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内田貴『法学の誕生』読んだ

ニー仏さんが強力におすすめされていたので読んだ。非常に面白かった。

主人公は日本に西洋の法体系を輸入(継受)した穂積陳重、八束の兄弟である。彼らは宇和島藩出身でなんとなく『坂の上の雲』っぽくもある。

陳重のことは知らなかったし、八束のこともたんに天皇制のイデオローグという認識しかしていなかった。しかし民法や明治憲法の策定に多大なる貢献をした、秋山兄弟に優るとも劣らぬ大立者である。

歴史家ではなく法学の専門家である著者が、日本が西洋の法や法学を受容しえたかを解き明かすという厄介な作業に取り組んだかは、あとがきを読むとなんとなくわかる。

著者は制定以来120年ぶりの民法の抜本的改正に法学者として関与する。

実務法曹、経済界、一般市民、官僚など、それまで私を「大学の先生」としてお客様扱いしていた人たちと、立法という利害打算の渦巻く政治プロセスの土俵の上で折衝することになった。そこで私が経験したのは、学問としての法学への評価の低さと実務重視の姿勢だった。学問的理由による改正に対しては強い拒絶反応が見られた。

非常にがっかりされたことがわかる。司法制度改革についても、

しかし、著名な法学者のリードで描かれた「この国のかたち」についての理想像は、改革を牽引するだけの支持を実務界から得ることができず、改革の中核を担うはずの法科大学院制度は行き詰まった。この点での司法制度改革の失敗は、実は、日本の法学の失敗だった。(中略)20世紀後半になって、西洋をモデルとする近代化を終えたとの意識が日本社会の中で暗黙のうちに共有された。それとともに、政府の政策の重点は、社会や法制度の「近代化」から、市場の運営へと移った。このとき、西洋をモデルに、日本社会を近代化するための目標提示の役割を担ってきた日本の法学のひとつの役割が終わりを告げたということができる。(中略) 司法制度改革は、これからの時代の法実務と、それに対応できる法学教育を構想したが、これこそ日本の法学が提示しようとした最後の理想だった。しかし、その理想は実務によって拒否された

太字は引用者

ネガティブな言葉が連発だ。

歴史的背景やもともとの理念が失われて、言葉が一人歩きして悲惨な結末を迎えたことは、穂積兄弟没後の日本をみればわかるだろう。もしかしたら現在もそういう危うい地点にいるのかもしれないね。

以下、チラ裏的な要約です。間違っているところもあると思われるので、興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。

明治日本と法学

明治維新後の日本の最重要課題のひとつが不平等条約の改正であった。その条件として西洋的な法体系の確立を求められていた。
手っ取り早いのは、すでにある欧米の法典をもとにお雇い外国人に起草させることだったが、もちろん当時のエリートのプライドには耐え難いことであった。

とはいえとにもかくにも欧米の法体系を学ばないといけないから選抜された俊英を留学させるのであった。

それ以前には江戸幕府は西周と津田真道をオランダへ留学させている。フィッセリングの自然法論の講義を受けたが、法学の基本概念を知るにとどまり、しかし日本の法学に直接影響を与えることはなかった

医学をドイツ(語圏)から学んだように最も発達した国が留学先として選ばれた。
法学については当初は英米仏の影響が強かったが、君主を戴く新興の峡谷ドイツの影響が圧倒的になっていく。ただし法学は「和魂」と関わる部分も多く、特定の国の法学をそのまま受容するのには抵抗があった。

アジアにも法はあった。江戸幕府もさまざまな判例法があったが、行政や裁判に関わる人達の目にしか触れないものだった。しかし東洋の法の多くは律令つまり刑法や行政法である。西洋法学の基礎となったローマ法のような民法ではない。
民法に相当するのは徳や礼かもしれない。

東洋では法学は軽んじられ、古典の解釈学に終始するか、実務に埋没した。これは法実証主義と親和性がある。

西洋ではギリシャ・ローマ以来、超越的な法の観念があったために、これを探求せんとする学問が興った。中世ではキリスト教の影響も強く、キリスト教の理解が必須であった。17世紀以降に関しては、啓蒙思想との関連が重要になる。

