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実家の親が元気という幻想は人類のバグ〜はじまり編


未婚独身アラフォー孤独死まっしぐらのわたしが、ある日突然、アルツハイマー型認知症の父親(以後:やっさんと呼びます)の介護をすることになった。

“ある日突然”と言ってしまったが…やっさんの認知症はすでに何年も前から発症していて、日々日々、進行していることも当然知っていた。

両親が暮らす実家には1年に1度、多くても2度顔を出す程度の年が何年も続き、その間、ゆっくりと着実にやっさんの脳は萎縮していったのだ。
そして、そのやっさんの変貌に毎日24時間対峙してきた母の心的疲労は、計り知れないほど大きなものだった。

やっさんの変化も母の変化も、気づけなかったというより気づいてしまうことを意識的に避けていたという表現が、実のところ正しい。対処方法を見出せぬまま放置する形になったおかげで、やっさんの認知症は急激に進んでしまった。

認知症は服薬することで病状を抑えることはできても、完治することはない病気である。
なぜ、もっと早く病院に連れて行かなかったのか。なぜ、もっと早く母親のSOSを聞いてあげなかったのか。
たらればを言い出したらキリがなく、少しでも認知症の知識があれば、今のような状態にはなっていなかったかもしれない。

あほんだらの娘であったわたしの脳は「親は変わらず元気でいるもの」というバグを起こし、その幻想を信じて揺るがず、現実から逃げ続けた結果がこの有様だった。

そのあほんだらが、超高齢化社会へ向けてなにを発信できるか考えた結果を綴ろうと思う。


母、倒れる

ドン!とそのトリガーが引かれたのは、2017年10月10日(火)。
職場にいたわたしのスマホに着信があった。
「◯◯病院です、○○さん(母の名)入院することになりましたので、早めにこちらにいらしてください」

母が倒れた。
やっさんの認知症のすべてを見て感じて、たったひとりで真正面から向き合ってきた母が倒れた。 病名は“介護うつ”

元々不眠がちで薬を処方してもらうため通院していた病院に診察で訪れ、そのまま「帰りたくない、もう帰りたくない」と倒れこんでしまったらしい。主治医もこの状態では家には帰せないとなり、即入院となった。

「ん、待てよ…」

通常は家に引きこもっているやっさんは、どうしているんだろうか。そして母は家に帰れない。

「なんてこったぁー!!!!!」

この時、わたしが一番最初に思ったことは今まさに倒れた母の心配ではなく「やっさんを1人にしておくことはできない」だった。非情な娘かもしれないが、病院にいるなら母のことは一旦おいておこう、と思った。

とにかく、一刻も早くやっさんのいる実家へ戻らなければならない。
いや、わたしは仕事中だ! 一会社員としての責任は少なからずある。
が、これはひとりでの解決なんてムリ!無理!即決!会社に言う!と直感的に動いていた。席に戻ってすぐに上司に顛末を話した。

「今から実家に帰ってもいいですか!?」

かなり横暴な話であることはわかっていたが、背に腹は変えられない。
嘘もつけない。なら正直に話した方がいいに決まってる。
これを書いている今も信じられないけど、即決で送り出してもらえた。
立て替えていた交通費までその場で清算してもらって…。

そのまま自宅へ戻り、軽く荷物をまとめて新幹線で実家へ向かった。
直前に母からの電話。
「ごめん、もう無理、ごめんね…」。今にも命の灯火が消えそうな声で謝られた。
(お、おん、……なんも言えねぇ)
今まで無視を決め込んできた過去の自分に往復ビンタしながら、できることをするしかないと心に決めた。



最寄り駅に着いてから母の入院先に電話。明るい声の看護師さんが持ってきて欲しいものを淡々と告げる。当たり前だが向こうは仕事。端的に的確に必要事項を伝えてもらった。
こちらは冷静にふるまっておいても全然冷静じゃないわけで、それは電話越しに伝わっていたのかもしれない。

その時の殴り書きメモが残っていたので記載。
(各病院によって異なると思います。その後追加したものも含む)

・歯ブラシ
・コップ
・シャンプー、リンス、ボディソープ
・洗剤(院内で洗濯する場合)
・タオル、バスタオル
・ブラシ
・ティッシュ、トイレットペーパー
・下着、靴下 各2〜3枚
・パジャマ
・スリッパ(つま先まで覆われていて濡れても平気なタイプ)
・携帯の充電器
・ハンガー
・ピンチハンガー
・着替え(セーターやカーディガン、ズボン)

