでは盧舎那仏であろうか〕への信”)を基に行っていくことがその答えになるのであろう。

とは言え、なかなか凡夫の身としては、「言うは易く」といったところなのだが・・・。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?