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日本におけるCIAの活動(自民党とアメリカによる日本支配の確立)

このエントリについて

このエントリは、Wikipedia(英語)の「CIA activities in Japan」(日本におけるCIAの活動)を、ほぼそのまま翻訳したものです。アメリカの諜報工作機関であるCIAが、戦後の日本でどのような活動をしてきたか、公開された外交文書や、それらに基づく著作などからまとめられています。
Wikipediaの一項目としてはかなり長いのですが、幅広い内容が比較的まとまっているので、日本語で読めるようにするべきだと考え、手間をかけてこのエントリを設けました。

個々の事件や事実はよく知られていることが多いですが、このWikiを通して読むと、自民党という政党がよく理解できると同時に、どうやってアメリカと自民党が日本を支配する構造ができたのかも、わかってきます。
そんなわけで、勝手に翻訳してみたので、ぜひ読んでほしいです。

できるだけ多くの人に読んでほしいので、ぜんぶ無料公開です。
できれば、サポートをいただけると助かります。


ここから本文です

概要

CIAの日本での活動は、連合軍の日本占領時代にまでさかのぼる。ダグラス・マッカーサーの情報部長チャールズ・ウィロビーは、「機関」と呼ばれる日本の下級情報収集組織の設立を許可した。これらの機関の多くには、戦犯容疑者として公職追放された個人が含まれていた。また、CIAは日本の情報収集計画「タケマツ作戦」を組織し、北朝鮮、千島、サハリンに対する情報収集作戦の一環として機関を利用した。機関の1つ、服部卓四郎率いる「服部機関」は、日本の国家主義に対立的だった吉田茂首相の暗殺とクーデターを計画した。

アメリカ極東司令部の指示のもと、ウィロビーは2,500人を超える諜報員をリストアップした。CIAと軍情報部は、小説家の鹿地亘を含む左翼活動家の違法拉致と拷問に従事したとされる「キャノン機関」を含む、多数の超法規的機関を設置した。

CIAは、現在の日本の政治体制を形成する基礎固めに貢献した。中国から接収した資産の徴発を幇助し、自由党の結成に資金面で関与した。また、自由党の後継政党である自由民主党(自民党)が岸信介を首相に迎えるように仕向けるための影響力行使にも加わった。CIAは、在日軍事施設や安全保障上の利益に関する政策について、自民党に積極的に助言していた。自民党を支援するこのプロセスは、CIAが自民党に秘密裏に資金を供給する目的で、タングステン取引の「鉄のトライアングル」を作ることにも関与した。CIAは、自民党を財政的に支援するだけではなく、日本社会党や沖縄での反米デモを積極的に破壊・妨害したことを、複数の著者が主張している。

CIA は、軍が地域の人道支援や災害救援活動にどのように役立つかというメッセージを広めることで、沖縄の平和主義を操作するよう助言している。このマニュアルは、米国の政策立案者に対して「平和、家族、地域社会」を強調する日本の自衛隊の広報を模倣するよう促している。

CIA: How to shape Okinawan public opinion on the U.S. military presence
Jon Mitchell (2018)

サンフランシスコ条約の調印に先立ち、CIAの工作員は二重スパイの疑いがある人物に対する「行動テクニック」(尋問技術等)をテストする「ブルーバード計画」の一環として日本に到着した。米国情報機関は、M資金と総称されるいくつかの秘密資金の設立と管理に協力したとされている。M資金はCIAと児玉誉士夫の結びつきを強化し、1960年のアイゼンハワー大統領の訪日(中止された)の際、警護に当たるヤクザへの資金にもなったという。

背景

CIAの前身である戦略情報局(OSS)は、太平洋戦争中、日本の植民地地域で広範な情報網を持っていた。日本の降伏文書調印後、憲兵隊の施設や日本の外交施設からは相当量の文書や資料が没収されたが、日本は731部隊の活動など人権侵害に関する文書の多くを破棄するよう命じたため、多くは回収できなかった。日本海軍は、天皇の玉音放送の後、すべての戦時文書の破棄を命じた。日本外務省も同様に、8月7日にすべての書類の破棄を命令した。
戦争犯罪調査官は、日本の文書を翻訳し、日本人容疑者に太平洋戦争への関与について質問するため、多数の翻訳者と通訳を必要とした。この結果、戦争犯罪に関わる翻訳業務には、日系二世の言語学者が広く利用された。日系二世の翻訳者を使った陸軍情報局および対情報部隊は、残存していた文書の大部分を翻訳することができ、その多くは後に極東国際軍事裁判での訴追証拠として使われることになった。

共産主義の蔓延を懸念していたアメリカは、封じ込め政策として、東アジア全域の共産主義勢力と積極的に闘う必要があった。この時期、アメリカの日本政策は、毛沢東主義の中国がより良い安全保障パートナーであると主張する側(国民党の蒋介石は信頼できず腐敗していると考えられた)と、日本の再軍備と安全保障パートナーとしての再活性化を主張する側とに分裂していた。
マッカーサーの政策は、当初、親中派に味方し、彼の在任中の最初の数ヶ月は、日本の右派の追放と日本軍人の復員、垂直統合された財閥独占企業の解散を含む経済再編を中心に展開された。この改革期間中、軍国主義的な政策に関連した20万人以上の官僚が公職追放されるか、または戦争犯罪容疑者として逮捕された。1947年までに、マッカーサー占領政府は、冷戦を重視するアメリカ政府政策立案者の圧力により、公職追放者の追放解除を始め、レッドパージを開始した。中国共産党による中国の掌握と、その後の中ソ条約の結果、親中派は影響力の多くを失い、CIAと米軍情報機関が日本の右翼とヤクザに協力し支援するための根拠を与えた。

