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基礎・基本とマトリョーシカ

プロ野球キャンプでの練習や、オフシーズンのトレーニング期間の話の中で、基礎や基本という言葉が良く使われる。コメンテーターやいろいろな指導者が「基礎・基本は大事だよ」とよく言う。そういう話を聞くと基礎や基本とはどこまでをさすのかという問題が浮かび上がってくるように思う。
この「基礎・基本」という言葉はもちろんスポーツの世界だけでなく、教育現場やその他の多くの場面で使用する用語だと思う。

定義としてはどうなのか。
基礎とは何か?
物事が成立する際に基本となるもの。

基本とはなにか?
物事が成り立つためのよりどころとなるおおもと。

となる。なるほど。物事が成り立つためにはその基が必ずある。それを捉える必要があるというところまでは、たぶん皆さんも同感するところだと思う。

ただ、その基本となるもの、そのおおもとはどこまで掘り下げて考えるべきなのか。掘れば掘るほど果てしなくなっていく気がする。

例えば、ある野球のチームの課題が送球であったとした場合
野球の基本はキャッチボールだよ。と野球の指導者は良く発言をする。
では、キャッチボールが上手くできない選手にどのようにキャッチボールをさせるのか?キャッチボールの基本・基礎つまり「おおもと」が存在するのではないかという疑問が湧いてくる。

キャッチボールは、ボールを投げるという局面と、ボールを捕るという局面に分けて考えたとしよう。
ではボールを捕るという基礎・基本は?捕る「おおもとは?」
ボールを投げるという基礎・基本は?投げる「おおもとは?」

スプリントの基礎は
スプリントの基礎は何か?
スプリント→走る→歩く→立つ→高這い→ハイハイ→寝返り→〇〇〇→〇〇〇

などのように、基礎を掘り下げていくと果てしなく続いてしまう。
まるでロシアの民芸品のマトリョーシカ人形のように、基礎・基本だと思っていたものの蓋を開けると、また新しい基礎・基本があって、またその人形を開けると、また新しい基礎・基本が出てきてと永遠に掘り下げられてしまう。

いろいろな方が、いろいろな分野で、これが基礎・基本だとはっきりと明言することがあるけど、基礎・基本を明確に「ここまで」と線引きするのはとても難しいと感じる。
学術的には、基礎・基本というものをある一定の線を引くことで、一般化され、社会的に理解されるとは思うのだけど、こうやって一定の線を引いてしまうことで、物事のつながりがなくなってしまったり、考え方を両極に分けすぎて間がなくなってしまうというようなことが起こると個人的には思っている。

例えば、男性と女性の差は?
生物学的に男性器をもって生まれたら男性、女性器をもって生まれたら女性と区別するとうまく分けることは可能だけど、そうすると、男性器をもって生まれた女性、女性器をもって生まれた男性はどうなるのか?

男性と女性は本来区別できるものではなく、グラデーションのようになっていて、男性よりの女性もいれば、女性よりの男性もいて、本来は分けて考えることはできない。という曖昧さを帯びているものだと思う。

生と死の差は何か?
生命維持活動している状態、昔で言う植物状態、これは生なのか死なのか?
睡眠。 これは生なのか?死なのか?
動物の冬眠は、生なのか死なのか?

こう考えていくと両極に分けて考えながらも、完全に分断はされるものではないように思う。

分かりやすや合理性を求めれば、きっと両極に分けて、違うものとして扱った方が理解はしやすいとは思うものの、やはり物事は曖昧さを含んでいると思う。

右でもない左でもないものがあって、上でもない下でもないものもあって、
スポーツの中には、攻撃でもない守備でもないものもあって、そんな曖昧などっちでもない部分が実は一番大切だったりすることがあると思う。

基礎・基本の話から脱線してしまいましが、いろいろな物事はマトリョーシカのように蓋を開ければ、また新たなマトリョーシカが出てくるように、基礎基本の線引きはあるかもしれないが、ある程度の曖昧さを帯びているということ。また、両極に分けながらも間はグラデーションのように、どちらでもない部分があるという認識を持つと、物事の見え方が変わるよに思う。

というなんとなくまとまりのない話で終わりましたが、基礎・基本ってどこまでなんだ??それは基礎・基本なのか??
という疑問をもったまま曖昧にして、今回の話はおしまいにしたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!!







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