「日本世間噺大系」としての『徒然草』

羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド
001/120 2016年9月 

「日本世間噺大系」としての『徒然草』

 『徒然草』の作者とされる兼好(1283頃-没年不詳)を、彼が生きた鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての京都を舞台にした大河ドラマに登場させるなら、「俳優」伊丹十三(1933‐1997)が適役ではないかと私は勝手に想像する。そんなドラマを見てみたいが、残念ながらそれはもう妄想でしかない。
   私は二十歳をすぎてすぐに、「エッセイスト」伊丹十三の諸作品と『徒然草』をほとんど同時期に読んだ。六十歳近くになったいま、若い頃のお気に入りだった彼らの作品を再読していて感じるのは、彼ら二人はごくごく近い、似た者同士なのではないか、ということである。
   伊丹十三は、『問いつめられたパパとママの本』で書いている。

「では、交流がないとなぜ人間は進歩しないのか。
それは「人間は、他との対立によって思考を刺激される」という原則があるのですね。そのためには、未開の、全員同質の社会に閉じこもっているんじゃしようがない。ぜひとも世界を広く持って、己れと対立するものと接触する機会を増す必要があるわけだ。すなわち、人間は「個体の持つ世界の広さによって個体の成長が刺激される」といっていいかと思います。」

 兼好『徒然草』の第百五十七段全文を、対照して読んでみると面白い。

「筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益なり。心さらに起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定なるべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。」

 伊丹のいう「交流」「対立」「接触」は、兼好の「事に触れ」の意味をもつだろうし、兼好の「外相もし背かざれば、内証必ず熟す」は、伊丹の「個体の持つ世界の広さによって個体の成長が刺激される」に置き換え可能ではないか。
   彼らのどこがどう似ているのか、そもそもほんとうに似ているのか、なぜ特に彼ら二人が似ていると感じるのか。もし誰かが、双方の作品にふれたとき、やはり彼ら二人が似た者同士であると感じるかどうか。そんな無数の問いが、おのずと、わいてくる。「これ則ち、触るる所の益」だろう。
   伊丹十三もまた『徒然草』の読者だったのか?『徒然草』の存在を知らないとは考えにくいし、なにかの拍子に、ほとんどの日本人がそうであるように、すくなくとも二つ三つの章段には目を通しているにちがいない。それは当然のこととして、伊丹は『徒然草』を全編にわたって精読し、エッセイストの先達として、兼好を意識したりしたのだろうか?

 エッセイという語はフランス語のessayer(=試みる)を語源とするらしい。その文学ジャンルの確立は16世紀のフランス人モンテーニュ(1533-1592)が書いた『Essais』(=エセー 随想録)によるともいわれている。
   日本でふつうに随筆といえば「心に浮かんだ事、見聞きした事などを、筆にまかせて書いた文章、そういう文体の作品」というのが常識的な理解だろう。「心に浮かんだ事、見聞きした事」は、まさしく兼好が第百五十七段でもちいた「事」に重なる。「心は、必ず、事に触れて来る」わけで、その心の動きを導く働きの強いものが、優れた随筆であることも間違いのないところだ。
   一方、モンテーニュをはじめ「試み」る人は、「事」の叙述にとどまらず、「事」の中に「理」を見い出そうとしているかにみえる。「理」、原理・道理・条理・真理・心理などの「理」、ことわり。「事」を描くに優れた随筆と、さらにその奥に「理」を探し求めないではいられない随筆、二つの種類の随筆があるのではないか。
   「事」よりも「理」が勝った随筆を、意識的無意識的にかかわらす、書かずにいられない随筆家の集団の存在が心に浮かぶ。「筆にまかせて」書くことはままならないが、「試み」ることを恐れない性格の。伊丹十三も兼好も「試み」ることを恐れなかった。随筆家を生業としていないことも、存分に「試み」る助けになっただろうし、その「試み」の質をより高いものにしたともいえよう。