ダグラス・マッカーサーは戦略情報局(OSS)を嫌い、1950年までOSSやその後継組織であるCIAが日本で活動することを阻止した。その結果、占領初期に行われた情報活動の多くは軍事情報部、特にG-2(GHQ/SCAPの参謀第2部)に委ねられることになった。

占領期

「機関」の結成

アメリカ占領期以前、日本陸軍の憲兵隊と海軍特警隊は「機関」として知られる軍事諜報組織を保持していた。これらには、藤原機関、岩黒機関、光機関、児玉誉士夫が率いる児玉機関が含まれる。日本軍人の復員に伴う日本陸海軍の解体時に、憲兵隊は解散され、情報司令部はホワイトパージ中に告発された。これは1940年代後半から1950年代前半にかけての「逆コース」による政策転換の際に撤回され、その後、逮捕されたり捜査を受けていた憲兵隊幹部の大半は釈放されるか、太平洋戦争での行動に対する刑事責任を免れることになった。

マッカーサーによって設立された SCAP(連合国最高司令部)の占領機構は、各組織に自前の日本人専門家を割り当てたが、既存の官僚機構なくしては、日常業務を遂行するのに必要な人員が不足していた。諜報活動における監視の欠如は、採用した日本人に大きな作戦上の自由を与え、情報収集の過程で命令違反や情報の歪曲がありがちだった。ウィロビーの組織は、情報資産として元中将の有末精三を採用した。1945年9月、ウィロビーは有末に、日本国内の共産主義者と戦い、社会主義革命を防ぐため、G-2の中に秘密の情報収集グループを設立するよう依頼した。1947年までに、G-2は作戦を遂行するために工作員の増員を必要とし、ソ連と日本共産党に対して使用するため、旧日本軍と諜報部員を積極的に使い始めた。軍国主義者の人脈は、G-2との関連によって訴追を免れ、日本の右派を強化するための違法な活動に従事する法的地位を得た。

1948 年、「逆コース」に後押しされ、G-2と占領期に作られた様々な機関は、内外のスパイ網を確立するために2つのプログラムを策定した。提案された作戦は、外国を標的にした情報収集「タケ」と、国内の情報収集「マツ」で、諜報資産の運用に大きな自由度と柔軟性が与えられた。ウィロビーとG-2は作戦の上層部だけを監督し、現場の職員には特定分野での行動だけが許されるようにした。作戦には、北朝鮮、サハリン、千島列島に秘密のネットワークを構築することを含んでいた。密輸ネットワークやペーパーカンパニーを使って、工作員を指定された目的地に送り込み、そこで無線通信やその他の情報源を監視するのである。戦犯容疑者だったが起訴されなかった河辺虎四郎が立案し、作戦費用は約1000万円と見積もられていた。

G-2やCIAによる多額の投資にもかかわらず、1951年までの作戦による成果はさんざんだった。北方での作戦は1949年までに停滞し、日本人エージェントの不足が情報将校の不足などの問題を複雑にし、多くの作戦領域で調整の欠如を引き起こした。1948年までに北朝鮮での作戦は完全に中止され、グループの焦点は台湾に移った。台湾では、機関は共産主義者の侵入から台湾を防衛するための有志人脈を設立し、中国本土奪還計画を策定した。「タケマツ作戦」の主な問題は工作員の野心であり、彼らはしばしば米国当局者に良く思われようとして、偽の情報や紛らわしい情報を伝えたのである。1952年までに多くのネットワークが危険に晒され、活動は中止された。

服部機関

服部機関は「逆コース」で結成された機関のひとつであり、辻政信が率いる辻機関と連携して秘密工作を行った。東条英機首相の参謀を務めた服部卓四郎大佐は、米軍情報部との接触やグループ結成以前、占領下では公文書や私的な文章を隠匿するよう部下に命じていた。服部のCIAでの活動は「民主的な方法」での日本再軍備はありえない、という彼の個人的信念に基づいており、日本帝国陸軍の再建を主張して、機関の参謀長に任命されている。服部は、徴兵制復活の先駆けとして、志願兵制度の創設を支持した。CIAの文書に「ウィロビー厩舎」と記されていることから、ウィロビー自身も機関の構築に大きく関与していたと考えられている。服部と親交のあった辻は、蒋介石の中国大陸反攻計画にグループを利用している。 辻自身は「バターン死の行進」を招いた自身の戦争犯罪が不起訴になったことで、機関に恩義を感じていたが、作戦内容が中国共産党に漏れたため計画は頓挫した。

服部機関は、1952年7月、吉田茂首相を標的とした暗殺計画に関与した。服部は、吉田がかつての公職追放者や国家主義者に対立的であり、外部の脅威に対して米軍の保護に依存しすぎているとして、吉田を嫌っていた。この計画は50万人の支持を得ており、保安庁の諸派から支援されていたとされる。

