柄谷行人『世界史の構造』【基礎教養部】[20230516]

柄谷行人著『世界史の構造』を読んだ。

ここでは、そこで述べられている「交換様式」という概念について、自分なりにまとめたいと思う。

そもそも世界史の具体的な知識や政治思想史に疎いので、ここでは勉強のため、できる限り具体例も交えながらまとめることとする。

以下、交換様式とは、世帯と世帯(共同体と共同体)の間の交換の様式を指す。世帯の中での再分配などは含まない。ここでは、交換とは対外的な概念である。

交換様式A 贈与の互酬

まず、互酬の話の前に、(交換でない類の)「共同寄託」について述べる。

共同寄託とは、共同体(世帯)の中で物を平等に分配することである。

これは「遊動的バンド社会」において見られる。遊動的なバンド社会では、基本的に世帯(家族)を超えた共同体では動かないし、尚且つ貯蔵という概念もない。貯蔵をしないというのは明日を考えないということであって、誰が獲物を獲ろうが平等に再分配をする。純粋な贈与である。これは交換ですらない。

ここで気候変動が起こる。狩猟採集が困難になったヒトは、漁業に走る。漁業では簡単に持ち運べない道具を必要とするので、定住するほかない。多くは河口にて定住が始まる。漁業のためである。
定住は備蓄を可能にする。定住は複数世帯による共同体を形成する。こういった環境で、世帯間の「共同寄託」(再分配)は自明の理ではない。彼らにはもう明日がある。むしろ、互いの所有をめぐって争い、ともすると略取が蔓延って「国家」が生じたりもするかもしれない。

ここで、「抑圧されたものの回帰」という概念を導入する。抑圧されたものは、その後に高次元で強迫的に回帰してくるという、フロイトの理論である。
放っておくと略取が蔓延りかねない定住環境の中、失われた遊動性(自由)が強迫的に回帰し、その結果、観念的な規範として行われる贈与の応酬。これを「互酬」という。

互酬とは、定住環境にて観念的な規範として行われる、世帯間の贈与のやり合いのこと。

互酬には、「贈与する義務」「受け取る義務」「返礼する義務」が存在する。三番目について簡単に言えば、「受け取りっぱなしは負い目を感じる」という話である。

互酬原理によって結ばれた共同体たちの中で、超越的に抜きん出る共同体は現れない。なぜか。互酬原理では、いっぱい与えることができる人が偉い。返せなかった人は立場として弱くなる。ということは裏を返せば、偉い人はいっぱい物をあげてしまうから物質的にはウハウハではないのである。このように、互酬原理は自動的に不平等を是正する。これは国家(超越的な共同体)形成を絶えず阻止するシステムである。

宗教について一つ言うと、供犧という概念は互酬原理と密接に関連している。供犧とは、生贄を贈与することによって、畏怖の対象である自然からお返し(安全)を得る儀式のことである。

交換様式B 略取と再分配

B1 アジア的専制

漁業のために河口に集まる話はすでにした。この河が非常に広範だと、その定住場所はいつの間にか河川による交通の結節点として、都市となる。
互酬によって平和に上位の共同体の連帯を形成できるのは、ある程度の部族的な同一性がある範囲に限られる。その範囲を超えて交通が行われる状況になってしまった。どうなるだろうか。悲しいことに征服による略取が生じる。互酬による平和構築作用だけでは乗り切れないのだ。

しかし、略取をするにも略取しっぱなしではあまりうまくない。略取するには、略取し続けるシステムの構築が必要だ。それに、征服された側が何も抵抗しないわけがない。しばらくしたら暴動が起こるだろう。

うまい方法とは何か。

征服・略取した側が、被征服者の服従に対して保護を与え、貢納に対して再分配する

という“交換”のテイを取るのである。そうすれば、一方的な征服の事実はかき消され、双方の合意に基づいた契約となる。それが、恐怖によるものだとしても。

こうした略取と再分配のシステムの中で、超越的な権力である「国家」「帝国」が生まれる。

こうした国家は、国家の中でも「アジア的専制国家」と呼ばれる。昔の中国を思い浮かべれば良い。

アジア的専制国家の支配階級では、バリバリの縦社会が生まれる。官僚制というやつである。大規模に統率が取れれば、肥沃な土地のもとで農業ができる。この意味で、国家は農業に先立つのである。

被支配階級では、農業共同体が編成される。ここもバリバリの縦社会、、かと思いきや、国家はこの共同体を支配はするものの、内情には干渉しない。よってこの共同体の中では依然として互酬原理は残り続ける。以前のように互酬原理はドミナントではないが、消えるわけではないのである。

