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BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at the final year 1988

1月26日、布袋と松井が、山下久美子の29歳の誕生日に渋谷公会堂での公演「ACTRESS OUT OF THE BLUE」に参加。 2月、山下の次回作となるアルバムのレコーディングに布袋と松井が参加。 2月3日、ビクター音楽産業より未発表3曲が収録された12インチシングル「DAKARA」が発売される。(オリコン週間ランキング最高2位) 同時にファースアルバムに「DAKARA」「OUT!!」「LET'S THINK」を加えた「MORAL+3」が発売される。(オリコン週間ラン

    • BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1987 part Ⅱ

      9月5日、6枚目のアルバム「PSYCHOPATH」が東芝EMIより発売される。(週間オリコンランキング2週連続1位を獲得)布袋が氷室の作詞に難色を示し、歌詞と題名が変更された曲があった。(「季節が君だけを変える」) 同時期に発売され、世界各国で初登場1位を獲得していたマイケル・ジャクソンのアルバム「BAD」を2位に抑え、堂々の初登場1位を獲得する。 9月16日、宇都宮市文化会館を皮切りに「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC

      • BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1987 part Ⅰ

        1月7日、山下久美子初の武道館公演に布袋が参加。 2月2日、松井が結婚式を行う。 2月24日、日本武道館で行われた公演で全国31都市37公演で行われた「ROCK 'N ROLL CIRCUS 」の全日程が終了。この模様はビデオカメラで撮影された。 公演終了後、メンバーと土屋は表参道のバー「ブルーミン」で、保留となっていた今後についての話し合いが行われ、布袋の脱退ではなくバンドが解散する方向で最終的に決着した。それに伴いバンド活動は年内で終了、解散後はメンバー各自がソロとし

        • BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1986 part Ⅱ

          9月6日、次作のレコーディングが開始。ベースとドラムによるリズム録りが「サウンドインスタジオ」で行われ、5日間で終了する。アルバムジャケットの撮影は加藤正憲が担当し、レコーディング初日に行われた。 9月23日、「テイクワン スタジオ」で全てのレコーディングが終了。レーコーディングに費やした日数は僅か18日間であった。 9月29日、4枚目のシングル「B・BLUE」が東芝EMIより発売される。(週間オリコンランキング最高7位。初のベスト10入りを果たす) 10月5日、「IN

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          BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1986 part Ⅰ

          1月14日、追加公演が中野サンプラザで行われ、春に発売予定の新アルバムから次期シングル曲を含む3曲が披露される。ゲストとして佐久間がキーボードで演奏に参加。演奏の模様は、テレビ番組の「CONCERT REPORT」のコーナーで放送された。また撮影された映像は「CLOUDY HEART」のPV用素材としても使用された。この公演をもって前年9月からの全国ツアーが終了。 1月27日、布袋と山下がフランシスカン・チャペル・センターで結婚式を行う。 2月1日、サードシングル「わがま

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          BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1985 part Ⅱ

          9月6日 名古屋市芸術創造センターを皮切りに初の全国ツアーとなる「BOØWY'S BE AMBITIOUS 」が開催された。「BOØWY」レコーディング後、佐久間正英と小野誠彦が共同で設立した「v.f.v. studio」と専属契約する目的で来日した、マイケル・ツィマリングが PAエンジニアとして同行。(以降、活動拠点を西ベルリンから東京に移し、多数のアーティストの作品を手掛ける。)ツアーの合間には全国の学園祭や音楽イベントに出演。 9月24日、高知県立県民文化ホールのオレ

          BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1985 part Ⅱ

          BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1985 part Ⅰ

          1月、ユイ音楽工房内に糟谷主導によるBOØWYの専属部署となる「ユイ・ロックプロジェクト」発足。サードアルバム制作に向けて本格的に動き始める。ディレクターには薬師丸ひろ子を担当していた東芝EMIの子安次郎が就任する。当初、布袋がサウンドプロデュースを担当する予定であったが、経験不足を理由に辞退したため外部からプロデューサーを招聘する事となる。東芝EMIから佐久間正英・土屋昌巳・伊藤銀次の3人が候補として告げられる。最初の面談相手はプラスティックスのファンであった布袋の要請で佐

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          BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1984

          <※註 この文章は独自研究と想像に基づく「フィクション」である。> 1月17日、18日、中野サンプラザで「エコー&ザ・バニーメン」初来日公演が行われ、布袋がサポートギターとして昨年に加入した「THE PETS」がオープニングアクトを担当する。 1月28日、新宿ロフトのライブには昨年末のテレビ放送の影響もあり300人ものファンが押し寄せ酸欠で倒れる者も現れた。(この日を皮切りにインスタントラブ ツアー'84がスタート。3月まで関東・関西・東海方面を回る。) 3月25日、徳

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          BOØWY HISTORY 〜 続・小さなビートの木の下で 〜 at 1983

