死に向かう存在ということを意識する年齢になってしまった
昨日は仏アレさんの読書会などもあったが、十分に勉強時間を取ることができた。その要因のひとつは阪神の試合が雨天中止になったことである。
本日は無事に甲子園でのヤクルト戦は開催された。先発のガンケルは期待通りにクオリティスタート、打線も10点もぎ取ったが、中継ぎが今日はイマイチで結局、岩貞、岩崎、スアレスの勝ちパターンを投入せざるをえなくなった。まあこういう日もあるよね。
昨季を最後に能見さんや藤川球児などかつて虎党の胸を踊らせた選手たちが去っていった。しかし佐藤輝明や中野くんらルーキーの活躍でチームは好調である。
プロスポーツは人間の入れ替わりのモデルのように思えることがある。老兵は去り新人が加入する。人類はそうやって命や文化をつないできたのだ。
そういうことを考えていると、どうしても人間は死に向かう存在であることを意識せざるを得なくなる。
例えば英語の勉強を毎日コツコツ続けていると、1ヶ月後にはわずかかもしれないが確実に成長しているだろうと予想できる。しかしそれは同時に死に近づいていることも意味している。いずれ死んでしまうならこの世になにかを残せたらと思う。当たり前だが、それはけっして単に長生きするということではない。そして多くの人の場合、子孫を残すということであると思われる。
死とか大げさなことじゃなくても感性は確実に衰えていると感じることも多い。
昨日の記事で少し触れた白饅頭さんのキャスのことだ。40過ぎてフワッとズレたことを言う痛いおじさんにはなりたくないという言葉が印象に残った。
私も40過ぎてるから、たまに痛いことを言ってしまっていることもあるだろう。
昨日の白饅頭さんの記事で最近の若者の主流はマイクロ共同体主義だとあった。彼らはリベラリズムを内面化しており、メディアを騒がせるような極端な、押し付けがましいリベラルには忌避感があるというのだ。まあここまではわかる。が、どちらかというと自民党にシンパシーがあり、安倍晋三などはかわいいおじさん扱いというのである。意味不明である。
私が歳を取ってしまって若い感性を理解できないのだろう。白饅頭さんはおそらく30代前半だろうから、まだまだ共感できる部分もあると思われるが、彼とて私くらいの歳になればわからなくなるのではないか。本人にもそういう予感はあるから上述の発言につながっているのだろう。
そもそも若者はマイクロ共同体主義的なのだろうか。私も職場で20代の人間と接することはあるのだが、職場では業務のことと阪神タイガースの話しかしない。だから彼らの政治的スタンスとかわからない。もちろんチームとしてしんどい業務をこなしていこうという心意気を感じることはあるし、それこそマイクロ共同体主義の発露なのかもしれない。
もちろん若いから正しいというわけではない。亀の甲より年の功という面もある。だが生殖という意味で命をつないでいくのは彼らであって、老人ではない。まあ私はまだ老人のつもりはないけど、そういう命の営みをしたり顔で邪魔するような残念な老人にはなりたくないと思うのであった。
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