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千葉雅也・読書猿他『ライティングの哲学』なかなか良かったです

英語で書く練習をしていると、上手な文章とはいかなる事態であるかなんてことをときどき考えてしまう。また最近、日本語も上手に書けたらいいのになと思わされる機会があった。

以前に友人に西田幾多郎の随筆集を勧められて読んだことがある。

西田は日本を代表する哲学者であるから文章がとてもきれいだ。しかも随筆なので、哲学書と違って私でも読める(正しく読めてるかは知らないが)。

感情の襞まで、冗長になることなく、伝えている。そしてとても瑞々しい。

初めて読んだときはすごいなあと思うだけだったが、いつしかこんなふうに書いてみたいと思うようになった。

そう思っていたところに、そのものズバリのニー仏さんのキャスがあったのである。

最終的には書き手の熱量がボトルネックになるという話だった。

とはいえ、まずは技術が大事であろうと思った。

ニー仏さんは、三島由紀夫とか谷崎潤一郎とか丸谷才一の文章術の本などをおすすめされていたが、哲学者西田幾多郎にインスパイアされたのであるからこんなものを買ってみたのである。

哲学者の千葉雅也氏、『独学大全』で有名な読書猿氏らの対談を中心に執筆にまつわるあれこれが書いてある。

結論から言うと、あまり哲学ではなかったし、一番知りたいいかに言葉を並べるかについてはほとんど言及がなかった。副題からわかるように、どのように書くかというより、まず書けるようになるには?ということに力点が置かれている。

とはいえ、非常に興味深く読めたのもまた事実である。

そもそも自由に書くのは難しいということ。だからいろいろな機能がついているWordはなるべく使わない、アウトライナーやテキストエディタ、Evernote、ときにはTwitterやツイキャスやマシュマロを使う。このnoteにしたって、文字修飾などの機能がほとんどないから書きやすいとも言える。

制約のさいたるものは締め切りだ。書いているともっと良くできると文章を彫琢してしまうものだが、どこかで切断処理しないといけない。そこで締め切りが一番わかりやすい切断ポイントになるわけである。読書猿氏は次のように言う。

実のところ、自分に対する要求水準の上昇は、執筆に対する高い意識がもたらすのではなく、ただ<完成させることを引き延ばす>という病の一つの症状にすぎない(中略)ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者かになれるはず」と無根拠に信じていなければいけない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足のついた努力はここから始まる)、書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けることから始まる。 

できないことはできない、自分に書けることしか書けないのだと割り切ることが大事らしい。

その過程ではいろんなことを断念することになる。せっかく調べたことも、途中まで書いたことも捨てることもありうる。

まあ私はまだそう言い切れるまで自分を追い込んだことがないのであまりわからない感覚ではあるが。

各種ソフトウェアの使い方も、すぐに真似しようとは思わないが、参考になった。インターフェイスは感性に如実に影響するという当たり前のことを確認できた。

文章術みたいなことからは程遠い本ではあったが非常に面白く、良い息抜きになったのであった。

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