科学の中の文化的な無意識

最近は「科学的」とか「エビデンスベース」という言葉が頻繁にどの業界でも使われるようになってきました。

スポーツ業界のトレーニング指導に携わっている方が、SNS上で、「科学は宗教ではない」ということを仰っていたので、本当にそうなのか??と疑問に思い、「科学は宗教ではない」というのは本当なんんだろうかと考えた。

例えばキリスト教では、神が人を創り、人のために万物を作っているという思想が根底にある。それは従属関係が生まれやすいということを意味している。それとは反対に、日本にある古神道などは存在者全てには決定的な従属関係はなく全てが共存するという思想を持っている。

科学者も人間であり、どこかの国の文化、そして教育を受けているということは、無意識にその思想を持つことになる。また、プロパガンダとして自分の実験とその結果にその国の文化や思想を持ちこまなければならなった過去があることも事実だと思う。

つまり、思想によっては「脳がすべてを支配する」みたいな上位下達のような一方的な情報交換が行われるという考えを持つ可能性もあるし、「すべては互いにフィードバックをし、共存し合っている」と考えをもつ可能性もある。

昔の西洋知は心身二元論でも有名なデカルトの影響を受けているものが多い。例えば臓器移植などは人体自動機械論が色濃く残っているし、取り換え可能なパーツとして考えれた過去がある。

人間が科学に関係しているということは、その国の教育、文化、思想が必ず関係してくると私は考える。つまりそこには宗教も関わってくるものだと私は考えている。

そして科学は万能なのか?
科学はやはり、人間の感覚に依存している。具体的には視覚に依存している。それが視覚でもなんでも、感覚に依存する限り絶対に正しいという保証はない。

例えば、地球は自転を繰り返しながら、太陽の周りを公転しているということになっているが、本当にそうなのか?と言われたら絶対にそうだ!!とは科学と言えども断じて言えないらしい。

地球が自転と公転を繰り返す状況を仮に想定した場合、それでうまく説明がつくということだけのようである。つまり、こうした現象の解明は説明原理でなされるもので、絶対客観性をもって立証されるものではない。全て諸々の現象は約束事で成り立っている仮の姿に過ぎない。

科学で諸々の現象を客観的にわかりやすく説明するという立場はとても重要であり、そういう約束事があるということは人間の社会においてはとても貴重であり重要であることは間違いない事実ではある。そして何よりその現象の外堀を埋めるかのように形を見出そうとすることはとても価値があるものだとも思う。

科学が約束事という言い回しは科学を身近に感じさせてくれるし、科学と自分との距離をいい距離感で保てるような気がする。



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