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マイファニーバレンタイン

私の父は面白い人で、まだ10にもならないうちから私を理想の人間にすべく方々へ連れて回った。その中でも鮮明に覚えているのは、ベランダで蚊取り線香が崩れ行くさまをぽっと眺めるなどして退屈を弄ぶ私に「お気に入りのジャズを聴きに行こう」と声をかけ、遥々オオフナへと出向いた時のことだった。

オオフナという場所は思ったよりもずっと遠く、私は後部座席に行儀悪く寝転んで本の一冊も持って来なかったことをひどく後悔した。この行き場のない退屈をどうにかして打破すべく、私は「パパァ、後で本買って〜」と小さく申し訳程度に暴れた。

ハンドルを握る父は私を一瞥することもなく「重和さんと呼びなさい。」とぴしゃり。我が家はマンガもゲームも禁止であったし、お父さんと呼ぶのも許されてはいなかった。パパなんてのはもってのほか。私が好きな男の人を下の名前にさんをつけて呼ぶのは、尊敬と信頼を込めて。そしてここから来ている。

やっとこさ着いたオオフナは、私の住むアオヤマとは違ってどこもかしこも大作りな街であった。大きなブックオフ、「あそこで本ならいくらでも買ってやる」と父。マンガはダメだ。としっかり付け足された。そうして車を停めたのはちょっと小洒落た、でもどことなく垢抜けないカフェのような場所だった。

中ではとろんとろんとピアノの音がして、その音の主はドアを開けてやってきたこちらを見て転がるように走ってきた。赤いワンピースに艶々とした短い黒髪の綺麗な人だったと思う。父とけらけらと談笑して、所狭しと並んだ料理の載ったテーブルに私たちを促した。

父と暮らしていた頃は常に和食であった私には、洋のものばかりが並ぶそこは天国であった。まだ小学生、ホッケよりもハンバーグの方が好きだ。「これはキッシュ、中にトマト入れたけど平気?」トマトは嫌いだったが文句なしにおいしかった。彼女に勧められるままにあれこれ食べた。父の見ぬ間に暴食だ。

デザートのチョコケーキまでたらふく食べて満足した私は、一番奥の席に腰掛けてうっとりしていた。肝心のジャズはそっちのけでうとうとする私の二の腕を、隣に座った父は何度もつねった。隙を狙って舟を漕ぐ私を諦めない父はついに太ももをギッとつねった。前を向くと赤いワンピースの人の出番だった。

前に座るお姉さんたちの隙間から見えるその人は、とんとんと鍵盤を撫でながら何とも言えぬ表情でいて、それがあんまりにも綺麗でびっくりした。前のめりになって、顔を前にねじ込ませるようにして、吸い込まれるように見て、聴いた。行儀の悪いことなのに、父は二の腕も太もももつねって来なかった。

会がお開きになり、みなが散り散りになった後、彼女は私たちの元にやっぱり走るようにしてやってきた。彼女は友達が多いらしく、代わる代わる色々な人から何かしらをもらって両手はいっぱいだった。「どうでしたか!」と聞く彼女に父はただ頷くだけだった。私は父の褒めてくれないところが嫌いだった。

「すごいです!綺麗でした!」と父の代わりに場を持たせるように、でも本当にそう思ったし。よそ行きの声でハキハキ言うと、彼女は顔をくしゃっとして笑った。「曲名教えてあげるね。」とチョコケーキに敷いていた白いレースみたいな紙に彼女は「ビルエヴァンス マイファニーバレンタイン」と書いた。

父は私の後ろから「へえ、すごいねえ。」とだけ呟いた。私はもらった紙に踊る彼女の字が担任の先生のように大きく綺麗でトメハネもしっかりしていることに感心し、心底彼女を尊敬した。


父を亡くしてから何年も経った。私はもうアオヤマには住んでいない。本がなくても退屈しない時代になった。けれども未だにホッケよりもハンバーグが好きで、でも今は何よりもお酒が好きだ。


好きな人が出来た。随分年上で、でも父にはちっとも似ていない、物腰柔らかでちょっぴりおしゃべりな人だ。その人に連れられて、とびきりお洒落で雰囲気の良いバーへ行った。とろりと流れるジャズピアノがやさしい、洗練されて落ち着いた場所だった。

「何か甘くて飲みやすいものを」と頼んでもらって、出てきたのはラムコークだった。セルバレイというラムで、最近世界中に流行った外国の歌手がプロデュースしたらしかった。ボトルラベルのCACAOの文字よろしく、チョコレートの味と匂いがふんわりとした。はじけるコーラもさわやかだ。

「チョコの味がする!」と喜んだ私にその人はどれどれとひとくち。「おお!ほんとだ!」とびっくりする顔も面白くてふたりでくすくす笑った。つまらないのによくしゃべる、そういう人なのに、なぜだかそのまま静かになった。私はこちらを見るその人のくりくりとした目を黙って見ていた。しん、とした。

曲の切り替わりだった。聴き覚えのあるとんとんとしたピアノにハッとした。オオフナから帰った後、家でしつこいくらい流れていた、「ビルエヴァンスだ!」ぽってりしたほっぺたのマスターがオッという顔をして「そうです。」と答えた。「ビルエヴァンスの、マイファニーバレンタイン!」

「好きな曲なの?」と聞かれた。別に好きだというわけではないし、知っているだけだし、と思って曖昧に首を傾げた。「う〜ん?」その人は、「物知りだねえ。」と呟いて、しばし曲に耳を傾けてまた口を開いた。「へえ、すごいね。」ああ、と声が出た。

たららららと弾むピアノの音と共に遥か昔のオオフナの記憶が蘇る。なるほど、なるほど、なるほど。私は何となく、本当に何となくだ、彼女にこっそり憧れていたのだと思う。ちょっぴりふくよかで、赤の似合うショートヘアの黒髪の人。綺麗で素直で、丁寧で大きな字。トマト、キッシュ、チョコケーキ。

その時、父も彼女も、そして隣に座る好きな人のことまでも猛烈に嫌いになった。きっと父も彼女の前ではつまらないのによくしゃべる人だったのだろう。10にもならない娘を連れ県境までも越えて、彼女を眺めに。隣に座る人が今こうして私を見ているように。どうしようもない人だと思った。

それからすぐに、その人とは連絡を絶った。完全にとばっちり、全く関係はないけれども、何となく嫌になってしまったのだ。父に似ている気がして。

ふっくらしててかわいいと言われる。黒髪のショートヘアは楚々として良いと。赤が一番似合うねともよく。でももう一刻も早く彼女から遠ざかりたかった。だけどこのふくふくした身体は急には痩せられないし、髪はすぐに伸びやしない。奮発した赤いワンピースやブラウスはクローゼットに鎮座したまま。

たぶん、じきに私は減量する。髪も伸びて色も変わる。赤よりも似合う別の色を見つけて、クローゼットは一気に塗り替わるはず。年上の人は父を思い出しそうで、もうこりごり。こりごりと言うには何も何一つとて起こってはいないけれど。

でも、セルバレイのラムコークは好きだ。
たぶんずっと。
その時好きだった人にも、夢でならまた会いたいかもしれない。


#読み物 #創作 #短編小説

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