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井上智洋『純粋機械化経済』読書ノート

井上智洋氏は経済学者であるが、エンジニアの経験もありITについても積極的に言及することで有名である。本書でもそこが遺憾なく発揮されており、AIやIOTが社会のどのような変化をもたらすかについて広い視野で概説している。

第1章は現在進行中の第3次産業革命とまもなくやってくる第4次産業革命についての解説である。そして第4次産業革命は一部の人間の頭脳が生産性を規定するような頭脳資本主義をもたらし、やがてアメリカにかわり中国がヘゲモニーをとると予言する。ここまではわりとありきたりな内容である。

第2章はAIとかディープラーニングについてもう少し掘り下げて説明している。コンピュータのニューラルネットワークを説明するのにドゥルーズ=ガタリのリゾームという概念を導入する。そしてAIはどこまで人間の思考をトレースできるかについての記述が続き、最終的にはユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』を引用して、科学が神を殺したように、ITや神経科学は人間を殺すだろうと結論する。つまり結局のところ自由な意思など存在せず、遺伝子や環境におうじて反応しているにすぎないのである。であるならAIは人間の能力をかなり代替できることになる。つまり能力に依拠するなら人間中心主義は崩壊してしまうのだ。

そもそも人間の根源的な借りは自由意志を持っていることや自分で意思決定できること、役に立つ仕事ができることなどにはない。
人間の価値はその能動性にではなく受動性にある。悲しんだり喜んだり、痛みを感じたりすること、つまりクオリアを持つことにこそ人間(生命)の価値がある。機械が人間の知性を追い越すことがあったとしても、人間に価値があることには変わりない。

痛烈なメリトクラシー批判であり、また本居宣長の「もののあはれ」を想起させる。

そして続く第3章ではAIはどのようにして人間の仕事を代替していくか説明される。歴史的には技術的失業は常におこってきている。しかしほとんどの場合、技術的なブレイクスルーが需要を拡大したり、他の産業を興したりすることで、その問題は解決されてきた。しかしITはちがうかもしれない。ITが増やす雇用はITが奪う雇用よりもはるかに少ないからだ。Amazonのおかげで大量に書店員がいなくなりつつあるが、それに応じて人類の読書量が増えるわけではない(個人的にはAmazonのおかげで若干読書量は増えたように感じているが)。そしてAmazonのCEOジェフ・ベソスは技術的失業を否定しないし、ベーシックインカム(BI)に肯定的である。

IT化がもたらす知識集約型社会では個人の実力差がより明瞭に、過剰に賃金に反映されてしまう。しかし多くの人々は、歴史的には技術的失業は大きな問題になってこなかったせいか、これからおこることに楽観的すぎるようにみえる。長期的には失業がない世界に住んでいる主流派経済学者は論外としても、MMTに依拠する経済学者たちもBIに否定的でまだまだ仕事はあると思っているようだ。しかし日本における慢性的なデフレとunderemploymentはすでに工業化とIT化による深刻な技術的失業が始まっている兆候と私には感じられる。

どれだけAIが発達してもクリエイティブな仕事が人間には残されていると頭の悪い人がよく言っているが、ごく一部の人間にしかできないのがクリエイティブな仕事であるという根本的なところを間違えている。本章の後半ではそのことがもう少しお行儀の良い言葉で書かれている。
そしてそうなるともうBIしかないわけである。

第4章は技術的失業を軽視する主流派経済学者を軽くdisってから、ケインズの「わが孫たちのための経済的可能性」に言及する。将来の労働者は週15時間しか働かなくてよいだろうと予言した有名なエッセイである。さらにはジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』にも言及する。限界費用とは1単位の追加的な生産にかかる費用のことで、テクノロジーがとことん進化するとこれが限りなくゼロに近づいていくということだ。例えば電子書籍を10人に売ったあとに、11人目に売るときにかかる費用はほとんどただというようなことである。

限界費用ゼロということは、そこに発生する賃金もゼロということだ。しかし筆者は気づいていないかもしれないが、資本の収益もゼロになってしまう。実はこれが加速主義の重要な論点であり、テクノロジーが加速して限界費用ゼロになると資本主義はもはや意味をなさなくなるのだ。

そしてここで気がつくだろう。技術的失業をケインズ的にポジティブにとらえ、BIを推奨するのはかなり左派加速主義と近い。左派、右派を問わず加速主義の源流たるドゥルーズ=ガタリを最初に持ってきたのはそういう意図ではないのかと勘ぐりたくなる。

5・6・7章は新石器時代の農業革命、19世紀の産業革命などの説明をしているが、要はAI革命により日本は米中においていかれますよ、でもBIにより需要を増やせばまだ逆転のチャンスはありますよ、ということが書いてある。BIの財源の一部は税金とされているのは残念なところであるが、著者はまもなくMMTに関する書籍を出すとのことなので、ここらへんの認識はあらたまっていることを期待したい。

最終章では、IT化といえば避けて通れないカリフォルニアイデオロギーとサイバーリバタリアニズムに言及している。1968年の革命の精神は彼らに引き継がれているが、彼らは中枢を軽視ないし否定する傾向がある。それでは格差が耐え難いほどに広がってしまう。だからBIによる再分配が必要となる。また情報技術は公共財の性格が強いため、ここでも政府による投資が不可欠だ。これも左派加速主義と近い論点である。
中枢=政府なくして多くの人間が自由に楽しく生きることなど不可能なのである。

68年革命は「何のリハーサルだったのか」という問いに対して、(中略)、それは脱労働社会を到来させるAIとBIによる革命のリハーサルだ。

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