見出し画像

仏教と「推し」と阿弥陀仏

僧侶であり「煩悩クリエイター」を自称する稲田ズイキさんがこんな文章を書いていた。

King & Princeは「一即多・多即一」を歌い続ける──僧侶が仏教的視座で考える岩橋玄樹の脱退とアイドルの永遠性
https://www.cyzo.com/2021/04/post_274185_entry.html

「推し」であるアイドルのグループ脱退に嘆くファンの救いを求める声へのアンサーコラム。

私はアイドルを「推す」身ではないが、これまでも大好きなバンドの解散など、愛すべき存在の喪失の経験から、その悲しみには共感できる部分がある。そう思いながらこのコラムを読んだ。

稲田さんの言葉は実に明快であり、「まさに」というものだ。いくつか響く言葉を紹介しておこう。

アイドルは諸行無常である
アイドルは突然いなくなってしまう。卒業、脱退、スキャンダル、あらゆる無常が待ち構えている。アイドルは決して永遠じゃない。
忘れちゃいけないのは、「推す」には、はじめから別れが約束されているということだ。

仏教の教えを踏まえ、「推し」ということを掘り下げ、最後には相談者の思いにも寄り添う。素晴らしいコラムだった。

そんなコラムを読みながら、ふと、仏教を「推し」という側面から見てみると、また味わい方が変わるのではないかと考え、今回こうして文章にしてみることにした。

仏教と「推し」

まず仏教では「推し」ということをどう考えるだろうか?

稲田さんの言葉にもある通り、「推す」ことは別れが約束されている。大事な存在との別れ。仏教には「愛別離苦」ということもある通り、別れは「苦」だ。つまり「推す」という行為はそもそも「苦」を内包していると言える。

そして仏教では「所有」も「苦」であるとも説く。所有する、ということは、自分のものと思い込むことであり、自分のものだから思い通りになると思い込むことである。しかし、実際には思い通りにならず、壊れたり、自分の手から離れていく。つまり、無常なのだ。けれど所有にとらわれることは、諸行無常を受け入れ難くすることであるから、所有そのものが「苦」を内包してしまうことになる。

「推しを持つ」こともそれに似ている。

もう一度稲田さんの言葉を引用しよう。

私たちは忘れてしまう。毎年シングル曲を3枚は出してくれるものだと、毎週テレビに出てくれるものだと、これからもずっと一緒に人生を歩んでいくものなのだと。いつしか永遠なのだと思い込んでしまう。

所有すること、推しを持つこと、それは「苦」と共にある。ならばどうすればいいか。そこで、仏教は所有を制限した。

言い換えるならば、仏教は「推すな推すな」という教えだ。

だが、それは無理だ。

上島竜兵が「押すな押すな」と言えば、押してしまうのが人間の性。お釈迦様に「推すな推すな」と言われても、「推し」てしまうのが私たちだ。

それはアイドルに限らない。俳優、スポーツ選手、バンド、アニメ、ゲーム、食べ物、我々は様々なものを「推し」ながら生きている。けれどそれらもアイドル同様永遠ではない。

スポーツ選手には引退があり、バンドには解散、アニメにも容赦なく放送局の都合やクールの終わりが襲いかかる。ソシャゲにもサ終があるし、ゲームや食べ物は自分の体が受け付けなくなる日が必ずくる。どんな「推し」にも必ず終わりが来る。幸いにして、長く推すことができるものに出会ったとしても、いずれ自分に老病死が訪れ、こちら側から先に別れを告げなければならない場合もあるだろう。

