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「僕が必要とする援助は、僕のこととして君に要請するから、それに応えてくれるだけでいい。そうでない援助は、僕を損なうから、断る。障害者は常にそのことを言っているのに、それに応えることなく、余計な援助が押し掛けてくるんだ。それは抑圧にしかすぎないんだよ」

70年代。「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」という障害者の運動団体が、差別反対を旗印に関西や関東で施設や行政機関、バスを占拠した。歩ける者は少数で、車イスに乗った重度障害者がほとんどだった。彼らは占拠した施設内の事務所にある書類をびりびりに引き裂き、そこに小便をひっかけた。また、何十台ものバスに乗り込んで立て籠もったり、道路に寝ころんだりして半日ほど交通をマヒさせた。
(中略)
何をしても罪に問われなかった彼らの行動は、次第にエスカレートしていった。

こんな文章から始まる本。なんとまぁ過激な時代があったものだ。これは戦いの記録で、その戦いには障害者だけでなく、彼らに関わった介護者たちも含まれている。私が健常者だからか、障害者より介護者の目を通して戦いを読んだ。

1972年、新大阪駅にて。

脳性マヒの障害を持つ横塚は、駅構内の階段を一段降りるごとに両足をそろえ、体勢を整えていた。
当時、エスカレーターもエレベーターもなかった。おぼつかない足取りを端から見ていた出迎え役の河野は、「横塚さん、風呂敷を持ちましょうか」と言うやいなや、素早くそれを取り上げた。その途端、横塚はバランスを崩し、階段から転げ落ちそうになった。咄嗟に河野が体を入れ、体勢をとどめることはできたものの、タイミングが悪ければ一大事になっていた。
目的地の事務所に到着後、横塚は河野に向かって言った。
「河野さん、人にはそれぞれのリズムがある。それを奪われたら生きていけないのだよ。君は今日、僕のリズムを奪った。僕が必要とする援助は、僕のこととして君に要請するから、それに応えてくれるだけでいい。そうでない援助は、僕を損なうから、断る。障害者は常にそのことを言っているのに、それに応えることなく、余計な援助が押し掛けてくるんだ。それは抑圧にしかすぎないんだよ」

養護学校に入学した脳性マヒ者が、最重度の障害者であったため、その学校の中でイジメにあった。同級生は、こんなことを言っていた。

「僕らは普通校でいっぱいいじめられてきたからいじめ返さな」

負の連鎖、あるいは別の言い方があるのか分からないが、なんとなく身につまされる話である。

養護学校ができて、普通学校の特殊学級から転校した生徒の母親は語る。

「(普通学校は)差別が激しかった。先生から差別されよったもん。養護学校ができた時にねえ、小学校の校長先生が『片輪が出て行ってすっとした』て言わはった」
当時、特殊学級の児童は表門から登下校することは許されず、裏門から出入りしなければならなかったという。今では考えられない、あからさまな差別である。

上記は1960年ころの話だ。今から60年前、こういう時代があったということは知っておいても良いだろう。この母親の話はまだ続く。

母親は、開校した養護学校で、初めて開かれた運動会が忘れられないという。
「前の日に親たちは子どもがケガせんように運動場の石ころを拾った。草も引いて。おしゃべりしながら。校長先生も一緒にするん。翌日の運動会は、みんなで玉入れした。機能訓練の成果で、寝たきりやった子が地面に座ってでも玉を入れれるようになった。その時はね、先生も生徒も親も泣いた。嬉しいて、みんな泣いた」
みんなの頬をつたった涙は、嬉しさと悔しさが入り混じったものだったのかもしれない。

筆者は健常者であり、部落出身者として部落問題に関する本も書いている。彼の障害者を見る視点は時に辛辣とも言えるほど客観的で、だから読んでいてすごく親しみが持てた。


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