 伊丹十三のエッセイでの「試み」は、「事」の随筆の色濃い処女作からの前期四作『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『問いつめられたパパとママの本』『再び女たちよ!』を発表したのち、伊丹独特の叙述スタイルの一つ「談話の活字化」の可能性を追求するかたちで展開する。第五作『小説より奇なり』がそのはじまりとなった。
   その結果、後半三作『小説より奇なり』『日本世間噺大系』『男たちよ!女たちよ!子供たちよ!』では、伊丹の編集が加えられているとはいえ、読者みずからが、未知の他人の談話=「事」の中から、「理」を読み取るという力仕事を要求されることになる。書き手一個人の「事」のみを読みたい読者は、そこでその本を置くしかない。
   『徒然草』もまた、『小説より奇なり』さながら、兼好が生きた時代・土地で見聞きした「世間噺」集成の一面をもつ。『徒然草』中に意外なほど多い、現代人には一見無味乾燥な印象を与える、有職故実の段々の記述も、兼好を含む当時の人々にとっては一種の「世間噺」と捉えられよう。
   伊丹版を「昭和日本世間噺大系」、兼好版は「中世日本世間噺大系」とでも呼ぼうか。そこでわれわれは、「事・理、もとより二つならず(事と理、すなわち現象と真理も、そもそも別個のものではない)」を体現・具現する人間の姿を見ることなる。時代を超えた、似た者同士の姿が現れる。
   鎌倉幕府第5代執権の北条時頼(1227-1263)は、世界的映画スター三船敏郎(1920 - 1997)の姿と重なる。
   『徒然草』第二百十五段全文(「最明寺入道」は北条時頼の別称である)。

「平宣時朝臣、老の後、昔語に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがそうぞうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。」

 対して、三船敏郎。伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』中の「三船敏郎氏のタタミイワシ」部分。

「友達が集まると、これはどうしても食べ物の話です。味噌汁の話、漬物、魚、野菜、おにぎりの話、白菜が食べたいねえ、お豆腐なんて自分で作れるんじゃないかしら、寿司が食べたい、そうそう、トロなんていうものがあったっけなあ、蕎麦もいいねえ、ザル、モリ、とろろソバ、今、春菊なんかうまいよ、すき焼きに入れてさ、そうそう、芹もいいんだよ、君んとこはすき焼きに芹入れる? いや芹は入れたことない、お餅は入れるけどね、うん、あれはうまいよ、でもお餅は太るからなあ、などと情熱を込め、夜を徹して語る、ということになるのです。
ある時、ヴェニスのリドで、エクセルシオという、超豪華なホテルに泊まっていますと、三船敏郎さんが、夜中にジョニー・ウォーカーの黒札と、どういうわけかタタミイワシを三枚持って、フラリとわたくしたちの部屋に現われました。しかし、タタミイワシを焙ろうにも道具がありませんし、深夜、イタリー人のボーイを呼びつけて、彼らにとっては得体の知れないタタミイワシを焙らせる、なんていうのは、いくらなんでも、気恥ずかしいじゃありませんか。
結局、三船さんが、ちり紙を捻って火をつけ、それでタタミイワシを焙る、ということになったのですが、これは奇妙な光景でしたよ。夏も終わりに近いヴェニスの夜更け、リドの格式高いホテルの一室で、クリーネックスは音もなくオレンジ色の炎を出して燃え、香ばしい匂いが一面にたちこめたのです。そうして、煤けたタタミイワシを肴にジョニクロを飲む、グレイト・ミフネと数人の日本人たち。豪華なような、わびしいような、心の捩れるような思いをしながら、わたくしは遠くまで来てしまったな、とつくづく思ったのでした。」

 日野資朝(1290‐1332 鎌倉時代後期の公卿・後醍醐天皇の側近・討幕計画が露見し刑死)は、世界的俳優ピーター・オトゥール(1932 - 2013)の姿と重なる。 『徒然草』第百五十二段全文。

「西大寺静然上人、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿、これを見て、「年の寄りたるに候ふ」と申されけり。
後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛剝げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候ふ」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。」

 第百五十三段全文。

「為兼大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あら羨まし。世にあらん思ひ出、かくことあらまほしけれ」とぞ言はれける。」

 第百五十四段全文。

「この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩ぢ歪み、うち反りて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、目守り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。 さもありぬべき事なり。」

