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マイケル・シャラー『日米関係とは何だったのか』再読

今月もせっせと積読を解消していくぞ。

さてこの本は2004年に邦訳が出版されて、2012年に購入し、わりとすぐに読み終えている。ところが読書ノートを作らないといけないなあと思って放置していたらすでに2023年であった、、、それにしてもなんで中古でこんな高い値段がついているのか謎である。

著者のマイケル・シャラーは邦訳も複数ある著名な歴史学者なので、そういうこともありうるのだろうか。

本書は終戦から冷戦終結くらいまでの日米関係を扱ったもので、911とかトランプ大統領誕生といった近年の出来事はカバーされていない。さりとて現代にまでつながる重要な歴史であって、再読する価値はおおいにあった。冷戦期における日米関係の主眼は、日本を共産主義から守ること、あるいは共産主義の防波堤とすることにあった。そこにアメリカ国内の政治的情況が絡んで、まあまあ行き当たりばったりになってしまい、それが現代にも影響を及ぼしているのである。

第二次大戦終結直後のアメリカは、欧州、近東、中国に主たる関心を向けており日本をあまり重視していなかった。しかしソ連の台頭と中国共産党の勝利で日本にも関心をもつほかなくなったのであった。

野心家のマッカーサーは自らの行政能力を証明するために、財閥解体、農地改革などを進めようとシアが、しかし共和党の大統領予備選で敗北したために後退した。
マッカーサーに代わって介入したのはケナンとドッジであり、戦時賠償の停止、追放された経済界のリーダーの復帰、労組の権利制限、労働者の実質賃金切り下げといった政策を実施した。これらにより政府主導の輸出経済「日本株式会社」が形成された。しかしアメリカの意図は日本が共産圏に取り込まえるのを阻止することであった。

東南アジアのいくつかの国が共産圏に取り込まれたため、日本を西側に引き止めておくのには原材料を確保してあげなくてはならない。これがアメリカの中東政策にも影響し続けている。またアメリカそのものを日本の輸出市場として提供する必要があった。

また中国に対しては、ソ連に依存させないために、中国共産党にも寛大な姿勢みせなければならず、日本と中国の限定された貿易を、両国の息継ぎ場として許容した。
日本としてはいずれは中国ともつきあいたいという意図があったが、限定された貿易で我慢しなければならなかった。中国市場へのアクセスを失ったのはアメリカも同様であって、その意味でアメリカも日本も太平洋戦争の敗者である。というか国民党政府が日本との戦争で疲弊したことが中国が共産化した遠因であり、やはり大東亜戦争は間違いであったといわざるをえない。

吉田茂など多くの日本人は、冷戦において名目上は中立を維持し、経済復興に専念したかった。大規模な再軍備を避け中ソとも友好を保ち、国内の米軍基地は最小限に保ちたかった。
とはいえアメリカだけが提供できる経済的支援を失うわけにはいかない。という悩ましい情況であった。

朝鮮戦争で日米の講和はいっきに進む。日本占領軍が朝鮮半島に進出した間隙を日本の軍隊に埋めさせる必要があったからである。

日本は非武装中立を認めさせるために、警察予備隊創設した。
また、オセアニアや東南アジア諸国(とその宗主国)の、日本による再侵略、経済的侵略に対する懸念を吉田は利用して、日本の再武装を巧みに拒み続けた。

サンフランシスコ講和条約ののち、マッカーサー解任、鳩山一郎、岸信介らのライバルが政界復帰もあって、吉田は引退。

朝鮮戦争や台湾問題をめぐって中国との貿易は頓挫。米国に市場を見出す他無い情況になる。

さらに1954年ディエンビエンフー陥落し、アメリカは東南アジアへの介入を強めざるをえなくなる。

そうしたなかでは、日本と共産圏との和平交渉はアメリカはよしとしなかった。例えば北方領土をソ連にうっかり返還されたら、アメリカが沖縄も返還せざるをえない。。。なのでアメリカは不必要に北方領土問題を煽ってこじれさせ、現在に至るのである、、、

日本ではいわゆる55年体制が成立。保革の対立を再軍備を避けるために利用したのはよく知られているだろう。またアメリカも9条について後悔してたのはワロタ。1953年に訪日したニクソン副大統領は次のように述べたらしい。

