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余計なお世話

新型コロナウイルスの流行で、世界がここまで様変わりするとは思っていなかった。自分が感染する危険、人に感染させる可能性、大事な人が感染してしまう恐怖、そしてこの先どうなるのかが全く予期できないという不安。さらに何が正しくて間違っているのかわからない多量の情報が流れてきていて、どう行動すればいいのかさえもわからない。これからまだまだ、こういうものと向き合い続けていかなければならないと思うと、正直ゾッとする。

仏教と不安

先日、複数のお坊さんたちと「ZOOM」を使って話す機会があって、その中で、「この先どうなるのかがわからないということなんて、これまでただ単に気づかなかっただけで、元々そういうものだよね」ということをおっしゃる方がいた。本当にその通りで、コロナによってそれに気がついた、目が覚まされた、というのが正しいのかもしれない。

それでもやはり、不安なものは不安である。仏教の教えに照らせば、不安は解消されるということを期待する人も多いようだけど、個人的にはあまりそんなことは期待していない。もちろん、不安を作り出しているのは自分の心の作用だし、その心の作用をとめることができれば、不安はなくなるということはもちろんその通りで、なんら異論はない。ただ問題は、それを自分ができるのかどうか、だ。

むしろ仏教が教えてくれるのは、そもそも私は苦悩の存在であるということ、「一切皆苦」の存在であるということなのだから、こんな厳しい教えはない。「仏教にすがっても、コロナウイルスから逃れることはできませんけど?」と平気な顔をして真実を突きつけてくるのが仏教だから、この不安を解消するのに、仏教に過度に期待するのはあまりオススメしない。

もちろん、仏教の教え、あるいは私が聞いている浄土真宗の教えを受け取る中に、「ああ、いつ死んでも大丈夫だったな」という種の安心を得られるということはある。「本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき」という親鸞聖人の和讃もあるように、本願力(=阿弥陀仏という仏さまの願いの力、はたらき)に出会ったならば、その命をむなしく終えるということはあり得ない、ということは、私は究極の安心をいただけることだと思っている。

ただ、だからといって、コロナによる種々の不安が払拭されるというわけでもない。やっぱり怖いものは怖いし、わからないことは不安だし、嫌なものは嫌だ。究極の安心をいただきながらも、いろんな不安に揺らされ続ける。行きつ戻りつ、定まらないのが、私の本当の姿だ。

余計なお世話

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さてこの画像、コロナウイルスが流行って以降、SNSでよく見られる画像で、目にした人も多いと思う。こうして図示されると説得力があるのか、あるいは様々な閉塞感の中で、少しでも善い自分、理性的な在り方を保ちたいと思うからか、(主に意識の高い)多くの人がシェアをしている。

私も一見したときは、なるほど、と感じた。しかしすぐに「うーん」と首を傾げずにはおれなかった。

その理由の一つは先にも少し書いたが、私という人間は、決して一定の状態にはないということだ。諸行無常という言葉もある通り、常に変化し続けているということももちろんあるのだけれど、その変化というのは、あっちに行ったり、こっちに行ったり、迷いの状態にある。

しかしこの図を見ていると、実際にはそう示されているわけではないのかもしれないが「恐れのゾーン」から「学びのゾーン」へ、そして「成長のゾーン」へと、過程を経て発展していく(あるいは変化せずに留まる)ように読み取れる。

そして言葉として表現されているわけではないけれども、「恐れのゾーン」よりも「成長のゾーン」の方が素晴らしく、「みんなでそこを目指しましょう!」というような圧力も感じられる。まるで「恐れのゾーン」にある行動をする人は意識が低く、「成長のゾーン」にある人は意識が高いかのような描かれ方だ。

これに賛同してシェアしている人は、多くの場合「成長のゾーン」になることが素晴らしく、理想的で、そうありたいと感じたからこそ、シェアをしているのだと思うのだが、それがまた一つの圧力になっている気もする。

誤解してほしくないのだが、私は「成長のゾーン」にあるような姿や考え方、行動がダメだと言っているわけではない。そうなれたならば、それは素晴らしいことであると思う。

しかし、実際に人間はこの図に示されるような理想的な姿に成長し、その状態をキープし続けるということは難しい。むしろ、ここに書かれてあるいろんなことが混在し、行きつ戻りつを繰り返しているのが、人間の本当の姿なのではないだろうか?

