見出し画像

カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』読んだ

この記事の続き。

コメント欄でThe order of timeを読んでみてはどうかと提案をいただいた。ぜひ読んでみたいと思ったが、邦訳があるのでそちらを読んだ。

Kindle Unlimitedでした。ラッキー

イタリア語の原題も英語と同じく、L’ordine del tempoなので時間の順序というほどの意味だ。
これは「事物は必要に応じて、ほかのものに変わる。時間の順序に従って、正義となる」というアナクシマンドロスの言葉からとられたものらしい。
ということを考えるといかにふざけた邦題かわかる。当然ながら訳者ではなく出版社の問題である。

本書ではしばしばアナクシマンドロスが引用されるし、著者はアナクシマンドロスについての本も出している。これも邦訳がほしいね。

つまり科学者とか物理学者というよりも、自然哲学者という自認なのであろう。このことの含意については昨日の記事を参照されたし。

それはさておき。

序盤では、相対性理論などにもとづいて、時間の流れは一様ではないことがつらつらと説明される。つまり「時間の順序に従って」事象がおこる古典力学的な世界観を否定してみせるのである。

もっとも運動方程式にも万有引力の法則にもマクスウェルの方程式にも一方向に流れる時間は規定されていない。なんなら相対性理論でもなんでも事情は同じである。
例外は熱力学第二法則だけである。本書で唯一登場する数式が熱力学第二法則である。

有名なエントロピー増大の法則である。自然は秩序や個性を失っていく方向に流れていく。
私たちが過去と呼んでいるもののほうが秩序だっている。

ただし著者によれば私たちの視界がぼやけているから、世界が特別に秩序だっていたり個性的にみえるだけらしい。

時間の流れを特徴づけているように見える事象があるのは、われわれの視界がぼやけているから、というのはにわかには信じがたい。

重要なのは、熱、温度、お茶からスプーンへの熱の移動といった概念を使って記述すると、実際に起きていることを曖昧に見ることになるという点なのだ。そして、このような曖昧な見方をしたときにだけ、過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる。

そもそも現在なんてのはかなりいい加減な概念だ。たった何光年か離れるだけでもう、現在を共有することは不可能になる。たった何光年かを光速のオーダーで移動するだけで、彼我の時間は大きくずれる。

これがアインシュタインが描いた世界観、不揃いな光円錐の羅列だ。

ただし現在は点ではなくて、ある程度の現在の幅があるだろう。少なくとも1/100秒よりは長そうだ。これに光速をかけると600kmくらいだ。半径600kmの範囲で現在を共有できることになるが、あまり現実的な数字じゃないね。。。

ニューロンの発火という(光速と比較して)トロすぎる機構を採用している人間の脳は、識別できる最短時間が長すぎる。。。だから非現実的な範囲まで現在が広がっているといえなくもないね。

さらに著者の専門であるループ量子重力理論の話になって、だんだんとついていけなくなるのであった。

とりあえず、現時点での時間の切り取り方では、時間の流れをエントロピー増大としてしか捉えられないらしい、ということはわかった。

終盤は難しい量子力学の話はなしで、哲学的思弁であるがこれも易しいとはいいがたい、、、でも面白かった。

過去の痕跡はあるが、未来の痕跡はない。未来は予期としてしか存在しない。様々な痕跡を残す過程の総体は記憶としてまとめられ、それは予期を生み出す源となるだろう、とのことである。。。納得できるが、その結論のために量子力学は必要だったのだろうか、、、と思わなくもない。

それはさておき、ここで先ほどの光円錐が、ベルクソンの記憶の円錐、あのドリルみたいに未来へ向かって侵食していくやつ(エヴァンゲリオンの使徒でそんなやつおったような)を想起させることに気付く。

著者は主にフッサールやハイデガーに言及するが、ベルクソンも意識している。

時間の謎は絶えずわたしたちを悩ませ、深い感情をかき立ててきた。そしてその深みから、哲学や宗教が生まれてきた。
思うに、科学哲学者のハンス・ライヘンバッハが時間の性質に関するもっとも明快な著書の一つ、『時間の向き( The Direction of Time)』で述べているように、パルメニデスが時間の存在を否定しようとし、プラトンが時の外側にある理想の世界を思い描き、ヘーゲルが、時間性を超越して精神が全き己を知る瞬間について論じたのは、時間がもたらす不安から逃れるためだったのだろう。(中略) わたしたちの時間に対する態度がひどく感情的であったために、論理や理性よりもむしろ、哲学という名の聖堂の構築が推進された。さらに不安とはまるで逆の感情的な態度、たとえばヘラクレイトスやベルクソンの「時間への畏敬」からも多くの哲学が生まれたが、それでもわたしたちは、時間の理解にはまるで近づくことができなかった。

そんな感じで著者は「わたしたちはこの広がり、ニューロン同士のつながりのなかにある記憶の痕跡によって開かれた空き地なのだ」という結論に達する。

その上で著者は、「この先に、理解するべきことがさらにたくさんあるとは思えない」から、主観的な時間、すなわちこの限りある貴重な時間を慈しむことにするらしい。

残念ながら、まだ私はそんな心境に到達していない。本書のようなわかりやすい、一般向け書籍に書いてあることすら十全に理解できない。まだまだ理解すべきことがたくさんある。

というか現代の物理学の教えるところは、あまりにも直観に反しているので、これを理解することは自分の脳との戦いになる。自分の脳を調教するには、もっかい古典力学から勉強し直すべきなのだろうか。。。


この記事が参加している募集

推薦図書

サポートは執筆活動に使わせていただきます。