CIAの2つの文書によると、吉田茂暗殺計画は日本で50万人の支持を得ていたとされ、グループは防衛庁の前身である保安庁内の派閥を支配する連絡役を利用してクーデターを起こすことを計画していたという。

Records reveal U.S.-linked coup plan in '50s Japan
Joseph Coleman (2007)

クーデター計画では、まず服部が吉田を暗殺し、吉田のライバルである鳩山一郎が代わりに首相になる予定だった。辻は、日本社会党の方がより危険だと主張して服部を説得し、計画から脱することに成功した。

ブルーバード計画

ブルーバード計画は、アーティチョーク計画の一部で、「強化尋問」の目的で催眠を誘導する薬物で被験者をテストする、マインドコントロール計画であった。ブルーバード計画の開始にあたり、1950年7月にチームが日本に渡航して被験者に技術を試験した。使われた被験者は、二重スパイ容疑者だった。作戦の間、機関の保安部門は、工作員にポリグラフ作業の一環であると偽り、日本での居住と仕事の理由を隠して公表しないように命じた。1950年10月、このプログラムは北朝鮮の捕虜にも拡大され、25人の被験者が選ばれ、その役割を担うことになった。作戦に使われた隠れ家は神奈川県厚木市にあり、実験はアミタール・ナトリウムなどのバルビツール酸系の薬物を注射して記憶喪失を誘発するものだった。1950年の実験は成功したと判断され、このプログラムはヨーロッパと東南アジアに拡大して継続することになった。

キャノン機関

報道やCIAの機密解除文書では、30人のスタッフからなる「キヤノン機関」の存在が繰り返し言及されている。この組織は「Zユニット」とも呼ばれる。元メンバーのハン・トポンによると、この機関は防諜部隊によって形成され、G-2の管轄下にあった。トポンは、機関の情報収集部門はアレン・ダレスに仕えていたと述べている。ジャック・キャノン中佐が機関を率いた。組織の本部は東京の「本郷ハウス」(旧岩崎邸)にあり、旧日本軍の将校5人からなる「加藤機関」と連携して活動していた。キヤノン機関の主な目的は、共産中国からの情報収集であった。各諜報員は海外活動のたびに10万円から15万円の報酬を得ていた。機関のナンバー2である延禎(ヨンヤン、韓国系アメリカ軍人)は、日本、朝鮮半島、中国にまたがるスパイ活動において、13人の工作員を集め、パラシュートで韓国に送り込んだと語っている。諜報機関はまた、スパイ活動のために大規模な商船団と様々な子会社を保有しており、キヤノンと延は1952年に吉田首相に会っているなど、大物の政府関係者と多くのつながりを持っていた。吉田はCIAに対応する日本の機関を設立しようと考え、盟友である緒方竹虎に会うよう、彼らに指示した 。

本郷ハウスと呼ばれた旧岩崎邸。キャノン機関の本部は2階にあった。

この機関は多くの左翼人物の失踪とその後の拷問に関与していた。GRUとの関係が疑われたマキシム・ターキンの下男であった板垣幸三を、防諜部門とキヤノン機関が拘束したとされる。板垣は以前、密輸業者がアジア大陸と日本との間で密輸品や密航者を運んでいた密輸船に乗り組んでいた。板垣は密輸業者から荷物を渡され、好奇心で開封したところ、何者かに襲撃され失神した。アメリカ情報部は、樺太難民という異色の経歴を持つ板垣がソ連の情報工作員である疑いがあるとして尋問を始めた。その後、キヤノン機関に引き渡され、機関の拠点である旧岩崎邸に移された。その後、板垣は、食事や睡眠を与えられず、裸にされ、ジャック・キャノンら工作員からナイフやピストルで脅された。板垣は証言の中で、日本大学を監視するために工作員に入隊させられ、後に工作員が所有する密輸船の甲板員になるよう命じられたと述べている。彼はまた、日本で尋問を受けるために釜山から朝鮮人難民を密航させたZ部隊や、拘束中に精神崩壊を起こした身元不明の朝鮮人男性について述べた。その他、同機関が拘束した捕虜に対する尋問方法には、模擬処刑やその他の形態の拷問があった。

1952年、連合国による日本占領が終了し、すべての情報機関がCIAの資産として再指定されると、この機関は閉鎖された。同年キヤノンは辞職し、それに続いて機関のスタッフの大半も辞任した。

鹿地亘事件

最も悪名高いのは、左派小説家の鹿地亘の拉致事件である。この拉致事件は、日本では「鹿地亘事件」と呼ばれている。鹿地は共産主義者として迫害を受たため中国に渡り、重慶で日本人捕虜に関する再教育を行っていた人物である。彼は1951年11月25日の夜、神奈川県の鵠沼で米軍情報部員に拉致され、横浜の施設に監禁されたと主張した。その後、ソ連のスパイであるとして、アメリカ情報部の二重スパイとなるよう圧力をかけられ、広範囲な尋問を受けた。鹿地はその後数日間にわたって、キヤノン機関から繰り返し身体的虐待を受けた後、家庭用洗剤を飲んで自殺を図ったが、その前に上海の書店主で友人の内山完造に遺書を書いている。当時、鹿地は慢性結核を患っており、自殺未遂からの回復を助けるために治療を受けた。その後、渋谷区にある第二の拠点に移され、茅ヶ崎、そして沖縄へと移動した。