1946年には軍備縮小が正しかったのなら、1953年にはなぜそれが間違っているのか?もしそれが1946年には正しく、1953年には間違っているとしたら、なぜアメリカは間違いを犯したことを、一度たりとも認めようしないのか?私は公的地位にある人間が当然、為すべきだと思われることを為すつもりである。私は、アメリカは1946年に間違いを犯したことを、この場で認めるものである。

そんなこんなで60年安保が揉めまくったのは有名な話である。1957年のジラード事件みたいなことがあったら揉めるのは当然だと思われる。このような屈辱的なことを飲まされるのが戦争に負けるってことであり、無謀な戦争を始めた幕僚たちは国賊と呼ばれて当然であろう。

60年安保で岸内閣は倒れたものの、その後も自民党が政権を失うことはなかった。ケネディ政権期は日米関係は安定していた。

ジョンソン、ニクソンの政権のときに沖縄返還交渉が本格化する。ベトナム戦争が本格化した時期であり、特需と沖縄基地使用への反対運動がおこる。

またこの時期に対米貿易黒字に転換しており、悪名高い日米繊維交渉も本格化している。また輸出品を繊維類のような軽工業からハイテク製品へ転換し始めるのもこの時期であった。

したがって国防や貿易均衡において日本がいっそうの責任を負うことを代償に、アメリカは沖縄返還を匂わせるのであった。
(琉球列島と違って小笠原諸島の返還は容易と思われたが、そこには象徴的意味があって意外と難航する。摺鉢山に掲げられた星条旗を多くの米国民は記憶していたからである)

70年の改定安保が迫っていたという事情もある。60年安保の大規模な反対運動の記憶が日米の高官は思い出していた。沖縄返還を安保改定の取引材料にするという思惑もあったようだ。60年安保で別に自民党が政権を失うこともなかったが、全く無意味な抵抗というわけではなかったのだ。

沖縄から核兵器を撤去するかわりに、韓国、台湾での有事にさいしては、アメリカが作戦行動のために沖縄基地を使用することを認める、などの条件付きではあるが、沖縄の本土復帰がかなったのであった。

1970年代の沖縄返還、ベトナム戦争停止、ドル切り下げといった一連の出来事は、アメリカのプレゼンスの後退を象徴するものであった。

もう一つ重要な事象は、中ソ対立からの米中接近である。中国に接近するためにベトナム戦争集結を早めたとのことである。また文革で弱っていた中国にとっても渡りの船であった。
ここで現代にもつながる問題は、アメリカは台湾に冷淡な態度を取り、日本もそれに追随せざるをえなかったことである。

たニクソンとキッシンジャーが中国との交渉を内緒で進めたことについては、日本はショックを受ける。これに加えて繊維交渉の行き詰まり、円の切り上げ、オイルショックなどもあって、日本国内ではたんなる対米追随でよいのかという議論も盛り上がっていくのであった。

右も左も日本の政財界はかねてから日中友好を願っていたが、米中の接近、ソ連の覇権を抑えるという思惑もあって、日中友好条約はアメリカには反対されなくなっていた。この米中の友好はいろいろあったけどトランプ政権期まで基本的に続くのであった。

1980年代は中曽根首相の不沈空母発言であったり親米につとめる政治家も多くいたが、対日貿易赤字の拡大は止まらず日本に対する不信感は増大していた。その頃の私はすでに小学生であり、日米貿易摩擦の話題が多くて日本の政府関係者は大変そうだなあと思ったものだ。

だがいまにして思えば1980年代のアメリカはアフガンとかイランとか中南米で忙しかったのであり、また冷戦終結に全くリアリティがなかった時代でもあった。貿易摩擦ごときでなにを大騒ぎしていたのかと思わなくもない。

そもそも双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)とは、日本に米国債を売りつけて日本製品を買っているだけのことなんである。変動相場制であれば大したことじゃない。


という感じの内容であった。

感想。戦争に負けたせいでわけわからん憲法を押し付けられ、大陸との貿易を制限され、米軍がやたらと駐留するはめになった。勝てない戦争を始めたのはどう考えてもだめ。

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