足を止める時それは意志ではなくプログラムだと知って子育てを変えた

妄想させてくれない絵画との出会い

学生の頃、本で見た絵画が忘れられない。

それは美しい男女が至近距離で見つめ合う絵画で片方は人間、もう片方は羽の生えた美しい女性だった。

羽ばかりでなく女性の身体はライオンという珍しい容姿だ。女性の前足はおどろくほど太く、肉食動物らしい力強さで男性の胸にしがみついている。
2人の胸は隙間なくぴったりとくっ付いている。

当時、まだ恋に恋するお年頃だった私は
すぐさま身分違い、いや種族の壁を乗り越えた
美しい恋愛メロドラマを展開しようとした。

でも何度トライしてもダメだった。
どんなに絵を見つめてもストーリーが進まないのだ。

寄り添う恋人同士のシルエットなのに
その二人の表情は鬼気迫るものがある。
どちらも威嚇しどちらも恐怖を感じているような不思議な表情。

このストーリーはなんだ?と
無知ゆえに違和感から抜け出せずに
その絵は私の記憶に残った。

オバサンになるにつれ、色々なことを都合よく忘れてきたが
この絵の衝撃は忘れられない。


人類発展の謎は虚構だったという衝撃

絵画の謎は頭の片隅にあったが、昨年その理由がはっきりした。それは本を朗読してくれるaudiobookアプリにハマっていた時。最後まで聴く自信がないまま聴き出したら、衝撃的な面白さで上下巻、続巻のホモデウスも最新刊も購入してしまったユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書で判明した。

著書によると、人間(ホモ・サピエンス)は虚構を信じることが出来たからここまで繁栄できたという。無い物を信じる、というのは地上では特殊な機能らしい。ちょうどそれを目の当たりにしたテレビ番組がある。NHKの又吉直樹のヘウレーカ!という番組で「目の無い、顔の輪郭だけのイラスト」を目の前にしたらどうするかという実験を見たことがあった。

絵を描けるという猿は、目のない顔の絵を気にせずぐちゃぐちゃっと線を描いた。いつものように、彼の絵を描いた。

人間の幼児は、先に描かれた顔の絵を見て、目の部分に黒い丸をふたつ描き込んだ。そう、足りないものを想像して描き足したのだ。

地上の生き物で、無い物を想像して作るってことがどれほど特殊な能力か想像できるだろうか?うちには金魚がいるが、もし金魚が「ここにも水があるかもしれない」って水槽から飛び出したら死んでしまう。無い物を信じる、というのは地上の生き物にとって命とりになる能力なのだ。

「ってことは猿が目を描いたらその後どんどん人間のように進化するかもしれない。SF映画のような人類の危機が起きるかもしれない」とソワソワしたのだが、残念ながらこの放送はNHKオンデマンドで見当たらなかった。

ウィキペディアで過去放送一覧を見たら3月13日 の「ボクらはなぜ“絵”を描くのか?」 という回だと思われる。書いていたらまた気になってきたので、ゲスト出演された京都造形芸術大学の齋藤亜矢さんの著書を読んでみようと思う。

絵画鑑賞=嗜好品という価値観だった私

さて、ずっと絵画というものに惹かれていたものの、どこかで絵なんて見ても仕方ないという思いがあった。

それはお金を払う趣味は嗜好品と同じものと思っていたからだ。嗜好品は生活とのバランスが大事。ましてや主婦の私だ。個人の嗜好品は後回しにして教育や生活にお金を使うべきだと信じていた。

しかし、食物連鎖の下っ端だった私たち人間が、よくわからないけど空中で遠く移動できたり、小さな板で見知らぬ同族とコミュニケーションを楽しむことが出来ているのは、虚構という「無い物を信じる能力」があったからこそ。

見知らぬストーリーに惹かれてしまうって事自体もう、本能的な欲求なのだ。

ってことはさ、なんかわかんないけど見たいって思う本能を「お金の時間無駄だから」って衰退させようとする現代の理性ってなんだろうか。人類の発展のためにAIに仕事奪われるとか言ってないで、ここらで理性をちょっと無視して見たいもの見たほうがいいじゃない?