 対して、ピーター・オトゥール。伊丹十三『女たちよ!』「奴隷の快楽」部分。

「ピーター・オトゥールは、彼がアイルランド人であるということを抜きにしては決して理解できない。
ある時香港のペニンシュラというホテルで彼は支配人と大喧嘩をした。このホテルの規則として夜中の十二時を過ぎると中国人は一歩もホテルの中へ立ち入ることができない。こいつが彼のアイルランド魂を刺激したのである。英国の鼻持ちならぬ植民地主義者根性だというのだ。
その晩、彼は香港を夜中まで飲み歩き、その間知りあったタクシーの運転手や人力車の車夫、レストランのボーイ、バーの酒番など、およそ一連隊の中国人を、ペニンシュラ・ホテルの自分の部屋に引っ張り上げて大酒盛をやってのけたのである。
翌日彼はホテルを追い出された。
それから何日か経って、私はピーターと晩めしを食べにジミーズ・キチンという店へ出かけた。
この店は香港では数少い英国風のレストランであって食物は甚だしく不味い。客は大半が英国人である。
ところで植民地の英国人たちは、給仕を呼ぶのに「ボーイ」という。本国でなら当然ウェイター・プリーズというべきところを「ボーイー」と尻上りにいうのが植民地通なのだという。
ピーターは、周囲から聞えてくる、この「ボーイー」を我慢しているうちに次第に蒼ざめてきた。給仕を呼ぶ時にも、わざと聞えよがしに「ウェイター・プリーズ」と大声で叫ぶのであるが、周囲の客たちの声高な談笑に掻き消されてなんの効果もなかった。
「いいかい、タケちゃん、ここにいる英国人どもは、本国へ帰ったら便所の清掃人夫にさえなれない連中ばかりなんだぞ。便所の清掃人夫にさえなれないんだぞ。そういう連中なんだぞ。わかるか、タケちゃん」
彼が一層大声を出してそういった時には、周囲は一段と喧噪をきわめていたのである。
結局、ピーターはすっかり悪酔してしまった。私の肩につかまりながらホテルにたどりついた時、彼はまだ弱々しく
「奴らは便所の掃除人夫にもなれんのだ。ほんとだぞ。タケちゃん。便所の掃除人夫にもなれんのだぞ。ほんとだぞ」
と呟いていた。」

 「トイレットの中の賞状」末尾部文。

「ピーターは芯から舞台の人間で、映画はあまり好きではない。自分の出演した映画すら一本も見ていないのである。
ハムステッドにある彼の家にゆくと、トイレットの中に「アラビアのロレンス」で獲った様様な賞が壁一杯にかけてあった。」

 兼好と伊丹十三、存分にessayerしたと思われる二人は、ともに散文作品を書くという「試み」を終えたのちは、二度とまとまったエッセイ集を書かなかった。「試み」る者は、「事」の中に「理」を見い出し、「二つなら」ぬ「事・理」を自分の思うように書き綴ったとき、あえて随筆を書き続けることに大きな意味を見い出せなくなるのではないか。伊丹のその後を見れば明らかなように、「試み」は違う場所=ジャンルで行われることになる。

 伊丹の「試み」はそののち、みずからが編集長となる雑誌「モノンクル mon oncle」(朝日出版社 1981年創刊 6号で終刊)の編集・発行にうつり、さらにまたそののち、結局彼にとって最後の「試み」となる商業長編映画作品制作にむかった。今現在、世間にもっとも広く認知されているのは、その「試み」の結果としての「監督」伊丹十三だろう。
   兼好はその生涯のあいだ、その「試み」の成果『徒然草』が広く世間に認められるどころか、書かれたことすらほとんど知られないままだった。同時代の誰も生前の彼を随筆家として認め得なかっし、彼自身もまたそれを自認することはなかったろう。なにせ兼好は、モンテーニュの「試み」の250年も前に生きた人間なのだ。そして、没年が公に記録されることもなく一生を終えた。
   伊丹作品も『徒然草』も、ある人間を他の人間と対比する「試み」であり、自身の思考を刺激する「試み」であり、自分たちが持っている世界の広さを測る「試み」であり、思考の刺激によって自分という個体の成熟がどう図られるかという「試み」の成果物であった。
   彼らが試みたのは「自分とは何か」を探求することだったのではないか。彼らは書くことによって「自分自身を試みた」のではないか。そこから現れてくる「理」を追及したのではないか。伊丹も兼好もそのけっして分量としては多くない散文作品の中で、その「理」を書きとどめることで、彼ら自身の彼らなりの成長と成熟を、本文とその行間に記述していくことになったのではないか。