その日は、おそらく年に1度あるかないかのキレのある決断力と反復横跳びばりのステップで100均、スーパー、ドラッグストアを効率よくまわって必要なものを揃え、やっさんのいる実家へ直行した。
駅から家まではバスに乗って30分。灯がどんどん少なくなり、闇が手招きしながら迎えにくる田舎特有の道のりが不安を増幅させていく。

やっさんは、この少し前の夏に、夕方ひとりで外に出てバスに乗り、戻って来られなくなるという失踪事件を起こしていた。

バスを降りて顔をあげると、家の灯がついている。
いる、ちゃんと家にいる。ほんの少しの安堵とともに、胃液がこみ上げるのがわかる。
どきどきしながら玄関を開けるとキッチンで食べるものを探しているやっさんと目があった。

「おぅ、おかえり」「うん、ただいま」

「ご飯食べてるね、薬は飲んだ?」

「食べてないよ、おかやん帰ってこないんだ、何やってるんだか」

うん、食べてないかー。そっかそっか…。

母からケアマネさんに話が通っていて、夕飯用におにぎり2個と即席カップの味噌汁を買ってもらっていたことは知っていた。ゴミを見るとちゃんとおにぎりは食べている。カップの味噌汁はどうやら食べ方がわからなかった様子で、封は開いてるが味噌がパウチのまま入っていた。
(ケアマネさん=ケアマネージャーは要介護認定を受けた方を様々な面からサポートする介護の専門員です。介護用語は詳細省きます)


認知症患者
であり、さらに持病の糖尿病を患っているやっさんにとって、朝夕2回の服薬が命を繋げる行為そのものだった。

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「腹減ったな」と繰り返すやっさんに少しのごはんとお味噌汁を食べてもらう。薬を飲んでもらおうとダイニングチェアにかかった手提げ袋の中をのぞくと、母が言っていた通り薬が無造作に入れられていた。

やっさんが5粒の錠剤を一粒ずつ口に入れる。ポットのお湯を少し水で割ってぬるま湯にして渡したが、湯を飲む気配がない。喉に詰まらせるんじゃないかと心配になる。
やっさんのすることひとつひとつの動作に身に覚えがなくて不安になる。こんな風に薬を飲む人だっただろうか……? 途端に怖くなった。

「おかやん、めずらしく泊まってくんのか」

やっさんは心配性だ。
母が家にいないことでどうやら不安になっているようだった。震災のときと混同しているみたいで「やかんに水入れとくか、水道止まった時のために」とも言っていた。

夜ごはんを食べて寝る準備をはじめると、母がいないことは忘れているようだった。玄関の鍵閉めはやっさんの日課である。寝る前になんどもなんども玄関の鍵、裏口の鍵、窓の鍵をチェックをしていた。


やっさんの日常、そして認知度

当時の状況を少し補足。
やっさんは睡眠時以外はなにかを口にしていないといられない人だった。気づいたら家中の棚を漁り食べ物を探していた。1日中である。
冷蔵庫はもはや機能していないんじゃないかというぐらい1日に何度も開け閉めが繰り返され、間をあけることなく「腹へった」と催促がはじまる…。

もはや我が家では伝説と化しているが、自分で茹でたゆで卵1パック(12個)や、巨大なバナナ一房(母の記憶だと12本)、炊飯ジャーのご飯2合を夕飯前に完食したことがある。

フードファイターかよ…

最初に聞いたときは「そんなバカな話あるかーい!」だったが、側で観察していると82歳の胃袋がまるで宇宙空間と繋がっているかのようにブラックボックスであることがわかってきた。

1日中繰り返されるリビングとキッチンの往来。棚の開け閉め、冷蔵庫開けっぱなし。
母は料理が得意な人だったので、総入れ歯のやっさんのために柔らかいものやお腹にたまりそうなものを試行錯誤しながら作って食べさせていた。

それでも鍋いっぱいに作っていた煮物がなくなっていたり、自分で食べようと思っていたおやつを勝手に食べられることもしょっちゅうだった。
で、やっさんは食べたことを忘れてしまうので、必然的に「食べたでしょ」「食べてない」の不毛の口論が始まってしまう。
これ、相手が認知症とわかっているからこそのハラワタ煮えくり案件らしい。