B2 古典古代

そんなアジアの「亜周辺」であったギリシア・ローマでは、アジア的専制国家のある部分は真似して、ある部分は見習わない、というように、選択的に真似をすることができる。

ギリシア・ローマでは、アジアを真似て帝国が生まれた。しかし、官僚制は拒否したが故に、専制国家にはならなかった。ここでは交換や再分配が国家によらず市場に委ねられ、のちに述べる交換様式Cが発達した。

その自由な経済発展の結果、奴隷制が現れたのである。奴隷制からギリシア・ローマを説明するのは順序が逆だということである。

B3 封建制

そんなギリシア・ローマのさらに亜周辺として、ゲルマン人は国家を作った。ここでは政治的・軍事的に統合する集権的国家は成立せず、その代わりに封建的な諸国家が分立し、数多くの自立都市が生まれた。ここで市場による経済が盛んとなる。

官僚制ももちろんなく、支配者階級の中での主君と家臣の関係は「御恩と奉公」的であり、これは互酬的である。

ここでも奴隷制は発達する。奴隷は国に隷属するわけではない。奴隷は土地を保有する個々の自営農民に隷属する。個人の力が強い点でも、市場経済(交換様式C)の強さを感じられる。

一言で言えば、誰も絶対的な優位に立ちえない多元的な状態こそが、封建制である。


さて、B一般について、宗教はどうなるか。国家という超越的な権力の出現により、対応して超越的な神が生まれた。それは国家ごとに生まれ、戦争で負けた国家の神は廃棄される。
こんな流れの中で、国家によらない普遍宗教が対立概念として現れてくる、、。これこそが交換様式D(本書における理想)である。

交換様式C 市場経済

火器の発達と貨幣経済の浸透により、封建諸侯を制圧する王が生まれ、絶対王権国家が生まれる。

これは超越的権力が存在するということでアジア的国家に似ているが、ここでドミナントな交換様式はBではなくCである。自由な市場こそが絶対王権国家のキモである。

みなさんご存知のように、絶対王権はブルジョア革命によって、国民国家に変貌する。ここから、市場がドミナントで民主的な、近代の国家に繋がっていく。

ここで注意すべきなのは、「国民」という共同体概念は、逆説的に拘束的な絶対王権があったからこそそこへの対抗として生じる概念である。よって、絶対王権は国民国家に先行する。

国民・ネーションという意識は、今述べた主権国家という視角ともう一つ、産業資本主義の視角から見なければならない。産業資本主義については長くなるので割愛する。

ここから時代は流れ、帝国主義が跋扈する時代となるが、大事なことだけ断っておく。帝国主義とは、帝国的(交換様式B)ではない。交換様式Bでは、帝国は支配こそするものの、各々の民族自体は放っておく。決して同質化などさせない。ただただ粛々と略取を続ける。

帝国主義とは、国民国家の文脈での国家間の均衡から生まれるものなので、支配する際に同質化を強制する。これは全く帝国的ではない。文字に騙されてはいけない。同質化には資本主義(交換様式C)の浸透も大きく寄与する。既存の民族・農業共同体などを資本主義は容易に破壊していくからだ。その先にある連帯意識とはもう「想像の共同体」としてのネーション概念に他ならない。

交換様式D

端的に言えば、交換様式B・Cがドミナントな社会において、交換様式Aが「抑圧されたものの回帰」として現れるような様式のことである。これは理念上の話であって、完璧に実現されることはない。

カントの理想であった「世界共和国」こそが、漸進的に目指すべき理想的世界システムである。

これをここで詳しく書くことはいくつかの理由でできない。
まず、本でも交換様式Dは詳細に述べられているわけではない。「これから」の話なので性質上仕方ない。
そして、この議論には「産業資本主義」の話が不可欠である。Dのモデルケースがこの議論の中で現れているからである。
最後に、これを書いてしまうのはあまりにも核心のネタバレがすぎると思うからである。詳しくは本書を読んでいただきたい。それに尽きる。

最後に

このような大枠のまとめをしながら読むことは正直不可能であった。何周か読んだ後に、印をつけたところのみを抜き出して読んで、さらにもう一周さらっと読んで、、、みたいな読書ののちに、このnoteは書かれている。

まだまだ読書が下手であることを実感する。膨大な引用や具体例に引っ張られ、ついつい重大な言明を失念してしまう。大事なのは、概念同士の図を頭に描きながら読むこと(聴覚的でなく視覚的に読むこと)であると理解はしているのだが、能力的に脳みそがついてこない。これは訓練であろうと思う。千葉雅也氏も言っていた。本を読み続ければ、記憶力は確実に向上する、と。諦めずに読書を続けていきたい。


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