かように歴史と分かち難いのが法学であり、特定の社会とは独立に普遍性を追求しうる自然科学との大きな違いである。西周や津田真道など、初期に西洋の法学を学んだ人々はこのことに自覚的であった。

穂積兄弟

穂積陳重はイギリス、ドイツへ留学したのち、東京大学法学部教授、法学部長を歴任、民法、国籍法、刑訴法、信託法、陪審法などの起草・改正に尽力した。研究生活を欲して大学を辞した後も、公務からは逃れられず枢密院議長までやらされている。

弟の八束もまた東大教授をつとめた。憲法学者として、天皇を頂点とする家族的国家観のイデオローグとして活躍、リベラルな皆さんから蛇蝎のごとく嫌われることになった。

陳重は廃藩置県直前に宇和島藩の貢進生に選抜されている。貢進生とは明治政府が国家存亡の危機にあたり、各藩に最優秀の若者を差し出すよう求めたものである。

四国伊予の宇和島藩からは数え年16歳の陳重がエアラバレた。陳重は、晩年、枢密院の副議長に親任されたとき、そによってまた研究が滞ることに苦しみ固辞に固辞を重ねたが、結局、「自分の身は藩の貢進生に選ばれた時から国家に捧げられたものだ」という言葉を近親者に漏らして受諾したという。貢進生に選ばれた者の意識を窺わせる。

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当時のエリートの必須の学問は漢学すなわち朱子学である。朱子学の批判的思考は西洋法学を批判的に吟味するさいには大いに役立ったであろうし、また漢籍の素養は訳語の創出に寄与したものと思われる。

貢進生らは、漢学の教養の上に西洋の言語や学問を教授された。漢学のフィルターを通して西洋法学を学ぶのは、福沢諭吉が評したように「ひとりの人間が二つの人生を生きるように、またひとりの人間の中に二つの身体があるかのような経験」であったに違いない。福沢はこれを「今の学者の僥倖」ともいっている。

しかしこの稀有な体験をしたのは陳重らの世代までの短い期間であった。それ以降は陳重らから日本語で法学を学んだからである。

陳重の留学と帰国

陳重は大学南校、開成学校で学んだ後、イギリスへ留学、普通法・刑法学士位競争試験にて年間一人の一等学士に選ばるという、ありえないことを達成し一挙に名を挙げる。
しかしバリスターの資格を獲得するや、文部大輔にドイツへの転出を願い出る。法学ではドイツがリードしており、イギリスの法学教育改革もドイツをモデルにしていたからである。

1881年ドイツから帰国するや東京大学講師となり、翌年には東京大学法学部教授兼法学部長となる。なお弱冠26歳のことであった。

ちなみに設立当初唯一の日本人教授であった井上良一についても触れられている。日本人初のハーバードロースクール卒業生であった井上は若くしてアメリカに留学したために、日本語がエリートとしてはいまいちで、また日本の習慣にも馴染め難かったとかでノイローゼになってしまった。福沢諭吉が引き取って面倒をみていたが井戸に投身自殺したとか。

それぞれの地獄があるのだなあと慨嘆してしまうのであった。

穂積陳重は井上についで2人目の法学専門の東大教授となる。東大総理加藤弘之の指揮のもとドイツの影響が強くなっていく時代であった。

19世紀ヨーロッパの法学

19世紀後半は自由貿易から剥き出しの帝国主義へと転換する時代だった。明治維新はその間の絶妙な時期であり、またクリミア戦争、普仏戦争、南北戦争の時代はアジアを植民地にする余裕はなかった。