一度、激昂した母が電話で話していたのを聞いたことがある。

「絶対食べてるくせに食べてないって言い張るんだよ、頭にくる!」

世が世なら母の手によってミサイルが発射されていてもおかしくない激怒っぷりであった。食べ物の恨みは、国を滅ぼしかねない。

やっさんとの生活の中で母のストレスはたくさんあったと思うが、あとで話を聞いてみると、このやっさんの歪んだ食生活が相当こたえていたようだった。

「一緒になって食べてしまう」と前々から言っていた母は、この2年ほどで体重が10kg以上増えていた。

家の中徘徊に見かねた母は、たまにお小遣いをあげてやっさんを買い物に行かせていた。やっさんが家を出てくれさえすれば、ひとりになれるという気持ちもあっただろう。

やっさんは認知症になる前から、お金はあればあるだけ使ってしまう人で、病的なほど買い物好きだった。
そして若いころから糖尿病を患っていたくせに、甘いものが大好き。あんパンのあんだけを食べ、残りのパンにたっぷりのジャムをつけて食べる人だ。

「好きなものを買って食べることが趣味だから、食べられなくなったら死ぬね」

これはもう家族の合言葉のようなものだが、完全なる夫婦ふたり年金生活の中、わが家のエンゲル係数は目玉がぶっ飛ぶぐらい高かった。

家は、山を切り崩した新興住宅街の入り口に立つ小さな一軒家で、少し坂を降りたところに某コンビニがあった。
当時やっさんはそこへ買い物に行くのが日課。

特に好きなものは甘いパン、ヨーグルト、バナナ、オロナミンC、週刊誌(エロ多め)。
コンビニ用のプリペイドカードに、持ってるお金は全部入金する。
一緒に買い物についていくと、そのお金の使い方には呆れるしかなかった。

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母が倒れる少し前までは家に鍵をかけてバスに乗り、市街地へ出かけることもできていたが、夏の事件があってから遠方へ出歩くことはほぼなくなっていた。


精神病院という場所

話を戻して…母が倒れた次の日。

やっさんは朝と夕の服薬さえしっかりしていれば、昼間はひとりにしておいても大丈夫と判断。
昼間は宅配弁当を頼んでいたので午前中に受け取り「やっさんの昼ごはん」とメモを書いて弁当に貼った。

弁当は玄関入り口の宅配弁当BOXの中へ保冷材と一緒に入れておくことにした。冷蔵庫へ入れておき、見つかったら最後、何時であるかは関係なくその場で食べられてしまうからだ。

あともうひとつ、母の入院道具とあわせて一緒に100均で購入しておいたB4サイズのスケッチブックにわたしの連絡先と以下のメモを残した。
その後、このスケッチブックはいろんなお役立ちをするようになる。

「◯◯◯(母の名前)は入院中です。しばらく家へは帰れません」
「●●●(わたしの名前)は病院へ行ってきます。◯時までに戻ります」

そして家中のいたるところにちょっとずつお菓子を隠し(宝探しチャレンジ)、朝ごはんを食べさせ、薬を飲ませて、わたしは母の病院へ向かった。

バスと電車を乗り継ぎ、およそ1時間半で病院へ到着。
入院患者のいるスペースの前には鉄製の重い扉があり、案内してくれた看護師さんに忠告を受ける。

「この扉は開けるときも閉めるときも周りに人がいないか確認して。外に出ようとした患者さんがはさまれたりしないように」

重い扉を開けてナースステーションへ。
看護師さんが母を呼びに行く間、持ち物チェックが始まった。
母の持ち物には全部に名前を書くことが義務付けられ、「これとこれに名前書いといて」とサインペンを渡される。
よもや母親の下着にペン入れする日が来ようとは…である。

精神病院ということもあり、ひも状のもの、刃物は一切持ち込み禁止であった。
「携帯の充電器はわたしたちが保管していて、この場所で使用するときだけ渡しています」とのこと。

