0822 ゲド戦記観た

ゲド戦記を映画館で観た。
評判どおりの腑に落ちなさで、ちゃんとがっかりしてしまった。原作は海外文学で、原案は宮崎駿が書いた「シャナの旅」。そして主題歌のテルーの唄は萩原朔太郎の「こころ」をもとにしてあるらしくて、これだけのビッグネームをベースにしておきながらいい感じに作れんかった、っていうことは監督が本当に整理しきれんまま進んでしまったんやろうな…と思った。しかも「シャナの旅」はチベット民話の「犬になった王子」って作品をベースにされてるらしくて、これだけ一歩踏み込んで楽しめそうな作品なのに、結局のゲド戦記が全然おもんない、っていうのはめっちゃ悲しい。主題歌のなりたちを聞くと、それさえめっちゃ安直なポエムにしかなってないんじゃないか、みたいな気持ちも湧いてくる。

でも、ものや人には”真の名前”があって、それを知ることで魔法で操れるって設定はめっちゃええなと思った。うまく言葉にできんけど、本当にそんなことがありそうな気がしてくるというか、人とかものに与えられた名前はあくまでも仮の姿で、真の名前がある、って部分には惹かれてしまった。名前って結構ふわふわしたもので、ものは時代や環境によって呼ばれ方が違ったりするし(大判焼きを回転焼きって呼んだりとか)、人の名前も自分で名乗ってさえしまえばまかり通るシーンって割とある。けど、そのひとつひとつに真の名前がある、って考えると、その存在がぐっとリアリティを帯びるっていうか、ものとしてあるだけじゃなく、この世界に存在してるんやっていうことを言葉面じゃなくて理解できる気がする。何言うてるかわからんと思うけど、俺もまだわかってないけど、わかってほしい。あの設定はまじでいいねん。それ以外があまりにも部分的な説教みたいなセリフばっかで、終わったあと「好きな子が実はドラゴンでした!ってなったら俺は愛せるやろうか」みたいなわけわからんものだけ残った。宮崎駿の息子で作品作るって大変やろうけど、もうちょっとがんばってほしかった。

ほんで全然関係ない話。なんか最近ジャンル問わず、俺とか俺の周りで色々な物事が動き出してるんやけど、こう、仕事ってめっちゃ分かりやすくてええなと思う。丁寧に準備すればその分返ってくるし、よほど余計な詰め方せん限り、だいたいやった分はやった分として返ってくるやん。それが分かりやすく数字やったりかけられる言葉やったりするけど、なんかあまりにも不条理なことってそうないというか。

でもこと人間関係においてはまじでこの道理が中々通らんことって平気であって、まず正論は通用せん。長年連れ添った奥さんと別れて「私の20年返してよ」って言われた話とか、散々面倒みた彼氏に愛想つかされたとかそういう話を聞いて、本当にこの辺の理不尽さは一生向き合っていかないかんのかな…って気が重くなった。

てきとーに遊べる友達ならいい(それはそれでめっちゃ別ベクトルで大事やし)けど、家族とかパートナーとかマイメンとかそのレベルになってくると、こっちは積み上げてると思った分だけ積み上がってる気がしてるけど、ある日全然違う方向向いてました!ってことを突きつけられることとかあって、もうこれは事故でしかないと思うんやけど、自分で積み上げてきたと思ってる分だけ自分の選択が間違ってたんかなって振り返ってしまうやん。あの時もっとああしてれば、もっとこうしてればとか思うけど、常にそれなりのベストを尽くしてきてるはずやから、やっぱこれは事故でしかないと思う。それ全部自分のせいやと思ったら正気でおれんくない???って話聞いてて思うんやけど、この辺は素直に向き合えるほうがいいんやろうか。割とすぐに事故やと思って流せる方やからこそ、いや、あの事故は防げたのかも…みたいになってる人見るとマジメか!って突っ込みたくなる。

そういう事故はなるべく減らしたいからこそ危ない道やって思ったらすぐに避けるとか、ある程度事故を経験しておいて、事故になりそうな瞬間、道、自分のコンディションに気づいてサッとハンドル切れるようになりたい。この辺のハンドルさばきについては、自分もまだまだやな〜って思う。仕事がんばろ。

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