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『ヒート』は私の思う完璧な映画

映画というものは画面によってその場その場を伝える芸術。誰が言ったか、或いは書いたのか忘れたけど曰く”映画において言葉は最もヒエラルキーが低い表現"だと。そもそも映画の始まりは無声映画という音声がないもの。駅に電車が入ってくるという一つのシークエンスが映画の起源なんだ。そこには映像表現のすべてが込められてる。駅のホームの横に据えたカメラ。奥から迫り来る電車。吐き出す煙。降りる人々。それを見れば人は、例え音がなくとも何が起きているのかすぐさま想起できる。今ではスマホで誰もが撮れる映像だが、本来そこには音がなくたって人は何が起きているのかわかるんだ。その表現を感じて想起することが出来るから。

全ての映画はそこからの発展系と言えるが、今では映画内では言葉は必要不可欠な要素だ。昔とは違い、表現できるものが格段に増えた。いや、それすらもすでに昔なのだが、まぁいいや。
でも、今の映画には言葉が多すぎると思う。コミュニケーションの描写としての言葉は映画内に存在しても何らいうことはない。けど、因果関係の説明やら何やらに言葉が使われるのは、それは映画としてはどうなのだろうかと、いつも考えてしまう。個人的には気分が削がれるものだと思う。
「ドンデン返し系」の映画がよくある。大抵が散々引っ張って、最後にそれまでの諸々のシーンを言葉で誰かがペチャクチャ言って、それで幕引きだ。それはダメだろと、私は思っちゃったりする。

「ヒート」はその点、完璧な所業をしている。95年の映画だから、そら言葉は存在してる。当たり前だけど。でもその言葉の使い方を監督のマイケル・マンはこれでもかというほど熟知してる。基本的には映像で物事の推移を表現するし、キャラクターの感情もそれで表す。
「肝心な時ほどダマる」というのを徹底して行っているのが「ヒート」という圧倒的名作であり、マイケルマン監督の美学の一つ。
今のスタイルで映画を作るのなら参考にするべき映画は「ヒート」なのは間違いないと思う。
上に挙げた画像はすべてが映画的演出に満ち満ちたシーン。
何たって、こんな映画が撮れちゃうのかはわからない。けど理想だね。自分が映画を撮るとしたらこれほど理想とするものはない。生涯の映画だよ。

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