私の『徒然草』

 さて、私が常に身近に置いている「徒然草」本は、岩波文庫の『新訂 徒然草』西尾実・安良岡康作校注(1985年1月16日 第70刷改版発行)である。西尾実(1889 - 1979)の校注で戦前から長く発行されていた岩波文庫版『徒然草』(1928年12月25日 第1刷発行・1965年8月16日 第46刷改版発行)は、西尾の教え子で娘婿でもある安良岡康作(1917 - 2001)の大幅な校注を加えられて、新訂版として生まれ変わった。
   安良岡康作は、私の大学時代の恩師だった。安良岡先生は、1981年4月より専修大学文学部教授に着任。まさしくそのタイミングで、私は専修大学文学部国語国文学部学部生3年次生として、新設された安良岡ゼミへ加わった。
   お恥ずかしい話だが、私は、日本の中世文学についても、兼好や『徒然草』についても、安良岡先生の過去の優れた業績についても、何も知らなかった(今も何かを知っているとも思えないが)。にも関わらず、ゼミ員10名(男女共に5名)のゼミ長を仰せつかった。おそらく単に私が二浪をして入学した最年長者だったからだろう。
   それからの二年間、ほかの授業については勤勉な学生ではまったくなかったが、週一回の『徒然草』注釈を中心とするゼミ授業には欠席することなく、1983年3月に専修大学を卒業した。卒論は「徒然草の批判精神」と題したもので、捨てるわけにもいかず今も手元にあるが、改めて読んでみたいと思わせる代物にもならなかった。

 ゼミでのテキストは、旺文社文庫の安良岡康作訳注『現代語訳対照 徒然草』(1971年9月1日 初版発行)が使われた(岩波文庫『新訂 徒然草』は、残念ながらまだ発行されていない)。  第一回ゼミに取り上げられたのは、第五十二段。安良岡先生「得意の段」だったらしい。「仁和寺にある法師」が、歩き疲れてもう山の上まで登りたくないなあと思うに至ったその過程を旅程から詳細に検証した章段で、石清水八幡宮はその山の上にこそおわします、というオチ。

「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」

 その『現代語訳対照 徒然草』解説の末尾で、安良岡先生は書かれている。この中に登場するかぎ括弧付きの「理」は、兼好の使う「理」の語に通じるものだろうか。

「現代のわれわれは、われわれの現実を生きるほかはない。したがって、兼好の生きた中世に復帰することはできもしなければ、その必要もないと言えよう。しかし、もしわれわれが、彼が『徒然草』の中に樹立した、この「理」を忘れるならば、即ち、いたずらに現実に押し流されて、自己を喪失したり、他者の批判に追われて、自己を確立する道を忘れてしまったりするならば、われわれの信奉する、近代的原理といえども、その真価を発揮することはできないであろう。われわれは、現実を生きるためには、何よりも、自己を見つめ、そこに、真実に自己の個性的人間性を生かす「理」を求めるべきであろう。『徒然草』が、単なる文学作品以上に、われわれに迫り、われわれを導く力を示すのは、かかるわれわれの生き方の問題と結びつくがためである。古典としての『徒然草』の価値は、かくして、今も新たなるものがあることを知らなくてはならない。」

 兼好が遁世者として仏道修行に励むその姿勢よりも遥かに高く強く、安良岡先生は研究者としてほとんど修業に近い態度で中世文芸の諸作に対峙しておられたのではないか、と思わせる一文ではないか。 安良岡先生のご子息で作曲家の安良岡章夫氏が書いておられる、安良岡康作校注『正法眼蔵・行持』上下(講談社学術文庫 2002年1月10日 第1刷発行)解説文を読むと、その思いはさらに強くなる。『正法眼蔵・行持』は、安良岡先生が亡くなられた直後に発刊された遺作である。

「「教育者」としての父は、自分の学問への姿勢と同じものを教え子にも要求したようで、作品解釈に関する彼らへの指摘は容赦なく、日々真に厳しいものであったそうだ。七十四歳で一切の教職を去るまで、このことも尽きることなく連続していたようである。自宅での研究生活に入ってからも、よく電話で「論文を書くように」と叱咤激励していたことがあった。「物書き」「教育者」としての私にも、幾らかは父の血が流れていると思うことがある。」

