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BOØWY HISTORY 〜小さなビートの木の下で〜 act 4:暴威 Part Ⅱ

< ※ 註 この文章はあくまでも独自研究に基づく「フィクション」である。>

1981年1月から2月にかけてオリジナル曲全てのデモテープ製作が完了し、3月のレコーディングに向けて寺西はメンバー選定に着手する。当初リズムパートとして、松井と小沼を想定していたが織田哲郎のバックバンドから彼らを引き抜くのは難しいと考え布袋に相談する。布袋は「ジギーリギー」でサックスを担当していた深澤和明をベーシストとして起用する案を提示する。後日、寺西は布袋の自宅で深澤と面談し加入が決定した。(バンドの話もそこそこに、3人は福生の河原でUコン飛ばしに興じる。)次に寺西は交流のあった「スピニッヂ・パワー 」の元ドラマー、木村マモルに参加を打診するもバンド解散後はドラマーからプロデューサーへの転身を考えていた木村は難色を示す。結成を急ぐ寺西は正式なドラマーが見つかるまでの期間限定という条件で参加を懇願する。彼の熱意に木村はサポートメンバーとしての参加を了承する。徐々にバンドメンバーが固まりつつある中、「織田哲郎 & 9th IMAGE」が解散、織田から寺西のバンド結成の動きを知らされた松井は寺西に連絡し参加を志願する。これを受けてバンド内で協議した結果、深澤がベースからサックスに転向することで決着する。その一方で菊地がバンド参加を希望し群馬から上京、サイドギターとして彼らに合流し、ここに5人の正式メンバーが確定した。

早速彼らはオリジナル曲の練習を開始、数週間後に長戸と月光に対しビーイング所有のスタジオ「バードマン」でオリジナル曲を演奏する。長戸のバンドに対する評価は上々でバンドとしてのプロデビューが認められる。布袋、深澤、菊地の3人の契約も決まりディレクターは月光恵亮が就任、マネージャーは月光の部下である三宅克徳が担当する事となった。

バンドとして活動する際の名前として月光は「ボーイ」を提案する。イギリスのハードロックバンド「ガール」から着想を得て命名したのだが、それを聞いた長戸はメンバー全員が群馬出身の男性であるため「群馬暴威」を提案する。(当時ブレイクした「横浜銀蠅」の影響も見られる。)しかしながらメンバー全員から不評を買い、妥協案として「暴威」となった。(1973年、デビッド・ボウイが初来日した際に山本寛斎デザインの舞台衣装に描かれていた当て字「出火吐暴威」に由来する。)同時にメンバー3人に対して月光から、寺西修は氷室狂介(漫画「ワル」の氷室洋二から)、松井恒二は松井恒松(パンクバンド「フリクション」の恒松正敏から)、菊地敦は諸星アツシ(アニメ「うる星やつら」の諸星あたるから)の芸名がそれぞれ与えられた。

今後の具体的な活動に向けて長戸は暴威のプロモーションをライブハウス「ロフト 」の経営者、平野悠と共同で行う考えを示し新宿ロフトでのライブに定期で出演する旨の契約を結ぶ。またデビューライブを新宿ロフトで開催する事も合わせて決定した。ファーストアルバムのレコーディングも始まり暴威は新たなる第一歩を踏み出した。

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