1952年9月、鹿地がアメリカの情報機関に拘束されていることを示唆する書簡が首都圏の各通信社に郵送された。内山は、左派社会党議員の猪俣浩三を訪ねて鹿地の所在情報を提供し、監視役だった山田善二郎もこれを公表し、猪俣はその後警察に疑惑を持ち込む。世論の圧力により米国当局は鹿地を釈放し、東京の自宅近くの鉄道駅まで送った。疑惑の重大さから、日本政府は失踪の経緯について調査を開始し、鹿地は国会の特別委員会で証言を行った。鹿地が外国機関に1年以上拘束されていたという疑惑が事実であれば、日本の国家主権が侵害されたことになる。

その後アメリカ大使館は、鹿地がソ連の諜報員であることを認め、進んでアメリカ当局に身を寄せたと主張し、この疑惑に反論した。同機関の調整役でメンバーのハン・トポンは、週刊新潮のインタビューで鹿地が日本共産党から買収され、自ら進んでアメリカ情報機関になったと述べた。また、トポンは鹿地が結核の治療を受けたと言い、これは加治も認めている。しかし、鹿地は取材に対し、トポンという工作員なんて聞いたことがないと述べている。

731部隊の隠蔽工作における役割

極東国際軍事裁判においてアメリカ占領当局は、日本の右翼幹部数名の有罪判決に関連して、証拠を隠蔽するため意図的に証人を省略した。日本の官僚が犯した人道に対する犯罪を隠蔽するこのプロセスは、満州国での日本の生物兵器計画にも及んだ。1946年と1947年、国務省と米軍情報当局は、731部隊の所長であった石井四郎に、この地域での731部隊の活動で研究された情報の移転に関して米国と取引するよう説得する圧力をかけた。これにより石井は、訴追を避けるため所長時代に入手した人体実験に関する情報を米国の情報当局に提供する取引を行った。SCAPと米国政府関係者を大いに悩ませたのは、ソ連が生物兵器に関連した情報を得るために独自のキャンペーンを始めたことである。ソ連当局は、ハバロフスクの戦争犯罪裁判で訴追されないよう、731部隊の元メンバーに研究内容を明らかにするよう脅迫した。米国はこれに介入し、米軍関係者のみで尋問を行わせ、日本の人体実験の実態を隠蔽し、この分野での研究においてソ連に対するアメリカの優位性を確保した。

日本政治への干渉

逆コースでの役割

CIAと米軍情報部は、1947年の「逆コース」への政策転換とそれに続く戦犯に関する追放政策の終了において、極めて重要な役割を果たした。ジャパンロビーやアメリカ企業の利益と連携して、米軍情報部は、財閥やアメリカ占領下で追放された公務員に関するダグラス・マッカーサーの政策を撤回する圧力キャンペーンを展開した。KGBはいくつかの文書の中で、政策変更を正当化するために、CIAとSCAPは松川事件を含む日本のインフラに対する攻撃を仕組んだと非難している。 アメリカ国内においては、CIAは「日本の戦略的重要性」と題する報告書を作成して国務省や軍に圧力をかけ、日本に対する支配はアジアを「安定化させる力」として重要あると主張した。報告書は、東南アジアを失い、仮に日本がソ連と同盟するようなことがあれば、「冷戦のバランスがソ連に有利な形で崩れる」ことになると警告した。報告書は国務省に対し「独占資本の解体」政策から「大きな金融および貿易関係」の発展を奨励するアプローチへの転換を促した。

自民党の創設

1955年の自民党の合併に正力が関与したことを記した覚書

1955年の自由民主党の結成には、CIAの関係者が広く関与している。この過程で、正力と鳩山は対立し、正力がこの話題を持ち出そうとしたことで、鳩山は正力邸を怒って出て行った。 正力と吉田は会談を繰り返し、吉田は引退が決まれば鳩山と政権交代すると約束したが、吉田がパリへ外遊した際、退陣して鳩山に政権を譲ることを拒否すると、正力は所有する読売新聞に吉田退陣のためのネガティブ・キャンペーンを行わせた。

正力は、自分のメディア帝国を利用して、首相の政敵である鳩山を支援していた。

Japanese Foreign Intelligence and Grand Strategy: From the Cold War to the Abe Era.
Brad Williams (2021)

吉田や鳩山を通じて合併に直接影響を与えることができなかった正力は、次に、敵対していた三木武吉と大野伴睦の会談をアレンジし、自由党と民主党の合併の下地を作った。 この会談は成功し、鳩山の政治影響力を犠牲にしながら、4月13日に三木が保守合同を発表する。