 私の在学中も、その厳しさゆえに、できるだけ労力少なく単位を取得しようとするような学部生たちには評判が悪かった。その証拠といってはなんだが、三年次でゼミ長になった私は四年次になってもただ一人の後輩ゼミ生を迎えることなく、二年連続のゼミ長をつとめることになった。一種の風評被害というしかない。
   その厳しさは理不尽やしごきやスパルタであったわけではまったくないのだから。そして、せっかく安良岡先生という優れた(ときに浮世離れしてお茶目な)「先達」に出会う機会があったのに、みすみすそれを逃した後輩たちを少し残念に思う。
   ふたたび安良岡章夫氏の解説文を。

「父のこの姿勢を「行持」と結びつけてはいけないだろうか。第一章「行持の総説」には「仏祖の大道、かならず、無上の行持あり。道環して、断絶せず、(中略)しばらくの間隙あらず、行持道環なり」とあり、口語訳に拠れば、「行持(仏行の持続)は環の如く、尽きることなく連続していて、断ち切れることがない。(中略)その間に少しのすきまが存しない。これが行持の道環なのである」。この道元の言葉に最晩年の父は、自らの学問の歩みとを重ね合わせ、共感していたのではないだろうか。」

友とするにあらま欲しき先達

 さて、その安良岡ゼミで、私が見聞きした小さな一つの場面を書き残しておこう。
   ゼミ開設一年後の新学期、自分を含む持ち上がり四年次10名の中に、新規ゼミ参加者男子1名が、突如登場した。なぜか五年次生での参加で、すでに述べたように三年次0名のゼミは、より均衡を欠くことになった。
   その五年次生が、何度目かのゼミに参加したさい、『徒然草』及び兼好について、斜に構えた感じで、安良岡教授に問いかけた。
   「『徒然草』や兼好は、中世の政治的混乱になんらかの役割を果たすことができたんですか?」
   安良岡先生は端的に、「できなかったでしょうね」と答えた。
   五年次生、「『徒然草』には、政治的な意味とか働きとかはなかったということですか」
   安良岡先生は端的に、「なかったでしょうね」と答えた。
   議論にもなにもならないことに拍子抜けしたのか、五年次生は少し『徒然草』から離れた質問をした。「じゃあ、誰がその中世の政治的混乱を鎮めたんですか?」
   その答えは、聞いてしまえば「それはそうだ」と誰もが納得するものであったが、文学部国語国文学科の中世文学を研究の専門領域とする教授の口から出てくると、やはりちょっと意外な感じを受けるものだった。他のゼミ員たちも同様に感じたのではないだろうか。
   「織田信長でしょうね」、と安良岡先生は言い切った。
   五年次生はそれなりに納得したものか、もう質問をすることもなく、以後文学部生としてゼミの先輩の後輩たちとも良好な関係を保つことになった。

 なぜそんなことを三十年以上の時を隔てて、改めて思い出したのか。この文章を書くための参考として読んだ、島内裕子校訂・訳の兼好『徒然草』(ちくま学芸文庫 筑摩書房 2010年4月10日 第一刷発行)に、まさしく安良岡先生の答えに重なる叙述を見い出したからである。第二百三十八段の評の中で、島内氏は書いておられる。

「兼好は現実政治に参画して、世の中を動かすことはしなかったが、徒然草が書かれたということは、永い目で見れば、より大きな文化的な役割を、決定的に果たした(中略)。徒然草が果たした文化的な役割とは、簡単明瞭な文体の手本を示すことによって、誰もが書ける散文世界の扉を、一挙に押し開いたことである。」

 『徒然草』第百十七段を、兼好自身、現実政治のようなものに参画する気もなかったことの傍証として引く。

 「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人、七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師。三つには、智恵ある友。」

 織田信長を代表とするような英雄・偉人の多くは、「友とするに悪き者」七か条に多く該当するではないか。対して、歴史的に見れば、無名人を生きた兼好は、入れ替わり立ち代わり現れ消える英雄・偉人たちの消長を尻目に、「智恵ある友」として『徒然草』というよき物をくるることで、「より文化的な役割を、果たし」ていると言えるのだろう。700年以上の永きにわたって。


「虚空よく物を入る」あるいは伊丹十三の「からっぽ」

 最後にまた、伊丹十三氏に登場願うことにしよう。「永い目で見れば、より大きな文化的な役割を、決定的に果たした」と思われる兼好と、これから同様の評価がなされていくのではないかと思われる伊丹十三だが、英雄・偉人どころか、ともに「自分は空っぽの容れ物に過ぎない」という自己認識を抱いていたふしがある。
   『徒然草』第二百三十五段全文。

