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「およげ!たいやきくん」と私

先日、寝る前にふと「およげ!たいやきくん」の歌を口ずさみました。なんの気なしに歌ったのですが「毎日毎日嫌になるほど鉄板で焼かれるとはどういうことだろう……?」ということが無性に気になり、妻とどういうことだろうか?ということを考えてみました。

歌詞のとおりであるならば、彼(たいやきくん)は、毎日毎日鉄板で焼かれてるということなのですから、今日が終わると明日も焼かれ、明日が終わると明後日も焼かれるということです。しかし、たいやきが何度も何度も繰り返し焼かれますと焦げてしまうので、そういう状況は考えにくいでしょう。

そこで彼は「たいやき」だと言うことを考慮にいれて考えていきますと、鉄板で焼かれた後は、おそらく売り物として売られ、それを買った人は、十中八九、それを食べてしまうでしょう。なにせ彼は「たいやき」なのですから。しかし、食べられることによって、「たいやき」として彼の存在は、そこで終わりを迎えます。迎えるはずなのです。

ところが彼は「毎日毎日焼かれる」のです。「たいやき」が毎日焼かれる事自体は、何も問題ないのですが、彼は「嫌になっちゃう」とも歌っているのです。それはつまり、彼が何度も何度も焼かれ、そういう状況を繰り返している、ということを示唆しています。けれど、彼の存在は、売り買いを経て、人に食べられて終わりを迎えているはずなのです。にも関わらず、彼は毎日毎日、何度も何度も焼かれていると証言している。この2つを矛盾なく成り立たせるためには、彼は人に食べられた後、また鉄板で焼かれ、また人に食べられる。そしてまた鉄板で焼かれる。このように繰り返し、ループをしていると考えるのが自然なのではないでしょうか?つまり図に表すとこうなります。

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鉄板で焼かれ、人に食べられ、また焼かれる。これは端的に言って、地獄の苦しみです。地獄という世界でも、様々な責め苦に遭い死んでしまうのですが、一度風が吹くとまた蘇り、同じ責め苦に遭わなければいけないということを繰り返すと言われていますから、彼の境遇というのは、それに近いものと言わざるを得ません。海に飛び込んで逃げたくなるという気持ちもよくわかります。

しかし、「およげ!たいやきくん」の結末では、海へと逃げた彼も、最後は釣り人に釣られて食べられてしまうというものになっています。食べられてしまうということは、そう、結局彼は焼かれては食べられ、また焼かれるというループからは逃げられなかった、ということになりそうです。

・世界はループするという考え方

このように「同じ世界をループする」という発想は、SFなどでもよく見られるものです。ライトノベルからハリウッド映画にまでなった「All you need is kill(オール・ユー・ニード・イズ・キル)」という作品はまさにその典型とも言える物語で、ループする世界から抜け出そうと悪戦苦闘する主人公の姿が描かれています。また「ブリディスティネーション」という映画も、壮大な「ループもの」の映画の傑作です。

また哲学の分野においても、ニーチェの提唱した「永劫回帰」という思想があります。これは何度も何度も、寸分違わずに同じ人生を歩むということであり、それがどんな苦難に満ちた生であってもすべて引き受け、また同じ生を繰り返し歩んでいくぞという、強い強い、人生の肯定の思想であると言われています。

そしてインドには「輪廻」という思想があり、仏教もこの「輪廻」に根ざしています。この「輪廻」というのは、生まれ変わり死に変わりを繰り返すということですが、「永劫回帰」と異なるのは、全く同じ生を歩む、ということではありません。その生における行為(業)によって、次の生が決定づけられていく。善い行いをすれば、より恵まれた環境に生まれ、悪事を為せば、良くない環境に生まれ、それを繰り返すという考え方です。ですから厳密にはループ、ということではないのですが、「輪廻」というその経巡りそのものを「苦」ととらえたならば、「輪廻」は「苦」のループであると見ることができるでしょう。仏教はその立場から、その「苦」のループを離れること、つまり「解脱」ということを目指すための教えとなります。

