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質問回答

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マシュマロに投げ込まれた質問回答集。 ↓質問はこちらから↓ https://marshmallow-qa.com/bot_miura9
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#日本史がすき

海路で軍を動かす場合、馬はどうするのでしょうか。

石橋山の記事は、これかの? 平安末~鎌倉時代の軍船については、文献も残ってないから、曖昧な記憶だが……。 大きな船なら馬も乗せられるだろうが、取引のある港ごとに馬を用意しておくという手もあるなぁ。 安房や伊東は三浦と繋がりがあるが、石橋山だと伊東は敵方になってしまったから、土肥あたりから上陸する予定だったのかもなぁ。 あ! あと単純に、馬は船に乗せるのではなく泳がすってパターンもあるな! 結構スイスイ泳ぐぞ!! ちなみに三浦には、夏に馬に乗って海を泳ぐ人気イベントが

胤義さんやご兄弟の矢の腕前は実際どのぐらいだったんでしょうか

兄弟で弓の記述があるのはオレと兄上ぐらいだが……兄上は流鏑馬や笠懸をした記録が何回か『吾妻鏡』にあるな。オレは『承久記』に出て来る。 まず流鏑馬(やぶさめ)というのは、神事。神様に奉納する儀式だから射手には「絶対に外さない者」が選ばれる。 笠懸(かさがけ)は競技。射手には「プロ中のプロ」が選ばれるのだ。 ちなみに、当時流鏑馬には年齢制限があった。40歳以上で選ばれることはほとんどないよ。 オレは『慈光寺本承久記』では京で一二を争う弓馬の上手と称されているし、 放っ

武士が名乗りを上げるシーンで「生年十七歳」と言っているのが何度も出てきました。年齢は申告(?)しなければいけないルールだったのでしょうか?

武士の名乗り、年齢を名乗る場合と名乗らない場合はぶっちゃけノリかのう……。初陣じゃなくても年齢入れる場合もある。 ちなみにな、義茂の「生年17」、実は「おいおい」なんだ。 義盛・義茂の父である杉本義宗が亡くなったのは1164年の1月。 当時の年齢は数え年なだから、衣笠城合戦の時(1180年)生年17だとちょうど満年齢は16歳で、1164年生まれになってしまう。 ん? ならギリギリ生まれてる可能性があるって? 実はな、義茂の下に弟だけでも5人ぐらいいるんだ。 だから義

藤原秀康殿が和田氏の血をひいているのは本当なんですか?

藤原殿が和田の血筋ってのは、たしか平岡豊殿の論文、「藤原秀康について」か、 大和典子殿の「承久の乱における京方武将藤原秀康とその周辺」に書かれてる。 関幸彦殿の「承久の乱と後鳥羽院」もチェックしてくれ ちなみに本人は 「坂東武者の血が流れてても、京生まれ京都育ちの京武者ですし。弟と一緒に盗賊を捕縛した時は、「血がたぎる」というものを経験したつもりでしたが……ダメでしたね。 やはり血ではなく実践的訓練が大事ですよね。血筋は頼るのではなく、利用するものですね!」 だ

義村様以外のお兄様方のことも知りたいです。教えて下さい。

じゃぁ、有綱兄と、重澄兄の事を語ろうか。 まずは有綱兄は、山口次郎。今の葉山の山口にいた。御家人ではあるんだが、本職は伊豆半島との貿易業。建久6年の頼朝様上洛に従っている。 記録にはあんま残ってないけれど、数少ない記録で「公家ウケがすこぶる悪い」って残っててさ…吾妻鑑の建仁2年(1202)10月29日条。御所で蹴鞠しようとして、京の蹴鞠名人を呼んで、準備したんだけど……なんでか兄貴にだけ難癖つけてきたらしくって……めっちゃキレてた。 重澄兄は、大河戸重澄。何男なのかはわ

今のお酒と鎌倉時代のお酒、どう違うの?どっちが好きですか?

鎌倉時代の酒は……製造方法というか原理? は同じようなものなんだがな、発酵期間が短くて、味がちと薄くてなぁ……。 熟成して血のように赤い程高級品だった。 純粋に味を比べたら、現代に軍配が上がるだろうなぁw

三浦さんちが安達さんちにあそこまで恨まれたのは、誰がなにをした所為なのでしょうか?心当たりはありますか?