例えば「成長のゾーン」には「他の人に対し感謝の気持を持つ」という事柄がある。今であれば、現場で対応に当たる医療従事者の人たちに対して、おそらく多くの人が感謝と敬いの気持ちを持っていることだろう。しかし同時に、政府の対応に怒りを覚える人も少なくないはずだ。「怒り」は「恐れのゾーン」にあるものであり、また「感謝」と「怒り」とは、相反するようなものであるが、しかし私の中においてはそれが両立するのだ。それは結局、自分の都合で物事を判断しているからだ。自分にとって「ありがたい」ものには感謝し、「ありがたくないもの、思い通りにならない事柄」には怒りを覚える。これらは決して相反するものなどではなく、私の都合を基準にして考えているということにおいては、全く根っこは同じなのだ。

そう捉えていくならば、ここに書かれてあることは、どれもが私の中に混在しているものに過ぎず、その時々の縁(条件)によって、それらが私の上に表出しているに過ぎない。誰もが「怒り」を持ちながら、他者を思う心も持ち、「何かできることはないか?どうふるまえばいいのか?」と考え、現状に適応し、克服しようとしている。これらのことは、「恐れ」→「成長」というような明確な過程を経て発展していくのではなく、すべてが私に内在し、縁(条件)によって、その時々、場面場面に応じて表れているだけなのだ。

だから、「成長のゾーン」に示された事が表れたからといって、それが素晴らしいというわけではない、たまたまそういう条件が整っただけのことであり、自分の都合に適合したに過ぎない。一見すると素晴らしいことではあるけれど、条件さえ整えば、誰だってそうなるだろうし、ただ単に自分の都合に正直だという意味では、「怒り」を表すことと何ら変わりはないのだ。

そういうことを何度となく繰り返しながら、私たちは現状に適応し、克服していくことはできるのかもしれない。

しかしこの図のように単純な形で明示されてしまうと、「恐れのゾーン」の状態は善くないもの、劣ったものとみなされ、逆に「成長のゾーン」の状態は善いもの、優れたものと単純化されてしまいかねない。

そうなると、今度は「恐れのゾーン」のあるような事が表出した時に、自分はこれで良いのだろうかという罪悪感に苛まれる。自分が劣った人間のように感じられ、これではいけないというプレッシャーを感じ、余計にストレス不安感を感じてしまうことにも繋がりかねない。

だから、はっきり言ってこんな図は「余計なお世話」でしかない。不安な時は不安なままでいいし、腹が立つ時は腹が立つでいい。ありがたいと感じたら「ありがとう」と感謝すればいいし、人のためになにかしたいと思えば、できることをすればいいのだ。

無理に自分を高めて「成長のゾーン」に置く必要もなければ、「恐れのゾーン」にいることに罪悪感を感じる必要もまったくない。こんないい加減な図によって、不安を感じなければならない義理は毛頭ない。

特に今は非常時だ。普段通りでいることすら難しい時に、普段以上のことなんて、できようはずもない。

もちろん「善くあろう」と思うことは決して悪いことではないし、自分を高めようとすることも、決して無駄なことではない。できる人はそうしてもらえばいい。しかし、「善くあろう」とすることによって、自分はこれでいいのだろうか?という不安や罪悪感に苛まれたり、ストレスになってしまうのであれば、そんなものは手放してしまえばいい。

今はとにかく、自分を大事に。のんびりすること、何もしないこと。それに罪悪感を感じなくてもいい。これでいいんだろうか?なにかできることはないか?と、切迫感に駆られることもあるかもしれないけれど、何もできなくても、何もしなくてもいい。きっと今は、少し歩みをとめる時なのだから。


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