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釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか』読んだ

内容はタイトルのとおり。非常に面白かった。どのようにして昔の発音を再現できるかなどの推論の過程も含めて、わかりやすく解説されているのが良い。

万葉集を手がかりに奈良時代の発音、いわゆる上代特殊仮名遣いを再現するところから始まる。
この時代の日本語に多大なる影響を与えた隋唐時代の中国語の発音はおおいに研究されていることが幸いしている。

いうまでもなく西洋由来の近代的な音声学と国際発音記号(IPA)の多大なる貢献によるものである。

そもそも文字をもたなかった日本語は、漢字を日本語にあてはめた。これが万葉仮名である。『古事記』など上代の文献を詳細に検討し、13種の仮名に2種類の使い分けがあることを発見したのが本居宣長である。
この使い分けは数年後に成立した『万葉集』ではすでに消失していた。

万葉仮名を隋唐の中国語の発音を比較すると、現代のハ行音はpやbのような両唇破裂音であったと推測される。逆に中国語のh音の漢字は、現代に至るまで日本語の音読みではカ行音になっている。つまり当時の日本語にはh音がなかったために、カ行音に聞こえていた可能性がある。
これが音読みが複数あったり、日本語と中国語で乖離していたりする要因と考えられる。
他にも古代のサ行音はtsaのようなものだったことは定説となっている。

また母音に関しては、奈良時代は8つあったと考えられている。ゐ、ゑ、をがイ、エ、オとは異なる、yi、ye、woのような発音だったらしい。
平安時代以降には、単語が長くなって、このような細かな発音で単語を弁別する必要がなくなり、イ、エ、オに吸収され消失した。
単語が長くなったのは、漢語のさらなる流入、情報量の増大(律令国家の成立、白村江の戦いなどの外交問題)に対応して、語彙を増やす必要があったからである。

社会情勢の変化により語彙が増えて言語全体に変化を及ぼす例は、室町時代や明治時代にもみられる。

単語が長くなるとこれを発音しやすくするため、各種の音便が成立した。また平安時代には平仮名が誕生して、話したまま書く王朝文学の発達を促した。話したまま聞いたまま書く「言文一致」は速記性、即興性に優れ、歴史に残る文学作品がたくさん生み出された。

しかしハ行転呼音という現象が起きる。語中語尾のハ行音がワ行音に変化したのである。奈良時代のハ行音はpやbのような両唇破裂音であったが、平安時代には両唇摩擦音Φに変化しており、ワ行音に転化しやすくなっていた。さらに元々語中語尾にワ行音を使う語彙がほとんどなかったため、変化への抵抗がなかった。

これは読みと文字の一致を崩し、文芸作品に多大なる混乱をもたらしたのである。

鎌倉時代の偉大なる日本文学研究者である藤原定家は、全て平安時代の平仮名で書かれた古写本を写すさいのお作法を定めた。「お」ではなく「を」、「わ」ではなく「は」、「え」ではなく「へ」、などなど現代にもつながる読みやすい綴り方を定めたのだ。

また漢字仮名交じり文、助詞や助動詞の大胆な改変も行い、後に国学者から多大なる怒られが発生した。

四つ仮名混同問題は現代にも影響を及ぼしている。元禄時代以降、ジとヂ、ズとヅの発音を区別しなくなったが、書き言葉では保持されており、タイプするときに、地震はジシンだったかヂシンだったかと悩むことになる。

ち、つ、は奈良時代は破裂音(ti, ttu)だったが、室町時代中ごろに口蓋化して破擦音に変化した。これに影響されてヂ・ヅも歯擦音化した。その結果、ジ・ズと接近した。

ダ行音は鼻音性を伴っていたが、これも元禄時代に撤廃されて、ヂ・ヅとジ・ズは区別できなくなった。この鼻音を最初に指摘したのは宣教師ロドリゲスと古典学者契沖である。

四つ仮名においてイ列とウ列の区別は維持されているが、ズーズー弁ではその区別すらなくなっている。

また高知県など一部の方言では4つの発音の違いはすべて維持されているらしい。ただ私は数年間、高知県に住んでいたがそれは分からなかった。現代では高知県でも失われているのか、たんに私が聞き取れないだけなのかもわからない。