兄上が何かしたんじゃねーのー?(ハナホジ まぁ真面目に言えば、安達は執権の外戚で、三浦はそうじゃない。 そうじゃないのにNo2ポジにいる。 脅威に思ったんじゃねーかな

三浦一族はどの時点で誰がどうすれば滅ぼされずにすんだと思いますか?

「安達景盛殿が高野山から降りてこなかったら」かなぁ。

三浦家の通り字は「義」だと思っていたのですが三浦義村の子から突然「村」になってますよね?通り字が変わることって、よくあることだったのでしょうか?

通字は付き合いの濃い家が変われば変わるから、よくあると言えば、よくある……。 例えば足利氏も源氏三代が終わった後は、義氏殿の「氏」の字が通字になったし……。 ただ、なぜ兄上の子から「村」が通字になったのかはわからない。むしろ兄上の「村」はどこから来たのかもわからない。 ちなみに義の通字はオレの子が引き継いでいるよ~。 とまぁこんな感じかのう? 他にも質問があれば、随時受け付けてるぞ~

鎌倉北条氏に滅ぼされたのに、復活できたのはどのあたりがキッカケなのでしょうか

ふむ、まず宝治合戦で全滅……というわけではなく、一部北条の味方をして生き残った分家がいた。 それが、兄上の娘・矢部禅尼と佐原盛連の子たちだ。佐原盛時が宝治合戦後に三浦介を名乗っていた。……といっても、戦力はかなり削られてしまってのう……。北条からは「三浦は三浦半島から出てくんな」と言われていたらしい……。 で、鎌倉滅亡時に足利尊氏に味方して、戦力が復活。戦国時代へ続くというわけだ。 とまぁこんな感じかのう? 他にも質問があれば、随時受け付けてるぞ~

結城朝光さんと仲がよかったというのは、どのあたりの史料に詳しくのっていますか?

兄上と結城朝光どのの事は『吾妻鏡』だな。 正治元年(1199)10月27日条まずは梶原景時殿追放事件の前哨。正治元年(1199)10月27日条。 讒言された結城朝光殿が兄上に相談した理由がこう書いてある。 断金(だんきん)の朋友とは、金属をも断つ固い友情で結ばれているという意味だ。 宝治元年(1147)6月29日条宝治合戦の後、結城朝光殿が「自分が鎌倉にいれば絶対に三浦をほろぼさせなかった」と泣いた話が載っている。 その時の結城殿の紹介文がこちら。 知音(ちいん)

承久記が軍記物語でありながら史料価値を認められているのはなぜでしょうか?

まず、承久記はいくつかの類系があるんだ。 だいたいは以下の四つになる。 慈光寺本承久記 前田本承久記 古活字本承久記 承久軍物語 史料として評価されているのは、慈光寺本だ。 何故、慈光寺本が史料として評価されているのか。 それは野口実氏の『慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察』という論文が、承久の乱あたりの中世史研究者に高く評価されたからだ。 なので読んでみればこの質問の答えは全て書かれているワケだが……ざっくりと説明してみるぞ! 慈光寺本の成立年

三浦氏の源平合戦での活躍について教えてください

おっけー、ザックリ行くよー まず、どこから源平合戦かっつったら、まずは以仁王かなー。 以仁王の挙兵と三浦この時父上は大番役で京にいて、数年ぶりもうすぐ帰れる! って頃だった。 そのタイミングで以仁王が挙兵なさって、帰るのが延期になる。 父上のその時の心境たるや、想像するだけでオレも泣きそう……。 以仁王の戦いの激戦区は宇治の方で、父上は洛中の警備だからほぼノータッチ。任期が終わって、三浦に帰る途中に頼朝様と会った。 ここでどう説得したのか、頼朝様は挙兵を決意!父上は

後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣は倒幕目的だと思いますか?

ふーむ、難しい問題だが……。オレ個人の回答としては「思わない」だな。 そう思う根拠はいくつかあるんだが、単純な所でいえば、後鳥羽院は都の警備をほぼ鎌倉幕府に頼ってたんだ。 北条時政の代の時に、将軍をバックアップしてやっから代わりに警備員よこせよって感じの契約を交わしていた。 だからそう考えると、いつもの #だいたい時政のせい って奴だな。 だからなのか、後鳥羽院……というか、朝廷は幕府の軍事力はうちの軍事力と思ってたフシもある。 そこら辺がやっぱ東国と朝廷の意識の違