机に座って大量の知識を詰め込む中学受験に抵抗があったけど、それがなぜかまではわかっていなかった。知識は手元の板に全部入っているのに、全てを知る必要があるんだろうか。頭に入ってたほうが場によっては良いこともあるけど、フォアグラ作るために餌を無理やり食べさせられているような不健康な勉強が果たして今、子どもに必要だろうか?

いやもう、沢山食べたいとかガツガツ食べられる上で心身ともに健康な子は良いけど、そうでないなら身体壊すから大食いみたいな勉強は辞めようねって話にまとまっちゃうんだけど。我が家は身体を壊す方なので、中学受験はしないことにした。

教育方針を変えて遊ぶことにした

「自分にないストーリー」に惹かれてしまうのは、人間の生き残り戦略の本能を満たすためということで納得した。ドラマもアニメも小説も漫画も人間には必要なんだね。

勉強どうする、なんて子どもの教育に散々悩んできたけどもう迷わない。YouTubeもネットフリックスもゲームも大いに良しとする。
本は良質なストーリが多いので読むだけでなく、audiobookアプリで聴けることを教えている。子どもに読ませたい&聞かせたい本があったら、どんどんおすすめする。

最近は子どもからも「これ面白いよ」と読んだ本をすすめられるし、漫画もアニメもゲームもおすすめされ続けている。なんなら「親を口説き落としてゲームを買わせる」まで交渉が上手くなればいいのにという欲がある。夫は娘に弱いのであっけなく鬼滅の刃全巻買ってたけど、ぜひぜひ財布のひもが固いこの母を倒してほしいと内心思っている。

気にしなきゃいけないのは、ここまで目を酷使する生活って人間は初めてだから、身体がついてきてくれないということ。だから健康維持のために時間を決めることが教育になっている。自分の身体は自分で管理することはけっこう難しい。私だってまだまだ出来ていないからね。

人の足を止める為に手を動かす

経験豊富な人、特殊な経験を持つ人に惹かれてしまうのは単なる嗜好ではない。本能にインプットされているプログラムだ。

だからストーリーは発信しよう。人の足を止めよう。自分のストーリーもまた、誰かにとっては見知らぬストーリーだからだ。
文章でもイラストでも動画でもいい。人間は誰かのストーリーを知りたいという生き物になのだ。というわけで私はせっせとこれを書いている。

さて2020年現在、子どもにはこういっている。
「ゲームは1日30分。YouTubeもネットフリックスも見ていい。その代わりに自分も手を動かして何か作ること。学校の勉強はスマイルゼミをやっとくこと」

作ったものを発信し、あれこれ言われて磨いていくって、それはもう仕事そのものだよな。今は絵を描いたり、お菓子作ってるだけかもしれないけど、その経験は思わぬ形で自分や他人を動かしていく源になる。

さて子どもの作ったものを発信するのはこれからだから、YouTubeやTwitterを安全に使えるようにネットリテラシーを一緒に学ばなくてはならないから、ここは親もぼやぼやしてられない。

このように何かを行うために必要なことを学ぶ、というのがストレスなく健康な学び方じゃないだろうか。

意味を知っても足を止めるギュスターヴ・モロー

忘れられない絵画のタイトルは「オイディプスとスフィンクス」
画家ギュスターブ・モローが神話の世界を描いたもの。検索すると真っ先に出てくるので、私が思っていた以上に有名な絵画らしい。

意味を知った今でも私はこの絵に目を奪われる。

生き残るのはオイディプスのほう、と知っているのにこの男性はどこか頼りなさげな表情で姿勢も脱力気味に見える。なんだか手に持った槍はしがみつくための棒のようにさえ見える。まさかこの後、彼が勝利するなんてこの絵のどこを見てもそうは感じられない。

かたやスフィンクスの身体からは、さぁこの青年を食い殺すぞという躍動感を感じる。どこか創作的な顔とは真逆の、生き生きとした肉体の表情を感じて違和感が強くなる。

人はこんなにも顔と肉体で違う表現ができるものだろうか?スフィンクスは首から下がライオンという特殊な構造だから常識は当てはまらないのかもしれない。しかし男性も数秒後の勝利の面影が全く感じられない。生身の人間でこのような場面を再現できるだろうか。この絵を見る度に、私の時間はいまだに止まってしまう。

想像できないストーリーの前で人は立ち止まる。その瞬間は理性という仮面の下で人を動かし続けてきた、進化のプログラムがゴウゴウとうなりを上げている瞬間なのだ。







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