「主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし、主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるものなり。
また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざらまし。」

 前半で「空っぽ」の否定、中盤で「空っぽ」の現象考察、最後に「空っぽ=虚空」の肯定、という忙しい章段だが、兼好が結論として虚空を肯定的に捉えているのは不思議ではない。そもそも兼好は主のない心に「移り行くよしなし事」を書きつくることから『徒然草』を始めたのだから。
   『徒然草』序段全文。

 「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」

 確かに、「心に主あ」れば(たとえば「天下布武」のスローガンのような)、「若干の事」=「よしなし事」も「入り来」ることもなく、われわれのもとに『徒然草』が届けられることもなかったろう。
   関川夏央(1949‐ )による、新潮文庫版『ヨーロッパ退屈日記』(新潮社 2005年3月1日発行)解説文では、伊丹十三の「からっぽ」がクローズアップされる。

 「伊丹十三はその著書のなかで、しきりに自分は無内容である、中身のない器にすぎないと強調している。たんなる自虐のポーズとはうけとれない真剣なふしがある。   「(わたくしは)どちらかといえば無内容な人間である。そうして明らかに視覚型の人間である」(『ヨーロッパ退屈日記』)」   「私自身は――ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない」(『女たちよ!』)   「私はクワセモノではないだろうか。若い時から心の中に立ち籠めていた、このもやもやとした疑惑が、今や凝ってひとつの固い黒光りのする確信となって私の心の中に残ったね」(『再び女たちよ!』)   ときどき伊丹十三は苦く自己省察する。そしてそのたびに眉間の皺は深くなり、同時に、その文章表現における倦怠感の味わいは増し、身にまとった無常感はより澄明となる。   むしろこういおう。伊丹十三は「偉大な器」であった。彼はその生涯をつうじて、デザイナーであり、俳優であり、作家であり、CFタレントであり、テレビ番組制作者であり、雑誌編集者であり、映画監督であった。そして、そのどのジャンルにおいても一流であった。同時に、どのジャンルにおいてもやがて「退屈」せずにはすまされぬ、やや不幸な天才であった。」

 最後の一文は、兼好の生涯を概述するのに、そのまま使えよう。
   「兼好は「偉大な器」であった。彼はその生涯をつうじて、歌人であり、能書家であり、有職故実研究家であり、珍香の収集家であり、代書家であり、最後の宮廷人であり、仏道修行の遁世者であり、『徒然草』の作者であった。そして、そのどのジャンルにおいても一流であった。同時に、どのジャンルにおいてもやがて「退屈」せずにはすまされぬ、やや不幸な天才であった。」
   「虚空」を抱えた人間は、その虚空を満たす「試み」を続けない限り、「退屈」という「けしからぬ形」に虚空を塞がれてしまう。伊丹も兼好も、ともに空っぽな人間であったこと、「退屈」には耐えられない人間であったことが、作品の中に多くの物を含ませることになったように思える。
   兼好もまた眉間の皺を深くさせていたかどうかは知りようもないが、『徒然草』の叙述内容の変遷・変化を見る限り、「身にまとった無常感はより澄明とな」っていったのは間違いないだろう。
   『徒然草』と伊丹十三のエッセイ諸作は、友とするによき本であることは間違いない。
   彼らが試みた「自分とは何か」の試みの成果に触れることで、われわれも「自分とは何か」を探求することになる。その「事」によって、われわれは「自分自身を試み」る一生を送ることになる。そこからおのずと現れてくる「理」こそが、われわれが生きた証だと、私には思える。
   われわれの誰もが持ち合わせるそれぞれの、大きさもそれぞれの、虚空は、われわれが生きる世界の「事」のすべてを収めるには小さ過ぎるが、次々に通り過ぎる「事」の中から汲み取った「理」を収めるには十分な大きさなのではないか。
   問題は、その自分自身の虚空に誠実に正対し続けられるかどうかだ。
   兼好や伊丹十三のように。英雄や偉人たちとはまた違った種類の孤独を抱えながら。



「日本世間噺大系」としての『徒然草』 ブックガイド

凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]

