宥免状はいつの時代も

先日ニー仏さんのこちらの記事を読んで思ったところを書き残しておこうと思う。

記事の趣旨は、現代人の直感的ないし合理的な範囲を超えたお布施や戒名料を支払うことについてである。

法事や葬儀においてreasonableとはいいがたい金銭を支払うことは多くの日本人が経験するところである。もちろん教団や地域の中間共同体としての機能を維持するために必要な経費ということは理解している。

さりとて僧侶の労働の対価としてお布施を渡すというのは仏教の元々の教義からはありえないことだ。そもそも僧侶が労働するというのがoxymoronである。

仏教の教義は好きだがこうした慣習に違和感を感じるという人は、SBNR(spiritual but not religious)なマインドフルネスを志向するだろう。

ローマ帝国においてキリスト教が広まった理由のひとつとして、このての献金を要求しなかったことがしばしば挙げられる。

イエス・キリストによって贖われたのであるから、人びとはもうなにも支払う必要がないのだ。
(新約聖書にはイエスが全財産おいていけとカルト宗教まがいのことを宣う場面もあるがとりあえず無視)

ところがキリスト教もひとたび権威を手に入れたらいちいち免罪符の購入を要求するようになったし、人の背中に荷物をくくりつけて指ひとつ動かそうとしなくなったのである。

だから宗教改革がおこったし、もちろんプロテスタントだってその後は似たようなことになった。

世俗化の進んだ現代においては、特定の宗教にたびたび寄進することはまれである。しかしサピエンスの中身はたいして変わっていないから、特定の宗教に帰依しなければ、別のOSをインストールされてしまうだけだ。

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