統一教会の教義をどのように見るか

統一教会では、『原理講論』と呼ばれる教典と、教祖である文鮮明の発言を集めた『天聖経』を教義としています。教祖の文鮮明が書いた『原理原本』を高弟である劉孝元がリライトしたのが『原理講論』です。
しかし、その発言や行動からわかるとおり、文鮮明は単なる俗物であって、神学に由来した思想を持っているわけではありません。
ですから、キリスト教の派生としては論外なのですが、逆に言うと、文鮮明の持っていた大衆的な社会観や道徳観の断片が、「宗教」に形を借りて映し出されています。

キリスト者からの批判

この『原理講論』を、キリスト者の立場から批判した「ネメシェギ論文」というのがあります。(リンク先からPDFをダウンロードできます)
2020年に亡くなったペトロ・ネメシェギ神父は、有名な神学者でもあり、一般向けにも多くの著書が邦訳されています。「キリスト教とは何か」という書籍は、代表的な一冊ではないかと思います。

ネメシェギ神父は『原理講論』を分析し、儒教に由来する陰陽説の強い影響や、文鮮明が幼児期に受けたキリスト教教育の影響、疑似科学的な言説、終末論的な言説などの特徴を挙げています。
そのうえで、ネメシェギ神父は統一教を「キリスト教に比べられないほど劣った宗教」であるとし、キリスト者たちがいっそう正しい信仰に励むことを訴えています。

世俗の観点で眺めてみること

しかし、ネメシェギ神父の解説を待つまでもなく、僕たち素人が一瞥しただけでも、統一教会の教義はキリスト教とはかけ離れています。これは部分的に聖書から題材を採っただけの、きわめて低俗な新興宗教にすぎません。
ネメシェギ神父は専ら「キリスト教」の観点から統一教批判を行っていますが、世俗の立場からは違った視点から批判を行う必要があります。

世俗の観点からの批判とは、以前のエントリ「新興宗教とはなんだろうか」に書いた類のことを踏まえた視点が必要だ、ということです。
僕が言う「新興宗教」は、フランス革命以降の「自由、平等、基本的人権」や国民国家といった、近代人が共有する普遍的理念や概念が確立された後に生まれた宗教です。
世俗社会との関りから統一教会を考えるにあたっては、そうしたパラダイムや、歴史的な社会動向の中において、その特徴を掴む作業こそが、普遍的な議論に繋がると思うのです。

儒教と陰陽説

『原理講論』に特徴的なのは、物事の本質を単純な二元論に当てはめて絶対化する考え方です。特に、男女の二元論は『原理講論』の根幹をなしており、これは朝鮮半島や日本に根強い「儒教的家父長制」の道徳観に沿っています。
また、物事を二元論に単純化した世界観は、ネメシェギ神父も指摘しているとおり、古代中国を発祥とする「陰陽説」の影響が濃いようです。
朝鮮半島で生まれ、その道徳観を背景に作られた新興宗教としての特徴は、こうしたところにあると思います。

この家父長制道徳観は、同じ東アジアで儒教の影響を受けた日本でも、当たり前の保守的な家族観であり道徳観ですから、とりわけ保守層には素直に受け入れられるものです。

日本による植民地支配の影響

文鮮明は1920年に生まれ、日本統治下の朝鮮半島北部で教育を受けて育った後、日本の実業学校でも学んでいます。日本統治下の朝鮮では「皇民化」として日本語による教育が行われていたため、文鮮明は日本語を話すことができ、日本語での説教も行っています。

皇民化教育において、日本がアジアの盟主となる「八紘一宇」という帝国主義世界観は、植民地に対しても強く押し付けられ、天皇の「御真影」に対する最敬礼や宮城(皇居)遥拝なども、内地の日本人同様に厳しく実施されています。

僕は、『原理講論』の世界観に、この日本帝国主義の影響が色濃く見られるように思います。
「世界は韓国を頂点として平和に統一され、やがて全ての民族は朝鮮語を話すべし」という考え方は、「天皇を戴く大日本帝国の下、アジアの民はみな日本語を話さなければならない」とされた八紘一宇の理念と同じなのです。

また、教団では文鮮明夫妻の写真を神聖視し、信徒は各家庭に飾った写真に毎朝拝跪するそうですが、天皇の「御真影」を拝ませたのとまったく同じに思えます。

文鮮明は終戦の前に朝鮮へ帰還していますが、終戦後の1948年に北朝鮮当局によって「南のスパイではないか」として逮捕・収監されたと言われています。日本の植民地から南北分断の悲劇まで、彼はまさに朝鮮半島の激動期に青年時代を送っています。

反共主義

統一教会の教義を特徴づけている重大な要素に「反共」があります。『原理講論』でも、共産主義は民主主義の敵であり、戦わなければならない、としているのです。
この「民主主義 vs 共産主義」という言い方は、今日の日本でもよく登場する欺瞞的な反共プロパガンダ・フレーズなのですが、これが教義に登場するのです。

そもそも共産主義は、資本家が労働者を搾取する資本主義経済と、その究極の形である帝国主義を脱して、労働者が主権を持つ真の民主主義国家を目指すものです。
つまり、資本主義や帝国主義に対立するのが共産主義であって、民主主義が原則であることは、経済体制が資本主義であろうが社会主義であろうが関係ないのです。

文鮮明の統一教会が「反共プロパガンダ」をこれほど稚拙な形で教義に入れているのは、言うまでもなく朝鮮戦争以来の「南北分断」による影響です。
統一教会が「世界基督教統一神霊協会」として発足した1954年は、1950年に始まった朝鮮戦争が休戦した翌年でした。この戦争によって半島の全域が戦場となり、東西冷戦の構図ができ上がったのです。

韓国(南朝鮮)における反共主義は、南北分断の結果として大衆に広められただけではありません。日本の植民地時代から、治安維持法によって、民族独立運動とともに共産主義は厳しく取り締まられていました。韓国では、日本植民地時代からの反共主義が、より強い形で戦後も人々を支配したのです。
この「反共」を教義に取り入れることで、統一教会は朴正熙大統領の軍事独裁政権と結びつき、日本やアメリカでの政界工作に深く関与していきます。

日本の帝国主義と東西冷戦が生んだカルト

以上に見たとおり、僕は統一教会を「日本帝国主義の残滓であり、南北分断の暗部」として生まれた、社会的カルトであると思っています。こうした教団が「信仰」という精神活動の分野だけでなく、政治活動や経済(献金)活動の面に深刻な問題を起こしているのは、必然だと言えます。

教団は、教義の中で「政治と宗教は一体でなければならない」として、韓国民が世界を統一した国家に君臨するのだとしています。国民国家が成立した後の時代にあって、宗教は「国家」という世俗権力機構との関係に、時として緊張を孕むことになり、「政教分離」の原則を生みました。

この教団の本質は、基本的人権として認められる「信教の自由」が想定している精神活動の枠を、明らかに逸脱していると思います。この穴を利用し、教団は「信教の自由」を盾にすることで、経済活動のルールや、政治活動のルールを、やすやすと逸脱することに成功してきました。

いまや我々の社会は、この教団の本質を見極め、断固として立ち向かう必要があると思います。


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