岐路に立つ日本-安保後の対立と妥協』の著者であるニック・カプールは、中央情報局(CIA)の助言と奨励を受けて、岸信介が1955年に党の結成を画策したとしている。

岸信介の台頭

第五福竜丸事件の余波で、吉田内閣の多くの議員がアメリカを「好戦的」だと評し、通産大臣の愛知揆一らがアメリカの外交政策に反対の声を上げた。CIAと米軍当局は、吉田が日本の自衛隊の育成に関して無策であり、1951年の日米安全保障条約の改定と拡大を躊躇していることを嫌い、吉田を追放してより攻撃的な候補者と交代させようと圧力キャンペーンを始め、その結果、吉田は辞職に至った。アメリカ情報部は吉田を岸に置き換えようとし、岸を訓練し、より魅力的な人物にするための広報キャンペーンまで行ったが、政権は結局吉田のライバルである鳩山一郎の手に渡ることになった。CIAは、鳩山が吉田ドクトリンの継続を決定したことに不満を募らせた。 鳩山は安保条約の改定に消極的で、千島列島をめぐるソ連との融和政策にも取り組んでいた。これはアレン・ダレス(CIA長官)を怒らせ、沖縄を日本から永久に切り離すと脅した。

鳩山の辞任後、アメリカの情報機関は自民党に岸を首相に迎えるよう圧力をかけ続けたが、自民党はその年の候補者の中で最も非親米的とされた石橋湛山を指名し、アメリカ情報機関をさらに苛立たせた。石橋は「中国についてアメリカの意向に自動的に従う時代は終わった」と宣言し、アイゼンハワー政権との関係をさらに緊張させることになる。しかし、石橋は就任後わずか2ヶ月で健康状態の悪化により辞任に追い込まれ、外交危機は回避された。岸はアメリカ政府関係者や黒幕の児玉誉士夫の支援を受け、1957年初頭に首相の座を獲得した。駐日米国大使のダグラス・マッカーサー2世は、岸を日本社会党の影響増大を防ぐことができる唯一の人物と評した。マッカーサーは、岸がいなければ日本の政治風土はますます反米的になっていくと警告した。

1951年、日米安全保障条約を改定しようとした岸の役割は、CIAとアイゼンハワー政権の助言によって動機づけられたものであった。マッカーサー大使は岸と協力して安保条約改定案を作成し、アメリカが国内に軍事施設を保持できるようにした。条約署名とその後の安保反対運動の後、国務省とCIAは岸を広報上の障害になるとみなし、アメリカは岸の政権に対する支援を取りやめた。

賀屋興宣のプロモーション

1958年、近衛文麿・東条英機政権下で蔵相を務めた戦犯容疑者の賀屋興宣が国会議員に選出された。賀屋は1945年から11年間服役し、1955年に巣鴨から出所していた。東アジアにおける日本の安全保障に不安を感じた賀屋は、1959年に訪米し、国務省や海軍政策立案委員会など複数の政府機関の代表者と安全保障政策について議論した。ダレスは、岸首相による日米安全保障条約の扱いに対する国民の大きな反発の中で、条約の改定を推進することを熱望し、自民党の国内治安委員会との情報共有を開始することをCIAに許可した。ダレスとCIAは賀屋と接触し、彼を情報機関に採用した。1956年までに、賀屋からもたらされる情報の頻度が低いと思われたことから、CIAは彼をC層情報機関からF層情報機関に格下げしている。

自民党への資金援助

児玉誉士夫が巣鴨プリズンに収監される前、児玉機関は日中戦争と太平洋戦争で押収したダイヤモンドとプラチナの相当な資金を河野一郎に譲渡した。 これらの鉱物はその後、仲介者の辻嘉六を使ってブラックマーケットで販売し、約1億7,500万ドルを手に入れた。 その資金は自由党創設資金として使われたのである。

占領後、アメリカの情報機関は日本共産党による日本乗っ取りを恐れ、10年にわたる自民党幹部への資金援助キャンペーンを実施した。1955年の自民党結成当初から、CIAは自民党内に情報提供者ネットワークを構築し、監視と財政支援の両面から支払いを行っていた。 岸信介の弟の佐藤栄作は、CIAとの会談でCIAからの多額の財政貢献を要請した。 同時に岸自身も、1958年の総選挙に向けて自民党を支えるために、ワシントンDCを訪問してCIAの選挙寄付を受けている。

自民党への資金援助以外では、日本社会党の穏健派メンバーにもCIAは献金を送っていた。これは、日本社会党の穏健派が穏健な離脱派を煽り、日本の左派を党派的な線引きでさらに分裂させるために行われたものである。

タングステンの密輸

児玉はCIAと結託して私腹を肥やすために、機関の資金と引き換えに、アメリカの防衛企業にタングステンを密輸する計画に参加した。彼の「児玉機関」の活動は、アヘン取引に大きく関わっていた憲兵隊によって、日中戦争中に構築されたものだった。児玉自身は1932年の時点で日本陸軍のタングステン密輸組織に関与していた。ジャパンロビーの一員であり、1945年に逆コースを支援するために機関を辞めたユージン・ドゥーマンは、日本軍と中国の供給源の貯蔵品からペンタゴン防衛契約者に1000万ドル相当の軍事用タングステンを密輸する計画を立案している。冷戦下で、世界のタングステン生産の半分が共産圏に支配していたことで供給不足となり、高グレード品の価格は3倍になっていた。児玉のネットワークは、積極的に材料を移動する物理プロセスに関与し、CIAはこの計画を引き受け、作戦を促進するために約2,800万ドルを供給した。 この計画は、入手したタングステンのグレードが低かったため最終的に失敗し、ドゥーマンは、CIAが2人の日本人共産主義者を拉致し、東アジアの麻薬取引に積極的に関与していることを明らかにすると脅し、返済を求めてCIAを脅迫した。

