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東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』再読

だいぶ前に読んだ東浩紀氏の著作だが、まもなく新著が出るということで再読。

そもそも20世紀末の『InterCommunication』が初出であるからずいぶん古臭い記述も目立つ。ていうかこの雑誌もいまや知らない人のほうが多いだろう。
いやそれ以前にサイバースペースなんて単語を使うひとはもういないだろう。
2000年ころの東氏はまだ『批評空間』にもよく登場していたし、執筆陣の重なる『InterCommunication』に連載していたなあと今ごろ思い出すのであった。

あるいは、新反動主義がどうやって出てきたか、インターネットが普及する以前のIT事情はどんなだったか、などなど考えながら読むと楽しかった。ただジャック・ラカンをふんだんに援用しているので、ラカンについてまだ不勉強な私にはしんどい部分もあった。

以下、備忘録。

旧来のメディア、鉄道であれ新聞であれ、空間性の除去、つまり遠くのものを近くにするという性質のものだった。
ところが電子メディアのネットワークにはある種の空間性が宿るとマクルーハンは指摘している。

道路網や鉄道網とは「あいだ」であってどこかではない。だがインターネットにおいては、サイバー「スペース」という言葉にもあるように、なんらかの場所が想定される。

サイバースペースという単語が人口に膾炙したのはウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』がきっかけとされるが、ここでは主人公がサイバースペースに没入しても自己同一性が揺らがない。主人公ケイスの存在はつねに一意的である。そこでは、同一の自己が存在する場所としてサイバー「スペース」はある。

つまり自己同一性の動揺という、フロイト的な不気味さを悪魔祓いする空間として成立している。もちろんそれは物理的実在ではなく隠喩なのだが。

この不気味さを回避しようとしなかったSF作家がフィリップ・K・ディックである。
1960年代なかばまでディックの小説は政治的含意をもっていた(『高い城の男』など)。そこに見られた核戦争の恐怖、第二次大戦の対立構造の反転または繰り返しは、やがて存在論的(パラノイア的)傾向を強める後期の作品群においてもみられる。つまり彼の作品の特徴である入れ子構造であり、この入れ替わりを貫通するものとして不気味なものが導入される。

その到達点である『ヴァリス』における不気味な存在はソフィアであり、預言者のごとくふるまうソフィアは情報論的汎神論の凝集である。

ディックの神学的世界観はいうまでもなく、ある種のテクノロジー信仰であるカリフォルニアイデオロギーと密接に関連している。

西海岸のカウンターカルチャーは1970年代は政治的強度を失い神秘思想化する。ディックの神学もこの流れにも属している。

ディック風の情報論汎神論は、神秘化した西海岸の対抗文化とカリフォルニアイデオロギーの合体したものといえる。

そこには1970年代初頭における左派の政治的敗北が影響している。現実の問題を想像的な次元にずらした世界観こそ情報論汎神論である。ネットワークに宿る神、その媒介者(預言者)としてのハッカーという世俗的な幻想を生み出したのである。この構造は現代におけるSFやサイバーパンクにおいてもしばしばみられる。より大きな目でみれば、政治的挫折を味わったものが内面にひきこもるパターンである。

アイデンティティの複数性は主体の単一性を脅かさない
空集合としての主体

1980年代以降のコンピューター文化は決定的になにかを変えてしまう。
IT技術はアメリカ政府主導で行われてきたが、1970年前後に決定的に変化する。ベトナム戦争の長期化により直接の軍事利用から遠い研究費は縮小された、学生運動の影響で研究者の間でも軍事研究は避けられるようになった。

多くの研究者が大学や政府系機関から離れる。民間主導に変化して、反体制文化やニューエイジ思想と合流してハッカー文化が形成された。こうした情況からビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが登場した。

これはポストモダニズムの隆盛と呼応している。

コンピュータ文化が変えてしまったものとは?

20世紀の思想に映画は決定的な影響を与えた。スクリーンとスクリーンによって遮られている主体という道具立ては、意識や無意識を考えるのに非常に都合が良かった。想像界と象徴界に対応するといってもよい。

しかしPCのモニターは映画のスクリーンとは決定的に異なっている。映画においてはスクリーンの向こうの映写機やカメラが意識されるが、PCのモニターの向こうにあるマシンを想像しながら操作する人は少ないだろう。

つまり象徴界の機能不全をもたらした(大文字の他者の喪失)。スクリーンの背後よりもスクリーンそのものを信じてしまう。
スクリーンにあるものを現実とみなし、見られていることを意識しなくなっている。虚構のイメージ(想像界)と、真実らしいシンボル(象徴界)がスクリーン上には並列表示される。

しかし象徴界との言語的相克は維持されなければならない。

大文字の他者を維持するために、サイバースペースという観念を導入して、「想像的に埋め合わされる」。

あるいはメタ的な解釈をオタク的に追求することで、象徴界を想像的に回復する。

ディックやカリフォルニアイデオロギーにおける情報論的汎神論もまた想像的に埋め合わせていると考えることができる。

不気味なもののシミュラークルでモニターを満たすことで象徴界を回復しようとしている。不気味なものとは、見えるものと見えないものの境界を曖昧にする。

ここにポストモダン化と情報化の対応関係をみることができる。ポストモダニズムとは大きな物語の失墜であった。それを補うための新たな物語を情報化社会は求めたのであった。
ポストモダニズムが全盛となる1984年に『ニューロマンサー』や『ブレードランナー』が発表されたのは象徴的であった。




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