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専用にしなきゃ必要な人が必要なものを使えない社会って、おかしくない?

いつもエンタメ絡みの話が多いのですが、今回は某デパートでエレベーターに乗って考えた「エレベーター優先問題」について。

車イスユーザーが、エレベーターに乗りたくても乗れない!という嘆きが時々、テレビやSNSで話題になります。

施設において、車イスユーザーの垂直移動はエレベーターしかありません。
でもエレベーターが混んでいて、乗れない!
待っても、中がいっぱいで乗れない!
譲ってくれる人がいても、そこにサッと後から来た人に乗られてしまう!
勇気を奮ってお願いの声かけをしてもダメ!

それが「車イス、ベビーカー優先」エレベーターだとしても、、、。、

あまりに何度もエレベーターに乗れない経験積むとだんだん慣れてきちゃって、怒りも湧いてこなくて、「あーまたか」って思っちゃう、と言ってた人もいましたが、その気持ち、すごくよく分かります。
私も聴導犬同伴で「ダメ」って言われることに慣れてきちゃって、まっいいか、と諦めてしまったりするから。(逆にすんなり「どうぞ」と言われると、びっくりして慌ててしまう 笑)

そんな理不尽な思いをすることに慣れてしまうのはおかしいのに。

でも、そういう理不尽な体験を嘆くと
「みんな待ってるんだから」
「わがまま」
「混んでる時に来るのが悪い」
「邪魔だ!」と罵詈雑言を浴びせられてしまうことも。

なんかおかしいよね。

乗り物の座席の場合、1人(自分)が譲れば、1人(相手)が座れるから、自分の「譲ろう」という決意で完結するけど、エレベーターに車イスが乗るには、1人(自分)が譲るだけでは無理な場合が多く、だから、「私1人が降りても意味がない」とみんなが思ってしまうのかもしれません。

でもエレベーター内10人くらいいる中で、「降りて譲ろう」って思う人が1人(自分)だけとしたら、それ自体ひどく残念なことですが、それ以上に、「どうせ誰も降りないよ」としか思えないのだとしたら、、、そんな殺伐とした社会になっちゃったということなのでしょうか。

エレベーター内が、ベビーカーとか車イス、足が不自由な人で埋め尽くされてる、なんてことはないだろうに、誰も降りそうにないと思うのか、、。うーん。

私自身、階段よりエスカレーター使っちゃうし、歩く必要なくて楽だからエレベーターもよく使うし、、とにかく、できるだけ楽をしたい派。(健康のために階段、とか、絶対に嫌なタイプ)

でも、楽はしたいけど、エレベーターじゃなきゃ困る人を差し置いてまで、楽をしたいとは思わないんだけど、、。

そんなことを考えているのですが、先日、これを発見。

もう「優先」なんて生ぬるい言葉じゃなくて「専用」になってました。
考えてみると、「優先」って、実は曖昧な言葉なのかもしれません。
誰が、何を、どこまで「優先」に考えるか、解釈が人によって違うから。
自分に他の選択肢があるなら、一択しかない人に譲る、というのは当たり前に思えるけれど、でも、自分に他の選択肢があったとしても、私はこれを使いたい、という気持ちを優先する人は譲らないでしょう。

だから、どうしてもそれしか方法のない人「専用」、つまり、それ以外の人には使わせない、にするしかない、、ということかなぁ。

「専用」にすることで、確かにそれ以外の人は使わなくなるから、車イスユーザーやベビーカーの人は使いやすくなるかもしれません。
でも、「専用」って、ある意味、「分断」でもあるんですよね。
私がエレベーター待っている間にも、この専用エレベーターからベビーカー親子が降りてきて、ほぼ空の状態で上がっていきました。他の機の前には何人も待っていたのですが。

その「他の人」が乗ってしまうと、必要としてる人が乗れなくなるから「分けた」のですが、その「対象外の人」たちは、一緒にした時の「譲らない」ことの結果として、「空いていても乗れない」という理不尽さを味わうことになるわけです。

また、「専用」があるせいで、車イスユーザーやベビーカー親子は、他の機が空いていても乗りづらくなるということもあるでしょう。

「分ける」ことは、そんなデメリットがあるけれど、それよりなにより「乗れる(移動できる)」ためにはそうせざるを得ない、ということ。

本来なら、みんなで共用して、でも足りない時は、必要な人を優先すればいいはず。
なのに、、、、「障害者ばかり優先されて、不公平だ!」なんて声まで上がるのですよ。

違うのになぁ。

多くの人は意識していないけれども、この世の中、「障害のない人たち」基準でつくられた「障害のない人ファースト」な社会。
2本の足で歩けること、目が見えてること、耳が聞こえていること、日本語が理解できること、、そういう人を基準に考えられている社会なわけで、その中で、困りごとを抱えている人を優先することは、障害のない人より前に行かせるんじゃなくて、障害のない「ファースト」扱いされている人たちと少しでも同じように動けるように、というだけのことで、それは優遇でもなく、単なる「不平等の是正」なんですよね。

でも、「障害者は優遇されてる」って考える人の考えを変えていくのはやはり時間もかかるし、難しいこと。

ならば、まずは「車イスユーザーはエレベーターでないと移動できないんですよ」ってことに気づいてもらうだけでも、「私は階段やエスカレーターで行けるから、どうぞ」って思える人が増えていくんじゃないかな、と思うのです。

よく、「相手の身になれ」と言われますが、実際、人は自分とは違う境遇や立場や条件にある人の「身になる」ことは難しいと思うのです。でも「想像」することはできるはず。そのためにもまずはやはり「気づく」ことが最初のステップ。

「そうなんだ!」という気づきが、変化をもたらし、誰もが自分らしく生きることができる社会につながっていく、、と信じたいな。

まずは、混んだエレベーターに乗ってて、車イスやベビーカーの人が待ってたら、「私、降ります!」って言おう。
もし誰も同調してくれなかったら無駄になるかもしれないけど、その声に「気づく」人もいるかもしれないから。
もし、誰も同調してくれなくて、車いすユーザーさんと一緒に取り残されたら、一緒に「次に期待!」ってニコって、できたらいいな。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ちょっとした生きづらさを抱えた1人として、見たり聞いたり考えたりしたことを綴ってます。またぜひお越しください!

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