最近気づいたこと 5/2

 家の下の公園で、小学生古来の姉妹がボール遊びをしているのが目に入った。姉は高学年、妹は低学年、歳の差は3~4歳くらいのように思えた。

 普段からこのように小学生の姿を観察しているわけではないのに注意していただきたい。この時、我が家の階下の公園でボール遊びをしているというのは音で気づいていたけれども、さして気になるようなこともなく、窓際の部屋で独り本を読んでいたのであった。

 突然、下から金切声のような、悲痛な叫び声が聞こえてきた。姉が「ひどいよ!!」としきりに言っている。耳を傾けてみると、どうやら、妹の方が近くにいた小鳥にボールをぶつけたようだった。それも姉の声の抑揚から察するに、恐らく故意に行われたものだった。

 姉の執拗な「なんでそんなことをするのか」といったような詰問の連続に、妹はほとんど無反応である。時にボールをバウンドさせながら、姉の話をまさに遊び半分に聞いている。休日の家から見える風景にしては、異様な雰囲気であったので、私はそれをどうにも忘れることが出来ず、ここに一筆したためているわけなのだ。

 幼児期ならではの残虐性というのは、誰しもが経験があるはずである。特に蟻や害虫の類などは面白がっていくらでも殺す。大人も蚊や蠅を殺すが、幼児期の場合、そこにほとんど抵抗がない。無邪気や無垢だともいうことが出来るが、この場合はその言葉に抱く豊かで創造性あふれるイメージとは対照的であろう。誰もそこに愉快なイメージは抱かない。そこには今まで命の在り方というものを一顧だにしてこなかったある種の無知、低次の不分別的思考がある。我々の外に、命が成り立つ摂理を知らない。命を殺めるという行為が罪の意識の浮上を許さないのは、人間外の命の営みという現象に対して、未分化であるからなのだ。

 しかし、そこは大きな問題ではない。いずれ成長していくにつれ、その種の摂理は、遅かれ早かれ気づいていくものである。それに、ここで扱うには、その話題は私の手に余る。私がこんなことに手を取ったのは、妹の行為に対してあまりに姉の怒りが大きく、印象に残ったからなのだ。なぜ、それほどまでに、妹の行為を責め立てるのか。

 それがわからないというのではない。直感的には、むしろ理解できるものである。鳥という生き物を殺めるということを視覚的に想像してみてほしい。そのリアリティは、如何ほどのものであるかを。

 鳥は、犬猫に次いで愛玩的イメージを与えられている生物であろう。我々が鳥という生物に抱くイメージは、流麗であり、大空を自由に飛び回るような積極的なものだ。時に人は「羽ばたけ鳥よ」といって新天地に踏み出す若人にエールを送ったりする。あるいは、宗教的イメージならば、鳥は神の使いであり、また人の魂が具現化したものであるかもしれない…。

 虫けらを殺すというのと、鳥を殺すというのでは以上のようなイメージからか、あるいはほかの理由からか、罪の意識に大きな差を伴う。妹が殺したのがむしであったなら―それこそカブトムシ大の虫であっても―罪の意識は姉に感化されなかっただろう。

 姉の怒りは鳥という生物を、成長に従って構成された、分化された鳥イメージによって、つまり他との区別された存在としての鳥を侵害されたからこそのものであり、それはある意味でもっともな怒りである。しかし、そのメッセージは妹にはなかなかに伝わらないだろう。先に述べた通り、妹の世界の見方は未だに未分化であり、したがって虫を殺すことと鳥を殺すことに一切の差はない。そして、それは当然だという自己の世界を生きるのが幼児である。命の価値を極端な平等観でもって操るこの振る舞いを、悪と断ずることは、決してできない。この価値観が是正—それは必ずしも正しい方向ではないのかもしれない―されるには、ひとえに当人の成長に期待するしかない。

 姉の構成された差別相も、妹の無知による無差別相も、楽園を追放される以前以後のアダムとイブの日常への顕現である。我々は常にその現在と共に生きることを宿命づけられている。

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