私が恋をしない理由

お久しぶりです、牡丹です。ふと、昔書いた文章が目に留まったのでいろいろ思うこと、以前の私に対する今の自分からの解答を粛々と書いていこうと思います。

以下、原文ママです。私怨がすごいので閲覧注意となります。

恋は因果律さえ無視したゴミ現象
突然ビックリさせるようなことを書いてゴメンね。でも、妖精さんたちにだって色々言いたいことがあるんだ。
最近、街中でよく仲の良い男女を見かけるんだけど、人間たちは皆これを恋愛だとかそう呼んでいるそうだね。でもそれは私たち妖精にとって最も理解し難く、またナンセンスでエロティックで非活用的なんだ。どうして宇宙に進出することさえできた人類が、そんな悪いものに拘るのか不思議で仕方ない。
まず、妖精界での恋の解釈について説明するね。恋が発生するための条件は、男女が存在すること。(命題:男女が存在する時、恋が発生する)
でも、男女が存在するからといつて、恋が絶対に発生するとは限らないよね?そこが腹立たし……えっとね、つまり数学的に言えば必要条件であるんだけど、十分条件とは言えないよね。完全な条件にするためには、必要十分条件でなければならない。でも恋が発生するための必要十分条件は妖精界でも全然分からないんだ、ゴメンね。
数学的に無理な面はあるけど、物理的化学的にはどうかな?恋が発生する時には、人間はフェニルエチルアミンという合法ドラッグ(嫌味満載)をホルモンとして分泌するみたいだよ。フェニルエチルアミンは、中毒性や精神作用が強く、チョコレートに多く含まれているよ。でも、だからといってフェニルエチルアミンを大量に摂取すれば恋が発生するわけでもないみたい。おかげさまで物理的化学的にも恋の実態を捉えるのは難しいんだ(皮肉100%)。
じゃあ、何で恋なんて発生するのかな?もちろん恋の最終目標は、子孫繁栄のため生殖活動を行うことだよね。でもそれが理由だとしたら、どうしてみんな恋人を選ぶのかな?誰だっていいなんて人間そんなこと思わないでしょ?だから(論理的でなく感情的な文章なので少し省く)。
生殖活動が最終目標なんだから、生物学的に考えると、遺伝子が関与している可能性が高いと妖精界では推測されているよ。遺伝子に元々数値のようなものが刻まれていて、人は無意識的にこれを読み取り、その数値が近いほど仲良くなれると考えられているんだ。これは妖精界でも最も有力な説。
でもやっぱり納得いかない!異性と数値が極端に離れていたら、それはもう生まれつき恋人ができないようなものじゃない?ふざけんな!恋人を自慢する奴は生まれつきの自分の遺伝子を自慢しているのでは?何かそれって腹立たしくない?ていうか生まれつきっていうのがそもそも理不尽じゃない?だから恋は悪いものだと捉えることができるんだ。そりゃ遺伝子に恵まれる人たちは良いと思うかもしれないけど……それって、独裁政治の政治家の気分とか、絶対王制の王様の気分とか、そんなのじゃない?
恋は、妖精界では忌み嫌われるもので精神的な病気として扱っているよ。また、妖精捌意にも恋は全ての悪の中で最も悪いものの一つとしている。結論を言わせてもらえば、妖精さんにとって恋は因果律さえ無視するゴミ現象だね。未だに恋人を求めてる方、明らかに賤しいし、それに……妖精力低すぎない?(2015.1.1)

当時の自分は恋愛というものに対して相当な恨みを抱いていたようです。友人と何度か恋愛云々の話で拗れたというのが原因だったと記憶しています。とりあえず、この過去の私の文に対して解答を述べていきます。

まず本文で言いたいことは題目にもある通り、恋愛というものが因果関係で説明のつかないような実害的な概念であるということだ。実害という点では自身が経験したこともありケース次第ではそうであると言えるのだが、因果関係を無視しているという点には疑念を抱く。当時の自分からすれば何がどうなってそうなるのか説明がつかずムシャクシャしていたのだろうが、説明がつかない、というのは間違いだと思う。これには今の私から説明を簿ベル必要がありそうだ。

恋愛というのは、やはり人間の性的な欲求に起因する。それは異性対象であることは勿論、同性に対しても起こり得る。この欲求は普通、外に対して向けられる。汚い言い方をすれば、男性も女性も、思春期であれば周りの人間をいやらしい目で見ていることになる。だがそれは人間の生殖本能によるものなので仕方ない。ここで、当時の私が思っていたことは、じゃあ異性なら誰でも良いのでは?という甚だしい疑問である。普通の生物の規則でいけばそうであるが、人間には知性があるため規則が通用しない。たぶん、猿みたいな類人猿みたいなのもそれにカテゴライズされる。人間は、その知性を使って、周りの人間を評価している。顔が良いとか、スポーツができるとか。私の経験上では、勉強の良しあしはおそらく評価基準に含まれていない。簡単に言えば、男はスポーツができる子がモテる。女は顔が綺麗な子がモテる。たったそれだけの結論だ。
ここで一旦、評価値の高い上位層の人間のパートナーが確約される。次に第二陣で思春期から一歩遅れてパートナーが確約されていく。こちらは中高の学生時代では一歩及ばなかった者たちが、大学や社会人でパートナーを探索し発見するという。評価水準は見直され、顔はもちろんの事、稼ぎが良いとかコミュニケーション力とか幅広い観点で評価される。ここでも勉強の良しあしは評価されないらしい。また、私の観測上ではここで概ね全ての女性がパートナーの探索に成功し、確約される傾向がある。男性は生物学的に女性より少し多いので、余った層は奇跡でも起きない限りパートナーの探索は成功しない。ここで実は、女性にパートナー探索権が優先されていたりするが、それはまた別の話なので後に書く予定である。ちょっと裏付けるとすれば、性犯罪に手を染めて報道されるのが男性ばかりであるのもこの理屈から説明がつく。

ここまでは単純な仮説みたいな話であるが、実際に恋愛という概念のバリューを蔑視した当時の私は正しかったのか。実はこの答えはYESでもあるしNOでもある。大事なのはパートナー探索における評価基準の部分である。評価基準が狭いと、将来的に矛盾が発生したりと不具合が生じる。あるいは評価された部分は張りぼてで本質は薄っぺらなのかも知れない。教養がある者は、多くの評価基準を知っていて良いパートナー選択が可能となる。そして、人間は年を取るにつれ教養が深くなる傾向がある。これが現環境の晩婚化の背景であると私は考えている。

要約すれば、若い頃の恋愛ほどバリューは低い傾向がある。教養がある者の恋愛はバリューが高い。大半の人間にとってパートナー選択とは大事なパッケージであるため、その場のノリや雰囲気を重視せずに本質を見抜くことで、浮気とか不倫やらも未然に防げるのではないか、それから牡丹さんのように変な被害を受けるケースも低減されるのではないかと考えらえます。私は人間という枠組みの中で生きるのが少し負担が大きいのと、周りの人間をそんな感じに評価したくはないので、恋愛はしません。評価する、されることに縛られたくないんだもの。

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