プロパガンダ

CIAは、日本における米国のイメージを強化し、日本の右傾化を促進するための、数十年にわたるキャンペーンに関与していた。1954年、CIAは時事通信と共同通信の報道を支配する目的で「中央調査局」の設立を後援した。

調査局は時事通信社を母体とし、戦後の二大通信社である時事通信社と共同通信社の有力者を役員に迎えて運営された。

The CIA and the Japanese media: a cautionary tale.
Tessa Morris-Suzuki (2015)

CIAは「日本向け心理戦略計画」というプログラムを設立した。この計画の目的は、日本の世論を動かすために親米・反共・再軍備の立場を支持するように日本のメディアを操作することだった。 アメリカ情報局も秘密裏に日本のメディア制作に資金を提供し、コードネーム「PANEL-D-JAPAN」というプログラムに1億8400万ドルを注ぎ込んだ。CIAとUSISは、日本の知識人をターゲットにして『自由』などの雑誌を創刊した。CIAの最大のメディア資産の1つは日本のメディアの大物で、影響力のある『読売新聞』を所有する正力松太郎だった。正力は日本初の民間テレビ局『日本テレビ』を設立した。日本テレビは日本におけるアメリカの心理作戦の中心的存在となる。正力はCIAのコードネーム「PODAM」と「POJACKPOT-1」のもとで活動していた。POJACKPOT-1による作戦には、10台のカラーテレビ受信機を入手するプログラムがあり、それらは日本に輸送された。この作戦の目的は、1958年の総選挙を前に自民党の宣伝を放送し、家電におけるアメリカの進歩を示すことだった。しかし1958年の選挙で使うには届くのが遅すぎて、この計画は失敗に終わった。正力は日本の原子力を促進するメディアキャンペーンにも加っている。彼のメディア組織は、1953年の国連総会でのアイゼンハワーの演説にちなんで「原子力平和利用博覧会」と名付け、原子力の利点を宣伝する展示会を開催したが、この活動はCIAによって支持され支援されていた。

沖縄での活動

NSAは沖縄を「アメリカによる電子情報収集のための不沈空母」と評価していた。情報収集活動と軍事配備への沖縄人民党による反対にもかかわらず、SR-71とU-2の偵察飛行は嘉手納基地から継続された。沖縄、特に嘉手納の米軍施設はベトナム戦争中に航空、海軍、修理、物流施設として南ベトナムでのアメリカ軍作戦に決定的な役割を担った。

沖縄におけるCIAの影響力は、沖縄の選挙に繰り返し影響を与えようとしたことに関連している。アメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)は、アメリカが沖縄の自民党に180万ドルもの資金を提供していると非難した。これは1997年に機密解除された「秘密行動計画」によって裏付けられ、復帰に対する抗議行動の激化に対応して、自民党への秘密資金提供を通じて琉球の選挙に影響を与えるという秘密機関の計画を詳述した。

さらに最近、沖縄県での米軍の作戦が終了した後も、CIAは沖縄の世論を動かそうとする試みを続けている。情報公開法の要求を通じて入手した文書では、CIAは沖縄の世論を形成する方法について米当局者に助言するマニュアルを作成した。CIAは米当局者に、人道支援や災害救助における軍の役割を述べることによって沖縄の平和主義者の意見を操作するよう助言した。
またCIAは米国政府高官に、沖縄に軍が存在し続ける理由として軍事的抑止力について言及せず、沖縄県民に対する差別における米軍兵士の役割を否定するよう助言した。AFSCはまた、辺野古の米軍施設建設に反対したことが主因で鳩山由紀夫政権の転覆を組織したCIAを告発した。

組織犯罪との協力

ヤクザとの接点

日本の右翼はヤクザと長い間関係を持っていた。1919年に超国家主義的なヤクザの統括組織である大日本国粋会が結成された時点で、ヤクザ・右翼の関与は20万人を超える会員数を擁していた。国粋会は、確立した右翼政党である立憲政友会と関係を築いた。1920年の八幡製鉄所ストライキ、1925年のシンガーミシン社ストライキ、1928年の野田醤油(キッコーマンの前身)ストライキなど、政友会はしばしばヤクザをストライキ解決に起用した。国粋会は、大正期には様々な左翼団体に対する暴力も利用し、ヤクザは部落解放を主張する水平社と戦っている。ヤクザとストライキや暴動鎮圧との関連は昭和時代にも及び、玄洋社は、国家主義移行期に組織労働者や社会主義デモ隊に対するスト破りにヤクザ組織を利用した。玄洋社の後身である黒龍会は、日本の超国家主義者の利益の増進に活発に参加した。黒龍会の創設者である頭山満は、八紘一宇の思想を信じ、ソ連との戦争を主張していた。頭山の関連性、そして一般的にヤクザ右翼は、選挙による民主化が弱まり続けた移行期の「暗殺による政府」の段階において増加し続けていた。頭山は東京皇居での夕食会に招待され、彼の信奉者で同盟者の近衛文麿が1937年に首相に就任することに成功している。ヤクザは、中国における政府のアヘン独占を利用し、麻薬取引や満州国での資源開発において軍と協力した。しかし真珠湾攻撃の後、軍が支援のために依存していたヤクザの多くは、治安上のリスクとみなされ投獄された。また、戦時中のヤクザのもう一つの問題は若者の徴兵であり、これはヤクザを著しく弱体化させた。これらの負の要因によって、政府とヤクザの関係は太平洋戦争終結まで断絶していた。