          <※註 この文章は独自研究と想像に基づく「フィクション」である。> 1982年10月に4人で再出発したBOØWYであったが、ライブ動員の低迷やアルバムセールスの不振などにより事務所からの風当たりも強く、レコーディングに関しても「明確なスケジュールは提示されない」「自社のスタジオは利用者のいない時間帯である深夜や早朝のみ使用を許可」という冷遇ぶりであった。 1月、所属事務所ビーイングより4月に予定されていた契約更新を行わない旨の通達を受ける。同月15日、新宿ロフトのステージ

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          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 Final act:BOØWY

          < ※ 註 この文章は想像と独自研究に基づく「フィクション」である。> 1982年、アナーキーのデビュー(1980年)を契機に広がりを見せていた日本のパンクロックシーンも一時の勢いを失い、それと入れ替わるようにニューウェイブが台頭する。時代の変化を感じ取った氷室と布袋はパンクバンドからの転身を決意し、新たに製作される楽曲はニューウェーブ の影響を色濃く反映したメロディアスなナンバーやラブソングが多くなっていく。 1月、ビーイングの新人ジャズ歌手秋元奈緒美のデビューアルバム

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 Final act:BOØWY

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 6:暴威 at Part Ⅲ

          < ※ 註 この文章は想像と独自研究に基づく「フィクション」である。> 1981年5月、スターシップスタジオでデビューアルバムのレコーディング開始。エンジニアは小野誠彦、プロデューサーはマライアの渡辺モリオが担当。レコーディングは全て一発取りで行われ16曲が録音された。5月11日、新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE ! ! 」開催。観客はわずか13人であった。 平野と三宅がレコード契約に向けて営業を開始。フィリップスレコードが興味を示すものの「

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 6:暴威 at Part Ⅲ

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 4:暴威 Part Ⅱ

          < ※ 註 この文章はあくまでも独自研究に基づく「フィクション」である。> 1981年1月から2月にかけてオリジナル曲全てのデモテープ製作が完了し、3月のレコーディングに向けて寺西はメンバー選定に着手する。当初リズムパートとして、松井と小沼を想定していたが織田哲郎のバックバンドから彼らを引き抜くのは難しいと考え布袋に相談する。布袋は「ジギーリギー」でサックスを担当していた深澤和明をベーシストとして起用する案を提示する。後日、寺西は布袋の自宅で深澤と面談し加入が決定した。(バ

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 4:暴威 Part Ⅱ

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 4:暴威 Part I

          < ※ 註 この文章は独自研究と想像に基づく「フィクション」である。> 1980年11月、寺西はパンクバンド結成に着手するために社長の長戸ではなくビーイング 副社長月光恵亮にアドバイスを求めた。(2度のバンド活動頓挫で長戸に対する疑念と不信感があったためと思われる。)月光は手始めとして一回限りのパンクバンドの結成を提案する。それを受けて寺西はメンバー探しを開始する。VOICE解散後、「織田哲郎&9th image」で活動していた松井と小沼に声をかけサポートを依頼する。彼らは

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 4:暴威 Part I

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 3:スピニッヂ・パワー

          < ※ 註 この文章は想像と独自研究に基づく「フィクション」である。> 1980年夏、寺西は長戸が用意した新たなるバンド「スピニッヂ・パワー」にボーカルとして参加する。この時点で既に従来のディスコサウンドを主体とした音楽性からポップロックへの転換が図られた3枚目のアルバム「IN & OUT 」が制作中であったが前作に続きメインボーカルでの起用を想定していた織田哲郎は参加せず(スタジオミュージシャンによる寄せ集め的な企画バンドからメンバーを固定した実態のある本格的なバンドへの

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 3:スピニッヂ・パワー

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で 〜 act 2:寺西修 & VOICE

          < ※ 註 この文章は想像と独自研究に基づく「フィクション」である。> 1979年秋、やがて19歳となる寺西と松井はビーイングとの契約のために上京する。田中は数日遅れて上京し六本木の事務所で彼らと合流する。福田は母親の強固な反対により上京を断念、実家の農業を続ける事となった。増田は上京したはずであったが、なぜか事務所には姿を現さず結局デスペナルティ 5人のうち実際にビーイングと契約したメンバーは寺西、松井、田中の3人だけであった。事務所社長の長戸から福田の代わりとなる新人ド

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で 〜 act 2:寺西修 & VOICE

          BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 1:デスペナルティ

          < ※ 註 この文章は想像と独自研究に基づく「フィクション」である。> 1979年春、氷室京介こと寺西修(18歳)は群馬県立藤岡高等学校を卒業後、「デスペナルティ」を解散しロック歌手を目指すために単身上京する。寺西は親からの金銭サポートを得ながら「全日本ヤング選抜 スターは君だ! 第26回大会」などの複数のオーディションを受けるもののデビューには至らなかった。やがてロック歌手としてのデビューは諦めロックバンドのボーカリストでのデビューを模索するようになる。同じ時期、秋葉原の

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