オ段長音問題もときどき厄介である。
大阪、逢坂、今日、法は現代日本語では全てオーになるが、それぞれ元はoo、au、eu、ouと区別されていた。17世紀ころに消失したとされるが、その過程は不明である。宣教師らの記載は当時の日本語の発音について貴重な資料を提供しているが、彼らが豊臣期以降追放されてしまったからである。


漢字音の重層性について。
最古層は呉音であり、仏教語が多く、飛鳥奈良の仏教集団において保持されていた。
次に隋唐時代に、主に留学生が持ち帰った漢音。貴族階級に独占されていた。
鎌倉時代の日宋交流がもたらした唐音は、禅にまつわる語彙が多い。
別々の集団で保持されてきたので、発音が維持された。
中国ではこれらの音は直線的に変化してきたので、当然ながら1字1音が保たれている。

唐音は禅などの文物と強く結びついているので、それ以外のところでは読みに影響は少なく、やはり重要なのは呉音と漢音である。

呉音は、やや古くさいと感じる。人間、極楽、如来、縁日、成仏など。

呉音から漢音への変化は、中国における支配的な地域が、江南から黄河流域への移動が影響したとされる。清音化(成;ジョウ→セイ)、非鼻音化(日;ニチ→ジツ)が特徴である。

これらに加えて訓読みが定着したことは、漢字の大衆化に大きく寄与したと考えられる。

呉音と漢音の変化は「日本」の読み方を見るとわかりやすい。

ニホン、ニッポンは呉音である。
唐末期に「日」は鼻音が脱落してニチ→ジツとなって、「日本」はジープンとなり、マルコ・ポーロはこれをジパングと聞き、同様に多くの西洋人にはジャパンと聞こえた。これらは漢音に近い。
なお現代中国語では皆さん御存知の通りリーベンだ。


律令国家を確立しようとした奈良時代には漢音を推奨したが、遣隋使や遣唐使の持ち帰った漢音が旧来の呉音と異なっていたために様々な葛藤を産んだ。呉音の牙城である仏教界にも漢音を強要したが、すでに仏教と呉音は固く結びついており、そんなことは不可能だった。
日本語の語彙は子音で終わらないが、中国語はそうではない。kで終わる語はu、tで終わる語はi(一部でu)、pで終わる語はu、鼻音はuまたはンをつけて終わるように日本語化された。この原則は現代でも英語などの子音で終わる語彙を取り込むときにも適用されている。


近世において貨幣経済の発達と出版業の興隆により、古典注釈ブームがおこる。その代表は、いうまでもなく、契沖、賀茂真淵、本居宣長など地方の大衆的知識人であった。彼らは上代古典の世界に分け入り、華々しい言語学的成果をあげたのである。

一方、徳川吉宗による蘭学解禁で、西洋文法学も流入し、近代的国文法の誕生に寄与した。


知識人の占有物であった漢字とその読みは大衆にも広まり、綴り方が定まらなくなっていた。出版業界は綴りについてなんらかの基準を求めていた。そこで本居宣長が仮名遣いを追求したのである。
宣長は外来語である漢字とその音読みを嫌ったが、すでに日常生活に浸透してしまっている以上は、これを使用することは彼も認めざるをえなかったのである。

彼は、上代の日本人が漢字原音をそのまま受け入れたのではないと考えた。これは現代の日本人が英語を日本語化して使用している実態と同じであり驚くべきことでもないが、当時としては画期的な発想であった。

文献学的、音声学的手法を駆使して歴史的仮名遣いを定めた。これは明治期以降も、五箇条の御誓文がそうであるように、漢文書き下し調の文語文が明治政府の公用語となったこともあって、終戦までおおむね維持された。

戦後にGHQの助言を得て、吉田内閣が口語の実態を反映した現代仮名遣いを告示するまで続いたのである。

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