『推す』には、はじめから別れが約束されている。

本当にその通りだ。もちろん、別れに至るまでには幸せもあるのかもしれないが、なんともやりきれない虚しさと悲しさがそこには表裏一体のようにピッタリと貼り付いている。

お釈迦様はその苦しみから離れるために、「推す」ことからも離れようとした。

だが、それは私たちにはできない。

終わりのない「推し」

しかし、そんな私たちのために開かれたのが、大乗仏教だ。大乗仏教は、「推す」ことはやめられない私たちのためにある教えといっても過言ではない。

その中で最も特徴的と言える存在が、阿弥陀仏という仏だ。阿弥陀仏は、ブッダとなる前は法蔵(菩薩)という人だった。

法蔵もお釈迦様のように、
「『推し』には必ず終わりがくる。だから苦しい。私も苦しいし、誰もが苦しんでいる」ということに気づく。

しかし法蔵はさらに一歩踏み込んで考える。
「もし、終わりのない『推し』がいたとしたらどうだろう?」と。

そこで法蔵は世自在王仏というブッダに問う。しかし世自在王仏すら、これまでそんな「推し」は存在しなかったと答える。

そこで法蔵は決心する。
「終わりのない「推し」などありえない?それならば、私がそうなってみせよう」と。

そうしてブッダとなったのが阿弥陀仏だ。阿弥陀という名前は「空間的無限」「時間的無限」を表す。つまり、阿弥陀仏とは、終わりが(厳密にははじまりも)ないという名前なのだ。

いつでもどこでも、どんな時代の人であっても、誰もが終わりなく「推す」ことのできる存在。法蔵は、そういう仏と成っていったのだ。

しかし、もし仮に本当に終わらない「推し」がいたとしても、やはり私の側には限りがあり、終わりがある。「推し」よりも先に、私の側から別れを告げなければならないのであれば、「推し」に終わりがあるのと同じだ。

だが、阿弥陀仏はそこも見事に克服した。

私はいずれ死を迎える。しかし、その後は、今度は私を終わりのない世界に迎え取ろうというのだ。

その世界の名前は、極楽浄土

常に阿弥陀仏の説法ライブが響き渡る世界だ。

死という形で人の世界を離れても、今度は極楽浄土でまた阿弥陀仏のことを推し続けることができる。阿弥陀仏を「推す」ことには、終わりがないのだ。阿弥陀仏とは、そういう仏なのだ。

けれど、突然そんなことを言われてもにわかには信じられないと思うだろう。

仏教でも諸行は無常、永遠なんてものはないと否定されているし、「推し」との別れを通して、私たちもそれを肌感覚でわかっている。永遠に「推す」ことができるものがあるなら信じたい。でも、これまでその想いが裏切られてきた以上は、それを信じて傷つくのが怖いし、ありえないものを信じるほど愚かではない。私もそう思う。

実際に、経典にも阿弥陀仏のいる極楽浄土は遥か遥か遠くにある世界と説かれている。

これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。『仏説阿弥陀経』

だがこれは、実際の物理的な距離ではなく、いわば心の距離だ。

信じたい。でも裏切られるのが怖い。だから信じたくない、ありえないことを信じるほどバカじゃない。

そういう私の心が作り出す距離。それが「十万億の仏土」という途方も無い距離を生み出してしまっている。

現に別の経典にはこう説かれている。

阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。
『仏説観無量寿経』

阿弥陀仏は遠くじゃない、本当は近くにいる。

そういえば「会いに行けるアイドル」というキャッチフレーズがあったが、阿弥陀仏の場合は「会いに来てくれるブッダ」と言えるかもしれない。私が作り出している心の距離を克服すれば、実は阿弥陀仏はいつも近くに来ていることに気づくことができるのだ。

それではその距離をどう克服すればいいのか。

阿弥陀仏はそのことさえもまるっとお見通しで、しっかりと準備してくれている。何というホスピタリティ。

それは、「南無阿弥陀仏」と称えることだ。

「南無阿弥陀仏」という言葉を通して、いつでもどこでも、私は阿弥陀仏と繋がれる。距離も、時間も飛び越えて、「南無阿弥陀仏」という言葉になって、阿弥陀仏は私のところに会いにやってくるのだ。

アイドルは諸行無常。
「推す」には、はじめから別れが約束されている。

その理を超えて、「推す」ことでしか生きられないこの私のために、終わりのない「推し」と成ってくれた阿弥陀仏。

阿弥陀仏を「推す」という行為は、決して虚しいものにはならない。

阿弥陀仏はいつまでも「推し」でいてくれる、いつまでも推させてくれる存在なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?