天安門事件のこと
天安門事件は私が小学校高学年のときにおこった。平成の始まりを印象づける大きなイベントであったはずだが、それに続いた東側諸国の連鎖的な倒壊であったり、中国経済の大躍進もあって関心を失ってしまっていた。しかし最近の香港の騒動だとか、下記のnoteをみてもう少し知識を仕入れてみようかと思ったのである。
まずは紹介されている安田峰俊と楊逸の対談を読んでみた。普通に面白かった。
楊逸 安田さんは『八九六四』で、六四天安門事件のことを、民主活動家に限らず、当時いろいろな立場にいた人びとに尋ねていますね。私が注目したのは、その中に中国に留学生として来ていた日本人の方が登場したことです。当時付き合っていた彼氏が、天安門事件を通して豹変したと語っていたのが興味深かった。その方の話は、私にはこれまで見えていなかったところだと思いました。天安門事件の語りの中に、外国人の視線があることが新鮮でした。
安田 知的で心優しかった恋人が、六月四日の鎮圧後、卑屈で露悪的な態度になったという話ですね。彼女はデモも何も起きなければよかった。中国社会も、自分自身も、失ったものが大きすぎると語っていました。
楊逸 天安門事件からすぐの頃は、いろいろな集会やデモに参加していました。そしてことごとくがっかりして……。切実に中国を思って行われている活動はなかった。つまりビジネスのためですし、生活のためです。初期はまだ実際に天安門でデモをしていたような人たちが志を持って参加していたのですが、だんだん在留資格に問題があるような人が、集会に参加すると特別滞在のビザが申請できるとか、人脈を作るためとかで、入ってくるようなことが増えたのです。そして団体は劣化していった。天安門事件で迫害を受けた王丹のような人が、今度は革命の名の下に、いかにお金を儲けるかばかり考えている。民主活動家たちも、中国共産党としていることは同じです。
天安門事件は民主化要求というよりも、共産党に改善をお願いするというくらいの気持ちだったようだ。だから学生や知識人たちは今では考えられないほど無防備だったわけだ。そして事件から20年以上たって変節する人もたくさんいるだろうし、王丹やウアルカイシのように天安門事件にぶら下がって生きていくほかない人もいるのだろう。そんなことが気になって安田峰俊の本も読んでみた。
天安門事件になんらかの形でかかわりのある30人くらいの男女のインタビューである。
学生時代に参加したものの多くは、現在はビジネスマンとして成功していたり、大学教授などにおさまっている。当時の学生たちはエリートであったから普通にやっていれば成功するのである。そして圧倒的な経済成長の恩恵を受けており、もはや中国政府に逆らう理由もない。自分の生活や家族があるのだからしかたのないことだ。
また上述の対談で言及されていた日本人留学生の話も印象的だった。彼女のように心になんらかの爪痕が残った人も少なくない。それを公言するかどうかは人それぞれではあるが。
「あのとき仮にデモも何も起きなくたって、中国は多分、徐々にいまと似たような社会になっていたと思うんですよ。だから一層、何も起きなかったほうがよかったと思うんです」
あるいは後から事件の刺激を受けて、民主化闘争に飛び込んだものもいる。そういう人達のほうが強い気持ちを持ち続けているようだ。
他には香港の雨傘運動の人達のインタビューもあった。彼らは天安門事件を香港の民主化のための材料としているだけで、さほど思い入れはないらしい。自分たちが生まれる前に大陸でおこったことに感情移入することにさほど意味はないのだろう。それよりも親中派や、本土派と呼ばれる反中国政府派との間で板挟みになっているという状況はリベラルはどこでも負けるのだなあという印象を与えるのであった。
本土派というのは日本でいえばネトウヨみたいな感じだ。彼らも金の勢いで傍若無人に振る舞う大陸からの観光客が大嫌いらしい。同じ中国人という括りにされるのを殊の外いやがっており、そこらへんの近親憎悪ぶりは日本人とは比べ物にならなそうだった。
台湾の学生活動家にもインタビューしている。彼らは王丹やウアルカイシから直接薫陶を受けており、そのせいかどうかはわからないが台湾ではデモは比較的成功したようだ。さらに王丹やウアルカイシにもインタビューしている。今さら運動をやめられない辛さみたいなものが伝わってきて好感がもてた。楊逸さんはお好きではないようだが。
そして楊逸の『時が滲む朝』を読んだ。本作は、日本生まれでない作家が初めて芥川賞を受賞したものである。作者が言うように、これはフィクションである。とはいうものの安田のルポを読んだあとでは、真実味があるといわざるをえない。
あらすじはこんな感じ。田舎で育った二人の男が地方都市の名門大学へ進学して、学生運動に関わっていく。朝から詩を朗読したり、英語の勉強をしたりという地方大学の牧歌的な生活の描写が素敵だ。しかし本領は、学生運動の挫折を経験して、日本に渡ってからである。民主化への熱い気持ちは捨てきれないが、家族ができたりなどで日々の生活に埋没していくようになる。そして欧州に亡命していたかつての恩師と片思いの女性に再会するに至り、やるせなさが爆発するのである。
主人公らに注ぐ視線は基本的に優しいのだが、学生や指導者の未熟さについて作者はすごく冷たい。だからデモもなにも起こらなければよかったのにという上述の日本人留学生の言葉がよみがえってくる。楊逸自身は中国政府に批判的であるにも関わらず、こういう作品を書かなければならなかったのはあとがきにもあるようになにかしら決着をつける必要があったからだろう。
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