明治政府は列強がアジアを帝国主義的に分割しようとする情勢にあって、中央集権国家の確立、国民国家の創生を急いだ。

思想面では進化論、ベンサムの功利主義、ミルの自由論など新しい思潮が生まれていた。

陳重の留学したイギリスでは、コモンローと衡平法の裁判所が統一され、法学教育の改革が進んでいた。

また進化論的な比較歴史法学が注目を浴びた。これは西洋であれ東洋であれ、普遍的な進化の過程で法体系や社会を位置づけることを可能にしたため、当時の日本人にとって重要だった。

17,8世紀の啓蒙主義に端を発した自然法思想はフランス革命、ナポレオン戦争という悲惨な結末に至った。それに対する批判として法実証主義と歴史法学が登場した。

法に内在的に思考する法実証主義は、いまだ近代的な法体系を持ち得ていなかった日本人には訴求しなかった。和魂を強調する以上、快楽のみ計算すればいいという功利主義も受け入れ難かった。

陳重は歴史法学を受容するようになり、その本家がドイツであったことから転国したと思われる。
ドイツではナポレオン法典をモデルにドイツ民法典を制定すべしという主張もあったが、あまりにも民族性を無視しているとの批判から、歴史法学派のサヴィニーが勝利した。ドイツ人の民族意識の高まりもあったが、当時のドイツが39もの領邦国家に分かれていたという現実の前では統一法の制定は無理だった。

ローマ法以来の自然法と、啓蒙期の自然法論は明確に区別すべき。後者は、法は人間の普遍的理性から演繹的に導き出されるという発想で、明治初期には江藤新平などがフランス法を翻訳してそのまま導入しようとしていた。
もちろん陳重はその危険性を察知して歴史法学に共感していったのだった。

しかし帰国後の陳重には、日本から自生的に近代的な法ができるのを待つ余裕はなく、大急ぎで西洋式の法典を整備せざるをえなかった。そしてひとたび法典が成立するや、日本においても条文の解釈を重視する法実証主義が法学の中心となる。

不平等条約とナショナリズム

陳重が帰国した1881年はナショナリズムが高まる時代であった。彼は大津事件の裁判にも裏から関与している。なぜか本書は、大隈重信に爆弾を投げつけて自決した来島恒喜についてわりと細かく記述している。

そうこうしているうちに条約改正案が調印され、西洋式の法典の施行の期限も決まる。自然法思想に立つお雇い外国人のボアソナードが刑法、治罪法、民法を、レスラーが商法を起草した。ところが民法と商法は日本人が起草すべしという法典論争が起きる。

民商法は施行延期され、陳重らが起草することになる。しかし旧民法においても、慣習が重要と考えられる家族法については相当日本の規範に配慮されたものとなっていたし、また商習慣において日本固有の慣習法があったわけでもなく、条約改正にともなう時間的制約もあり、「必ずしも日本の慣習や国民意識を根拠にしたものではなかった」とのことである。
ローマ法や、プロイセン、オーストリア、バイエルンに既存の法典があった、ドイツの法典論争とは、前提からして様相が異なっていたのであった。

民法制定後、日本の法学は急速に法実証主義に舵を切ったが、陳重は五人組とか祖先祭祀のような伝統の研究に沈潜していく。公務と個人の関心のギャップには、慌てて作られた西洋風の法典に、いつか伝統を反映させたいとの想いがあったのではないかと私は邪推する。実際には120年も彼の民法はほぼそのままだったのだが。

隠居制度に関しては、早急な廃止には賛成しないものの、旧時代の遺物として捉えていたようにみえる。だが欧州における養老年金制度をみて意見を変更したらしい。すなわち、家族制社会において自活能力を失った高齢者は「家の隠居者」であるが、個人社会では「国の隠居者」となる。今では非常にやばい発想だが、当時の人口動態からすれば不自然でもなかったのだろう。

伝統に傾倒する一方で、法を動かす社会力や、現実に法が調和していくことにも関心を示した。

特に法の文体については興味深い。明治時代は書き言葉が混乱を極めていた時期でもあり、それが法にも現れている。律に相当する刑法などは漢文書き下し調で、憲法などの公法は厳しい文語、民法などの私法はより平易通俗な単語が使われた。
この3つの法系統で送り仮名が異なるという今では考えられない事態が普通だったようだ。

