森山優『日米開戦の政治過程』と『日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」』
太平洋戦争開戦に至る政治過程の研究者として高名な森山優氏の『日米開戦の政治過程』をようやく読んだのでメモを残しておく。
まず前提として、昭和初期というのは、むき出しの資本主義の世界であり、昭和金融恐慌に始まる貧富の格差の増大があからさまとなった時期であった。さらには政党の腐敗、金権政治により大衆が政党や政治家に失望していた。そこで広く門戸が開かれた軍への期待がなんとなくあったことを頭にいれておく必要がある。これに絡んで海軍では大角人事による条約派の粛清および人材の払底があったことを知っておかないと海軍のノラクラぶりも理解しづらいであろう。
またよく知られているように明治憲法は、内閣、枢密院、統帥部などが天皇を輔弼または輔翼する形になっており、また天皇は政治的責任を負わないことになっていたため、責任をもって決定する主体を欠いていた。伊藤博文、山県有朋など明治の元勲が健在であったときはうまく運用できたが、最後の元勲西園寺公望が亡くなってから問題が顕在化するのであった。
このような様々な政治勢力がそれぞれの利害を主張してなにも決まらないことをゴミ箱モデルという。ゴミ箱は両論併記と非決定の入れ物であり、こういうグダグダの結果として日米開戦に至ったとする研究の第一人者が森山氏である。
三国同盟および、ドイツの潜水艦戦隊がアメリカの商船を攻撃するようになり日本の参戦が現実味を帯びてから真珠湾にいたるまでの経過はよく知られているが、自分の備忘録として、なるべく本書に即した感じで簡単に書いておく。
まず特徴的なのは帝国国防方針といった国家の大計を示す決定はそれまで数年に1回ほどしかなかったのにこの時期には何度も決定されていることだ。これらは主に参謀本部または軍令部の中堅層(彼らは対米開戦強硬派であったとされる)が起案し、局部長レベル、総長大臣レベルでの折衝を経て、大本営連絡会議または連絡懇談会で決定される。さらに権威付けのために天皇に上奏または御前会議で裁可される。
本書ではこの過程をこれでもかといわんばかりに細々としかし淡々と描写する。ここからみてとれるのは、まずは海軍中堅層の対米戦宿命観である。太平洋でのフリーハンドを失うことへの恐怖といってもよいだろうか。そして非戦(避戦)の責任を負わされるのも困るという官僚的メンタリティである。なにせ海軍は対米戦を想定して多額の予算を獲得してきた(これまた官僚的な利害)のだからやれませんとはいえないのだ。だから短期的には戦えるが、3年先はわからないと永野修身軍令部総長は繰り返したのである。
一方、陸軍はというと大陸政策がレゾンデートルであった。日支事変の成果を無にはできないという官僚的な利害があった。塚田攻参謀次長、田中新一作戦部長らが強硬であったのはおおむねそういうことと理解できる。しかし中国から撤兵せずアメリカとことを構えるなら南方資源確保が必須となる。とはいうもののマレー、蘭印への南方武力行使、それに引き続く対米戦(英米不可分論)は海軍の戦争であるから陸軍としては、海軍がやるといってくれなければ手出しできないのだ。
近衛首相、外務省、海軍上層部が南方武力行使や対米戦に消極的ななか、1941年7月ターニングポイントととなる南部仏印進駐が強行される。外相松岡洋右がシンガポール攻略、北進論などを唱えたため、これを妨害するために諸政治勢力が一致できる唯一の具体策が南部仏印進駐であったのである。またそれによって石油の輸入禁止措置まではとられまいと楽観的であったこともある。
しかし南部仏印進駐により実質的な対日禁輸が実施される。近衛とローズベルトの日米巨頭会談も立ち消えとなる。中国から撤兵するか、アメリカと開戦するのか。開戦するなら石油の備蓄の問題から早いほうがよい。臥薪嘗胆して国力が弱ったときに攻められたらひとたまりもない。とはいっても早くに戦えば勝算があるわけでもない。
というにっちもさっちもいかない情況のなか、9月6日帝国国策遂行要領御前会議決定、10月上旬に外交の目処が立たなければ戦争を決意することが決まる。これまた決定の先送りなのだが、交渉に期限を切ったことで時限爆弾にスイッチをいれる形になってしまった。とはいうものの、目処の判定にもういちど確認作業が必要であるし、外交の勝利条件も不明でありゴミ箱モデルの域をでるものではなかった。また開戦しても勝算不明であることも言明されていた。
10月になっても外交の目処は立たず、また海軍は今さら対米戦に自信がないことを公式に認められないため、近衛に決定の下駄を預けてしまう。ここで御前会議で決まった帝国国策遂行要領を覆して開戦を避けるためには、御前会議の不備を認めなくてはいけないが近衛にその度胸はなく、また官僚的利害を振り回す東條陸相に抵抗できず総辞職してしまう。
天皇は遂行要領の再検討をおよび組閣を東條に命じる。御前会議決定とはなんだったのかという感じであるが、このなにも決まらない感こそが本書のテーマである。10月18日東條内閣発足、交渉条件と期限を緩和した 帝国国策遂行要領が11月5日御前会議決定。ここから東郷茂徳外相、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特使らが必死の粘りで対米交渉を行うも、これまでの交渉過程を無視して原則論を強調するハル・ノートがやって来てようやく開戦の決定に至るのであった。
本書は学術書でなかなか読みづらい部分もあるし、客観的な記述が中心なので面白いともいいがたい。個人的には同じ著者の『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』のほうがおすすめである。
歴史にifはないといいつ、及川のあとの海相が嶋田でなく山本五十六だったら、とかハル・ノートが日米暫定協定案とともに渡されていたらとか気持ちが入りまくりなのがよい。著者によるとそれほど開戦の決定は困難であったということであろう。また結果的には中国からの撤兵などとは釣り合わないほどの大損害であり国体すら維持できないはめになったが、誰もが組織の利害にたてこもり、そのリスクとベネフィットを総合的に判断する主体がなかったことを指摘している。
こうした官僚的利害に固執して全体の利益を見落とすという現象は現代でも普通にあると思われる。ことに、昨今の消費税増税における財務省のふるまいが参謀本部と重なるという諸兄にはぜひとも本記事で紹介した二冊のうちのどちらかを読んでいただきたいと思う。
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