・「たいやきくん」と私

さて、話を「およげ!たいやきくん」に戻しますが、この歌は、よくよく考えてみるならば、そもそもフィクションです。たいやきに意識があるわけもありませんし、たいやきが逃げ出したり、ループを繰り返す存在であるということも、ありえないでしょう。冷静に考えれば、この歌が歌っているのは、実は「たいやき」のことではない。つまりメタファーなのです。

それでは、いったい何を「たいやき」に喩えているのか。それは他でもない、この「私」ではないでしょうか。私という人間の在り方を見つめたならば、毎日毎日、あくせくと働き、まるで熱い熱い鉄板の上にいるような、様々なストレスに焼かれながら生きています。今日一日を無事に終えても、また次の日の朝がやってくれば、またその1日を「生きるため」に過ごさなければなりません。生きるためにストレスに晒され、それをまた繰り返す。実は「毎日毎日鉄板に焼かれて嫌になる」と謳う「たいやきくん」とさほど変わらない命を生きているのが、この私だったのです。

またいくら現状から逃げたとしても、その逃避先は決してパラダイスなどではなく、最終的には「生きなければならない」という糸に絡め取られていってしまうという結末を迎えるのも、実に私という人間の有様をよくよく捉えているように感じます。おそらくこの歌がヒットした理由も、これを聞いた多くの人たちが、「これは自分のこと、自分の抱える苦悩を歌ってくれている」と感じたからではないでしょうか。

・「仏教」に見える希望

と、こんなことを書いていますと、なんだか気持ちがどんどんと暗くなってきてしまいます。地獄の苦しみを毎日毎日繰り返さなければならないこの人生に、一体どんな意味があるんだろうかと、絶望に襲われてしまいそうにもなります。

しかし、仏教の教えに基づいて考えると、また違った受け取り方もできるのではないでしょうか。私たちは毎日毎日同じような日々をループしているかのように感じられますが、決してそうではありません。なぜならば、「諸行無常」だからです。「刹那滅」という言葉もありますが、私たちは瞬間瞬間に滅し、また新たに生まれていく、そのような存在です。ですから、昨日の私と今日の私では全く異なる私となっています。昨日はできなかったことができるようになったり、昨日は気づかなかったことに気づけたりします。逆に、できたはずのことができなくなったり、ということもありますが、しかし、私たちは決して「全く同じループ」として、この人生を歩んでいるわけではないのです。釈徹宗さんはよく「螺旋状に深まる」ということをおっしゃっておられますが、仏教とともに生きるということは、同じような繰り返しの中を生きているようでも、少しずつ少しずつ深まる命を歩むことができるということです。

昨今のマインドフルネスのブームで「今ここ」ということが一つのキーワードとなっているのも、大切なことでしょう。「今ここ」という瞬間はまさにその時にしかないものです。ですから、その瞬間瞬間にしっかりと意識することによって、様々な気づきを得、その瞬間の価値や意味に目を向けることができる。その訓練が瞑想となります。同じ瞬間は二度と来ない。だから、その一瞬を大切に噛みしめる。それによって、「今ここ」に私が存在することがどういうことであったのかということに気づいていけるというのが、マインドフルネスというものではないでしょうか。

もちろん、仏教の原点には「私は苦悩の存在である」という考え方があります。ですから仏教はどちらかと言うと、私という存在を悲観的に捉える宗教であると理解されやすいのですが、それだけではないのです。私は浄土真宗の僧侶ですが、浄土真宗の開祖親鸞聖人の言葉には「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」というものがあります。元は天親菩薩の『浄土論』の中の「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし」という言葉から来ているそうですが、阿弥陀仏という仏さまの本願という願いのはたらきに出会ったならば、決してそのいのちが空しいものになる人はいない、ということです。

仏教が目指す地平というものは、そういう私の苦悩、私の空虚さを超えていこうとするところにある。そうとらえていきますと、厳しいながらも私たちに大きな希望を与えてくれる、そんな教えであるというようにも見ていくことができるはずです。

「およげ!たいやきくん」からずいぶんと話が飛んでしまった感じもしますが、また「たいやき」を食べる際にでも、いろいろ考えてみたいテーマです。






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