そして、漢学の影響が薄れるにつれ漢文書き下し調は、日常日本語との乖離が著しくなる。そもそも明治初期には旧弊を廃するとのことで、従来の慣用語を漢語に変えていたこともあり、大衆にはわかりづらいものだった。法と社会の調和という観点から陳重はこれを批判した。
なお民法の文体が現代語化され、カタカナを平仮名にして口語風になるのは2004年であった。

国体論

陳重の祖先祭祀への関心は一貫していた。これに関連して天皇を頂点とする家族国家観も早い時期からもっていたと推察される。これは陳重をリベラル、八束を狂信的国家主義者としたい皆さんにとっては都合が良くないらしい。

穂積八束は森鴎外と同じ船でドイツに渡り、1884年から1889年まで留学した。渡航前に伊藤博文から憲法の研究を託されたという。1881年に帰国した陳重と異なり、欧州列強の露骨な帝国主義とナショナリズムを目撃したと思われる。

生存競争を生き残るためにナショナリズムが必要と考えた伊藤博文らは、天皇中心の国家観をいわば捏造したのであり、八束にはそれを法的に正当化することを求めたのであった。

歴史的権威の捏造により明治維新によって国体は変わっていないと八束は論じることができた。伝統的不文憲法の成分化にすぎないとしたのだ。さらにその伝統を西洋法学の土俵の上で正当化したのである。伊藤ら立法者の意思を介在させず、内在的に、つまり法実証主義的な解釈を行ったといえる。

岩倉使節団以来、西洋では宗教がないと話が通じないと知られていた。彼らには、高度に文明が発達した西洋で、まともな人々が荒唐無稽きわまるキリスト教を信じているとは思われなかったが、それでもなんらかの国家の基軸が必要であった。仏教も神道も儒教も宗教とはなりえない以上、忠誠心を調達するには天皇をすえるほかなかった。

戊辰戦争や西南戦争を戦った明治政府のリーダーたちは忠誠心を切実な問題ととらえていたのだ。

八束は皇帝権力を正当化したローマ法にならって、天皇を神格化したが、フランス人権宣言やアメリカ合衆国憲法を知るリベラルたちからは非論理的と厳しく批判された。


対外的にも憲法の正当性を主張しうる法理概念を創出しつつ、さらには現代的意義を示すような価値的ないし功利主義的正当化もやってみせた。さらに、(個人としての)天皇の恣意を許さない制約をつけるために、天皇をも拘束する超越的規範も導入した。

まず、主権者が法に優越するのは当然であるから、天皇主権であれば天皇に制約が課されることはないとの法理を創出した。明治維新では国体ではなく政体が変わっただけであり、伝統も国体も不変であると言い張った。国体と政体の区別はその意味で重要であった。また法と道徳を分離せず、法が歴史的産物であることも強調した。典型的な実証主義ではなく、歴史法学とも重なっている。

さらに最上位の家長である天皇への崇敬の念こそが国家の一体感を醸成しているとの魅力的な価値観を提示し、また民主主義はしばしば機能不全におちいるから立憲君主制は良いという功利主義的正当化もおこなっている。

天皇という主権概念は明治憲法の論理的帰結として当然のもので、美濃部達吉は条文との整合性を放棄し、天皇を共同体の根本規範たる憲法に服させるという、近代的な法理論を奉じる人々にとって魅力的な価値を提示した。

これに対して、(対外的にも)近代的な立憲主義のためには天皇になんらかの制約を課す必要があるから、八束は、万世一系の天皇を主君として戴く伝統が続いてきたのが日本の国体であり、それは個々の天皇の意思を超越していると想定したのである。ここでも明治維新で国体は変わっていないという主張が重要である。

このようにして確立された国家観は、1912年八束が52歳で没したのち、歴史的背景から離れて一人歩きし始めた。つまり政治権力をものにしたい人々に利用され、1945年の悲しい結末に至るのだった。

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