『華厳経』睡魔・雑念 格闘中8
「如来光明覚品」
正直、1巡目は、読み飛ばしてしまったのか、この品が”両足の相輪より放たれた、光明に照らされている場面”であることを理解していなかった。
木村清孝先生は、『華厳経入門』の中で、李通玄居士と、明恵上人との名前を挙げ、この場面での光明について次のように述べている。
この明恵上人の実践について、玉城康四郎先生は、次のような感想を述べられている。
ここで、話題に挙がっている”仏光観”とは、なんであろうか。それについて、前川健一先生は次のようにまとめている。
前川先生のまとめ方からするに、一種の”空観”(空を観ずる行)であろう。
1巡目で、光の世界が果て無く続く様子は分かっていたものの、当然そのようなイメージの中に、体感として自分の意識を置くことなどできず、残念ながら、2巡目にしてさえも、文字面を追うばかりである。
私自身は、李通玄居士、明恵上人などがこの場面で感得した”光明”とは違い、以下の自分自身のことを述べているような、文殊師利が頌した以下の偈が気になった。
文殊師利が、全身とその心までを写すような鏡をこちらに向けて立っていて、自己の姿を写されているようである。ガマの油の話では無いが、タラりタラりと、冷や汗が垂れてくる。(ガマの油は、傷に効くが、この冷汗は、残念ながら、何の役にも立たないであろう。)
このような、いわゆる衆生の状況に対して、文殊師利は、10回に渡って、梵行〔ここでは、衞藤即應先生による脚注では、菩薩行とされる〕について頌しているが、そのうちの分かりやすい5回目の偈の中から幾つか挙げてみたい。
菩薩についての定義は、研究者、或は読み手、お経の文脈などにより、様々であろうが、ここでは、私は、”菩薩”=”仏に憧れ、その徳に少しでも近づこうと努力する衆生”と定義したい。
仮にその定義をそのまま利用させてもらうと、衆生としては、文殊師利が10回に渡り頌しているような、菩薩行(この場面では特に、”如来〔ここでは盧舎那仏であろうか〕への信”)を基に行っていくことがその答えになるのであろう。
とは言え、なかなか凡夫の身としては、「言うは易く」といったところなのだが・・・。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?