【本文中に登場する本】[随時、追加・追記・修整します]
「徒然草」

『新訂 徒然草』西尾実・安良岡康作校注
(岩波文庫 1985年1月16日 第70刷改版発行)
『徒然草』西尾実校注
(岩波文庫 1928年12月25日 第1刷発行・1965年8月16日 第46刷改版発行)
安良岡康作訳注『現代語訳対照 徒然草』
(旺文社文庫 1971年9月1日 初版発行)
島内裕子校訂・訳 兼好『徒然草』
(ちくま学芸文庫 筑摩書房 2010年4月10日 第一刷発行)
[兼好の歴史的評価については、島内裕子『徒然草』の記述に同意したい。 「兼好は、物事の起源に強い関心を示した。その兼好が、日本文学史の中で、「散文で自分の心を、情理一体にして、あますところなく表現し尽くす」というジャンルの「起源」となったと思うと、まことに興味深い。」島内「徒然草」435p228段評]

伊丹十三のエッセイスト時代の諸作
『ヨーロッパ退屈日記』伊丹一三
(ポケット文春 1965年)
『女たちよ!』
(新潮文庫版 2005)
『問いつめられたパパとママの本』
(中公文庫 改版 2011)
『再び女たちよ!』
(新潮文庫版 2005)
『小説より奇なり』
(文春文庫版 1986)
『日本世間噺大系』
(新潮文庫版 2005)
『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』
(文春文庫版 1984)
新潮文庫版『ヨーロッパ退屈日記』
(新潮社 2005年3月1日発行)

[伊丹十三のエッセイは、日本文学史上の随筆作品群として記憶・記録・定位・鑑賞されるべきである。それは彼の映画作品が、日本映画史上の作品として記憶・記録・定位・鑑賞されるのと同価値であると言っていいと思われる]

安良岡康作の著作
安良岡康作校注『正法眼蔵・行持』上
(講談社学術文庫 2002年1月10日 第1刷発行)
安良岡康作校注『正法眼蔵・行持』下
(講談社学術文庫 2002年1月10日 第1刷発行)

伊丹十三編集の雑誌
「モノンクル」
(朝日出版社 1981年創刊 6号で終刊)

『エセー』モンテーニュ
『エセー』モンテーニュ 原二郎訳
(岩波文庫)
[モンテーニュとその書き残したものについては、いずれこの『羊狼通信』の中で取り上げることになろうかと思われます」]

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】[随時、追加・追記・修整します]

徒然草・兼好法師関連
『兼好法師家集』(岩波文庫) 西尾実校注
(岩波書店 1937)
『中世和歌集 室町篇』(新 日本古典文学大系 47)
(岩波書店 1990)[「兼好法師集」所収]
『西行と兼好』(角川選書) 風巻景次郎
(角川書店 1969) [「家司兼好の社会圏」所収]
『増補「徒然草」の歴史学』五味文彦
(角川書店 角川ソフィア文庫 2014年)[兼好の家司時代の職種は「滝口」であったという新説の記載あり]
『徒然草論』(笠間叢書) 稲田利徳
(笠間書院 2008)
『近世兼好伝集成』川平敏文
(平凡社東洋文庫 2003年刊)
『絵巻で見る・読む徒然草』海北友雪 絵巻/島内裕子 監修/上野友愛 訳・絵巻解説
(朝日新聞出版 2016)
『徒然草 全訳注』(一) (講談社学術文庫) 三木紀人
(講談社 1979)
『徒然草抜書』(講談社学術文庫) 小松英雄
(講談社 1990)
『Essays in Idleness』ドナルド・キーン 翻訳 (タトルクラシックス 『徒然草』英文版)
(チャールズ・イ・タトル出版 2006)
『モオツァルト・無常という事』 (新潮文庫) 小林秀雄
(新潮社 1961) [「徒然草」所収]
『『徒然草』を読む』(講談社文芸文庫) 杉本秀太郎
(講談社 2008)
『吉原徒然草』上野洋三 校注
(岩波文庫 2003)

伊丹十三関連
『伊丹十三の本』「考える人」編集部 編
(新潮社 2005年刊)
『中年を悟るとき』ジャンヌ.ハンソン 伊丹十三・訳 南伸坊・画
(飛鳥新社 1996年9月19日)

安良岡康作関連
『徒然草全注釈 上巻』 (日本古典評釈・全注釈叢書)
(角川書店 1967)
『徒然草全注釈 下巻』 (日本古典評釈・全注釈叢書)
(角川書店 1968)

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