看護師さんとそんなやり取りをしていたら母が連れられてやってきた。顔面蒼白とはこのことだな、という青白い顔。

「来てくれたぁ、ありがとう」

重たそうにゆっくりと身体を運んできて、母はわたしの隣の椅子に座った。

持ってきたスリッパを履かせる。ふと見るとふくらはぎには青い血管が浮き出ていて、すっかり浮腫んでいた。

それでも面と向かうと優しくできない自分の性分には呆れるが、出来るだけ普通に接した。
“動揺なんてしてないぜ”と、嘘でも伝わればいいと思っていた。

「洗濯は病院内でクリーニングができるらしいよ」と言ったら「お金かかるからもったいない。洗剤買ってきて」
それに続くように“あれが欲しい、これを持ってきて”と母の要望を聞きながらメモをとった。

この時は気づかなかったけれど、当初から母は入院が長期になることを予想していたに違いなかった。


八方塞がりとは、つまりこういうこと

母と別れると、元主治医の院長先生が待っていた。入院の経緯と今までの治療、今後の治療についてを教えてもらう。確かなことは「いつまで入院になるかはわからない」ということだけだった。
そして耳を疑う言葉を聞いた…。

「昨日、お父さんも一緒に入院の説明したんだけどね」

『ん!!!!!!? (やっさんも一緒に?)』

ここで新たな事実が判明する。前日、実は、母はやっさんを連れて病院を訪れていた。そして、そのまま入院になったため父も一緒に院長先生から母の入院の説明を受けていたらしいのだ。

もちろんやっさんは全くそのことを覚えていない。
この後、「母、入院してる」を500万回ぐらい説明することになるわけだが…。


そのまま、病院内にある相談室のようなところで臨床心理士とケアマネさんとわたしの3人でやっさんのことを話しあった。

臨床心理士さんの仕事は、心の問題を抱えた人(=母)に対し、臨床心理的技法を用いて問題解決のサポートをすること。
基本的には母の言い分を聞き、それをどうしたら実現できるかを提案する。
母寄りの意見になるのは当然だった。

一方、ケアマネさんは要介護者であるやっさんのサポートにまわる側面が強い。ケアマネさんからの提案はヘルパーを使うことでどうにか母が戻れるまでやっさんが生活することはできないだろうか、とのことだった。

しかし、前日にやっさんと接していたわたしは、やっさんがひとりで日常生活を送ることなどどう考えても不可能であると確信していた。

ごはんは誰が用意するのか、朝と夕の服薬がきちんとできるか、掃除、洗濯をヘルパーさんに頼んだとしても、見知らぬ顔のヘルパーさんを家にあげるとは思えなかった。

ヘルパーさんには、さすがに宝探しチャレンジをお願いすることもできないだろう。

では、わたし個人は一体どうしたかったのか……情けないことに自分の中でも答えがまったく見えなくて呆然としていた。本当にどうしたらいいかわからなかった。

三者三様、妥協点が見つからない。視線が宙を飛ぶ。




うん、どう考えても、この状態は積んでるね!!!!



埒が明かないのでケアマネさんの提案通りに、介護保険サービスを利用してヘルパーさんに手助けしてもらうことを決めた。謎の三者面談は、ほぼほぼ空中分解にて終了。

いやぁ、もう前が見えません。絶望の壁が高すぎて。


そして、次の日、姉(←NEW)と入れ替わるようにわたしは東京へ戻った。
ここへ来ての姉初登場であるのだが、やっさんと母の状態はもちろん、今後のことについて、わたしたちには話し合わなければならない課題が積み上がっていた。
避けて避けて避けてきた結果がこのザマだ。

お互いに両親の老いと向き合って来なかった背徳感があった。
だからこそ、真剣に介護のことを考えた。自分たちの親に今この瞬間から何をしてあげられるのか。

今思えば、姉の介護のスタンスは初めから見習うべきことが多かった。わたしができないことを率先してやってくれて、やっさんは姉のいうことならすんなり聞き入れることが多かった。

すぐに感情的になってしまうわたしとは違い、姉はシンプルにやっさんと対峙していた。認知症患者への受け応えを誰に習った訳でもないのに。

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はじまり編なのにずいぶんと長い文章になってしまったが…
なんやかんやあって次回は…

「休職宣言! お暇をいただきます」
「ヘルパーさんは魔法使いじゃない」
「絶望の淵に直立不動した、たった2日で。」


と続けようかと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

もれなくやっさんのあんぱん代となるでしょう。あとだいすきなオロナミンCも買ってあげたいと思います。