たとえ世界を変えることはできなくても、私にはするべきことがある。
ぼくはね、ついにわかったよ。
ひとはなぜ生きるのか。
誰かを少しでも幸せにするためなんだ。
社会をよくしたり、世界中の人びとを幸せにできたらそれに越したことはないけど。
たった一人のひとでもいいんだ。そのひとを少しでも幸せにするためにひとは生きるんだ。
このツイートで見た言葉である。
世界を変えたい、と思っていたあのとき
世界中を動かすような活動をしている人が、この世界にはいる。教育、環境、人道支援などだ。
私も漠然と、そのような人に憧れていた。特に何をしたいということはなかったが、例えば自分が思ったことをツイートしたら、多くの人がそれをリツイートして、やがて世界が変わっていくような影響力のある人になりたいと思っていた。
例えば「いらないランドセルを恵まれないこどもたちに寄付しよう!」と私がツイートしたら、「honokaさんに教わって、私も寄付してきました!」というリプライがつくような人になりたいと思っていた。
私の無力さを知った夏
そんな幻想が崩れたのはあの震災のときだった。NHKから流れる映像に、文字通り言葉を失った。私はテレビの前に正座して、リモコンを握ったまま呆然としていた。
あの日の真っ青で透き通った空の広さを、よく覚えている。残酷なほどに空は綺麗だった。東日本大震災の被災者も、あの日の夜は星が綺麗だったと言っている。
私は学業の関係などもあるし、イタリア語は全くできなかったので、被災地に行きたくても行けなかった。第一行ったとしても足手まといになるだけだし、飛行機に乗っている間にもたくさんの人が亡くなっていくのだが…。
あの映像は、人間がこんなにも非力なのかと私に思わせた。当時の日記などにも似たようなことが書いてある。また、当時Twitterなどを使うことは親に禁じられていたし、何よりインターネットの環境が自由でなかったので、Google翻訳頼りのイタリア語だとしても、何かを発信することさえできなかった。
私はテレビからと新聞からの報道を見て、ただひたすらに祈ることしかできなかった。亡くなった人が安らかな眠りにつけていることと、乗り越えた人の悲しみが少しでも早く癒えるように。私は毎晩星空の下、目を閉じて祈った。
人間は考える葦である
夭折したパスカルの名言に、以下のものがある。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」
人々はこの「考える」といった部分について論じてきたが、私は2番目の文章(自然の中で…)について考えていきたいと思う。
私達人間は、本当に弱い存在だ。21世紀になって科学技術は発展し、さまざまなものを手に入れた。それでも変わらないものは「心」だ。
ネアンデルタール人が仲間を埋葬していたように、ナチス・ドイツの強制収容所の中でも愛する人との指輪だけは守ったように、私達は互いを尊重しあい、愛し合ってきた。
それでも、本当に人間は非力なものだ。そして弱いものだ。自然災害が起きたら命を落とすし、交通事故が起きたらなすすべがない。
人生とは、《喪失》の歴史なのかもしれない。あらゆるものを失っても最後に残るのはなにかを、私達は神様に試されているのかもしれない。私は最終的に残るのは人との繋がりの中で作られた心だと思うけれど、その心に何が入るかは個人の自由で決められる。心までは命令できない。
弱さの中に宿る強さを抱え、私にできることを。
この本に詳しいが(これは私の愛読書であり、人生のバイブルでもある)、ラクイラのあるアブルッツォ州には「強くて優しい(forte e gentile)」人が住んでいると、昔から言われてきた。
実際、ラクイラの人は本当に優しい人が多い。困っていたら手を差し伸べてくれるその優しさに、私は何度感謝したか数えられないほどだ。
彼らの共通点は、言うまでもないが、この震災の中を生きてきたことだ。ラクイラは1703年などにも数々の大地震に見舞われてきた都市だが、そのたびにコッレマッジョ大聖堂は修復され、そのたびに人々は―たとえどんななに時間がかかろうと―その《喪失》を乗り越えてきた。
中には乗り越えられなかった人や、喪失の重みに必死に耐えた人もいることを私達は忘れてはならない。そしてこのような人に対する心理学的な援助があったということも、忘れてはならない。
そのような状況の中で、私にできることとして、あの日NHKの画面を見ながら思ったことは、「イタリアの震災被災者たちを助けたい」ということだった。
その思いを現実にするために私は今勉強をしているが、それが冒頭で紹介した、
たった一人のひとでもいいんだ。
そのひとを少しでも幸せにするためにひとは生きるんだ。
という言葉に繋がってくる。
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