ヤクザと日本の右派との関係は、日本占領後に再確立された。アメリカの占領当局者の多くは、占領初期に日本の組織犯罪に巻き込まれ、犯罪者のリーダーに給与を支払う当局者もいた。警察の武装解除も、ヤクザの復活に有利な状況をもたらす、権力の空白を生み出した。日本の右派に不利益な公職追放の継続を支持するコートニー・ホイットニーと、「逆コース」の政策転換を提案するG-2リーダーのチャールズ・A・ウィロビーの政策意見の相違は、最終的に在日米軍の情報機関がヤクザを財政的に支援し始める原因となった。SCAPも当初はCIAよりも脱法麻薬や組織犯罪に対して積極的な政策を採用していた。18軒の売春宿を所有する原始ヤクザのリーダー安藤明が、SCAPトップのダグラス・マッカーサーを、親天皇派に変えることができたと推測されている。 ヤクザの多くは建設業に深く関わっており、政府高官とさらに結びついていた。逆コースでは、マッカーサーとSCAPは、反共主義を理由に、違法な超国家主義組織体とのつながりを持つ多くの犯罪組織が成長していることに目をつぶることにした。その代わり、SCAPとマッカーサーはレッドパージを採用し、労働組合、日本共産党、左翼学会のメンバーを粛清し追放した。レッドパージの間、ウィロビーと彼の仲間は、左派を抑圧するために右翼の犯罪者やヤクザに金を払い始めた。ヤクザは日本の左派のリーダーに対する攻撃と、ストライキへの攻撃に使われた。ウィロビーとその部下たちは、共産主義者の侵入に関する陰謀を見つけることに「執着」し、「偏執的」とまで評されるようになった。ウィロビーと彼のヤクザ工作員は、1949年8月に共産党の信用を貶める偽旗作戦とされる松川事件(国鉄の機関車脱線事件)を演出したとされる。 G-2とアメリカ軍情報部は、小説家の鹿地亘を含む左翼人物の非合法な拉致にヤクザを使用した。対外的には、児玉誉士夫がダグラス・マッカーサーとの交渉で、何千人ものヤクザや旧日本陸軍の退役軍人を韓国へ供給したが、これらの義勇兵は韓国兵を装って参戦した。

複数のヤクザグループが、政府に関連する右翼政治家または情報機関の主導で結成された。占領期以前には、後の山口組を含む多くの暴力団が、前述のアヘン貿易を促進するために、明確に承認された軍の権限の下で結成された。キヤノンの部下が町井久之に接触して、横浜の中国人造船所労働者の虐待に対抗するために東亜会を結成したとされる。

児玉誉士夫との連携

児玉誉士夫は、中央情報局および日本の右派と長期にわたる広範な関係を維持していた。児玉は、日本海軍最高司令部との確立されたコネクションにより、管理的な役割で初めて重要な存在となった。児玉会館の館長になる前の彼の過去は、複数の逮捕と投獄、天声学会の設立であった。この学会は表向きは超国家主義団体として、児玉が穏健すぎるとみなす政治家を暗殺する計画を立てていると報告されている。 児玉は上海に渡り、日本海軍航空隊に資源を供給するため児玉機関を設立した。児玉機関は超法規的な徴発と強奪を行い、中国と満洲の農民に銃を突きつけて金属を売るように強制した。また、児玉は上海の組織中央からアヘン組織も運営していた。児玉の努力により、1億7500万ドル以上のダイヤモンド、プラチナ、紙幣に相当する財産を獲得し、上海の憲兵隊の財政担当、上海の情報局の作戦部長としての地位を獲得することになった。日本政府は児玉の活動を容認し、その調達方法には目をつぶっていた。1945年半ばに日本が降伏寸前になると、児玉は1000本以上の金塊やその他の徴用資産を日本に移した。日本降伏後はA級戦犯として逮捕、巣鴨に投獄された。

児玉は巣鴨刑務所に収監されていたとき、同房者で後に首相となる岸信介と親交を深めた。ウィロビーは収監中に児玉と連絡を取り、『I Was Defeated』という回想録を書いて、CIAから出版するよう説得している。刑務所での服役後、米国当局は児玉に対する法的手続きを終了することにし、その後1948年末に釈放した。彼の早期釈放はG-2が彼に関心を持ったためである。児玉がG-2の情報当局者と取引を行い、彼の釈放を確保したと推測されている。アメリカ当局は児玉の莫大な富と中国における彼の広範な情報網に興味を持ったとされ、G-2は特に来るべき「タケマツ作戦」のための貴重な資産とみなした。特に加藤機関の長である有末清三は、北朝鮮と満州における情報網を築くために彼を参加させた。

1951年の日米安全保障条約の再交渉の試みによって引き起こされた1960年の安保闘争の際、岸信介は友人の児玉誉士夫に、来日中のドワイト・アイゼンハワー米大統領を守るため、ヤクザの部隊を編成するよう命じた。秘密のM資金を管理していた児玉は、その資金を「大量動員」のために提供した。
国務省とダグラス・マッカーサー2世アメリカ大使が「大量動員」計画に積極的に関与していたことは、マッカーサーがハリー・S・トルーマン・ビルに送った電報に、アイゼンハワーの来日時に「出迎え」のため数万人のヤクザを街頭に配置するという児玉の計画が詳述されていることからも明らかである。

様々な運動団体に所属し、全学連に強く反対する30,000人の若者には、識別のための腕輪が支給され、必要であれば警察に協力することになっている。

ダグラス・マッカーサー2世 国務省への電報 (1960年6月)


自民党はこの計画を支援するために複数の使者を派遣し、憲政会、住吉会、テキヤ組織のトップと会談した。これらは、主に右翼の退役軍人や暴力団からなる全日本愛国団体協議会の下にグループ化されていた。岸はマッカーサーと国務省から訪問を許可するよう圧力と督励を受けたにもかかわらず、最終的にはハガティ事件の再発を避けるため、訪問の中止を決めた。

CIAのメモには、児玉の貪欲さと情報資産としての価値のなさを嘆き、児玉の不名誉な姿が描かれていたが、児玉が1953年以降もCIAと活動を続けていたかどうかは議論のあるところである。タッド・ズルクは、ロッキード事件に関連して『ニュー・リパブリック』誌に「情報筋によれば、児玉は1948年に日本の刑務所を出たときからCIAと協力関係にあった」と書いており、彼がCIAとのコミュニケーションを続け、CIAの資産として残っていたことを示唆している。にもかかわらず、児玉はフィクサーの役割において、その政治的地位と巨額の資本をテコとして使い続けた。黒幕としての児玉の役割は、自民党に大きな影響力を与え、再軍備に協力的な人物を登用することで、児玉の利益のために繰り返し利用した。この中には、1957年に首相になるのを彼が助けた岸信介や、1963年に自民党幹事長になるのを彼が助けた大野伴睦が含まれている。ロッキード贈収賄スキャンダルの前の 1970 年代まで、児玉は日本の政界に幅広く関与し、自民党と犯罪組織の結びつきを支配していた。歴史家のスターリング・シーグレーブによれば、ロナルド・レーガンが大統領に就任し、児玉が死んだ1984年まで、児玉はCIAに雇われていた。

ロッキード事件での役割

1950年代のロッキード贈収賄スキャンダルの際、CIAは賄賂に関与した外国人高官や機関職員の名前を一般から隠すことで、隠蔽工作に積極的に参加したとされる。 CIAは、関係者の名前を公表すれば外交関係に悪影響を与えるとし、国家機密を理由にして名前を非公表にした。また、CIAは報道関係者向けの覚書を発表し、ロッキードが賄賂の資金洗浄に利用したパイプ役であるディーク・アンド・カンパニーとCIAとの関係を否定するよう報道関係者に指示した。にもかかわらず、賄賂の首謀者と主たる受取人の両方を務めた疑いがある児玉誉士夫については、"CIAの日本における最高情報資産"と説明されている。
複数の著者が、CIAはスキャンダルの間、積極的な諜報活動と児玉とのつながりを維持していたため、ペイオフを知っていたと主張している。『ニュー・リパブリック』誌は、ディーク社を通されなかった支払いのうち、430万ドルが児玉経由で送金されたと述べた。さらに、機関の連絡先として知られていた児玉は、スキャンダルの期間中、CIAと協力関係にあったと主張している。ジェローム・アラン・コーエンは、ロッキード社が仲介者として児玉を選んだのは、彼が自民党の有力な指導者と密な接触を持っていたからだと記している。児玉誉士夫はスキャンダル以前の15年間、ロッキードの有料コンサルタントであり、コンサルティングサービスに対してロッキードから700万ドルを受け取っていた。ロッキードの宣伝活動に関し、彼は全日空にL-1011トライスター航空機6機を販売する手数料の一部として、600万ドルを受け取っている。
(訳注:実際の目的は全日空のL-1011トライスターではなく、海上自衛隊にP-3C対潜哨戒機を買わせることだった)

また、児玉は1972年の選挙で支援した田中角栄元首相とも関係があった。岸信介とも長い間関係があり、岸と児玉は巣鴨の刑務所仲間で、岸は児玉に繰り返し便宜を図っていた。また、野村證券の会長であり、東京証券取引所の前会長である瀬川美能留との関係も記録されている。

児玉の活動は、マネーロンダリングの主な担い手でもあった資金調達会社である、ディーク・アンド・カンパニーと連携したものであった。ディーク社のオーナーでOSSの工作員であったニコラス・ディークは、「エイジャックス作戦」の際、ディークの香港事務所を通じて、イラン・クーデターの扇動者にCIAの資金援助を行っていたことが知られている。また、ディークは自分の金融機関に多額の銀債権の口座があると投資家に約束し、存在しないはずの電信詐欺を行ったとも報告されている。 ディークに関わる他の疑惑としては、リチャード・ニクソンの1972年の再選キャンペーンにおいて、CIAの認識の下で資金洗浄を行ったことが含まれる。事件の間、ロッキードから合計で推定830万ドル相当の賄賂が、ディーク社によって日本の役人へ贈られた。

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