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レティシア書房店長日誌

葉真中顕「鼓動」
 
 「明日は今日よりも豊かになる。
 ユーラシア大陸の東の端からぽとりとこぼれた水滴のような、この日本という島国では、だれもがそう信じることのできた時代が長く続いた。
ぼくが生まれたのは、そのさなか、1974年6月13日のことだった。」
そして今、48歳。無職、独身、恋愛経験なし、ずっと引きこもりの草鹿秀雄の言葉で本書はスタートします。(新刊1870円)
 

 ある夜、ホームレスの老女が殺され、燃やされる事件が起きます。その場にいた草鹿は逮捕され、さらに、彼は自宅で父親を惨殺したと告白します。事件を追いかける刑事奥貫綾乃は、時代に見捨てられ、社会の陰でひっそりと生きてきた草鹿の人生に何があったのかを追いかけていきます。草鹿の幼少期から青年期、そして中年へと至る人生を彼の独白の文章で振り返る部分と、奥貫刑事の地味な捜査を描く章が交互に登場する構成になっています。
 殺された老女の隠された人生、複雑に絡み合う犯行動機。事件の背景から浮かび上がってくるのは、80代の親が50代の子供の生活を支えるために精神的、経済的に強い負担を背負わされる8050問題や、弱者に付け込む悪徳ビジネスなど社会の闇です。ただでさえ生きにくい時代に生まれ、真面目だが不器用なために上手く立ち回れず、誰にも承認されないと苦しむ草鹿の歩んできた道。
 物語は、彼が子どもながらも、明日は今日よりも豊かになると信じていた1974年から、服役中の刑務所で手記を綴る2025年までを描いていきます。
「どこの職場にも馴染めず苦い思い出だけが増えていたあの頃、自宅の自分の部屋はこの世で唯一、ぼくがぼくの居場所と思える場所だった。ぼくを傷つけるもののない『聖域』だった。 畢竟、バイトを辞めてから次のバイトを始めるまで、自分の部屋で『休む』時間が延びていった。取りも直さずそれは、時間を消費しているということでもあった。 そして2004年6月13日、ぼくは三十歳になった。なってしまった。」
 彼は、ひきこもりからの立ち直りの困難さに喘ぎ、父と自分の間で8050問題が深刻化し、抜き差しならない状態へと向かっていることに苛立ちます。
 「自分がだれかを殺し、清々しい気分で絞首台に上るまでの短い物語を想像すると、ほんのわずか、なにかが慰められる気がしたのだ。」と、気持ちが膨張していき、殺人へと向かうのですが......。極刑を望む草鹿の心の奥に奥貫刑事は降りていきます。同時に、彼女自身がかつて、自分の子どもを愛せず手放したトラウマに悩まされます。
 「生きている。 いい人生とか言い難くても、希望と呼べるものなどなにもなくても、弱くて孤独な、かけらのような命だとしても、たしかに。わたしたちは、生きている。」
 綾乃が、最後に草鹿に向かって言った言葉です。いや、ひょっとして自分自身に向かって発した言葉かもしれません。
 そしてラスト、「明日は今日よりも豊かになる。」で始まる文章が再度登場します。最初に紹介した文章の本当の意味が、最後で理解できます。やっと、長い苦闘の末に見出した草鹿の希望を、私たちに強く印象付けて物語は幕を閉じます。
 

●レティシア書房ギャラリー案内
7/10(水)〜7/21(日)切り絵展「図鑑と地図」 後藤郁子作品展
7/24(水)〜8/4(日)「夏の本たち」croixille &レティシア 書房の古本市

⭐️入荷ご案内
Kai「Kaiのチャクラケアブック」(8800円)早乙女ぐりこ「速く、ぐりこ!もっと速く!」(1980円)
つげ義春「つげ義春が語る旅と隠遁」(2530円)
山本英子「キミは文学を知らない」(2200円)
たやさないvol.4「恥ずかしげもなく、野心を語る」(1100円)
子鹿&紫都香「キッチンドランカーの本2」(660円)
夏森かぶと「本と抵抗」(660円)
加藤和彦「あの素晴らしい日々」(3300円)
Troublemakers (3600円)
若林理砂「謎の症状」(1980円)
宇田智子「すこし広くなった」(1980円)
おぼけん「新百姓宣言」(1100円)
仕事文脈vol.24「反戦と仕事」(1100円)
降矢聰+吉田夏生編「ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト
(2530円)
「些末事研究vol.9-結婚とは何だろうか」(700円)
今日マチ子「きみのまち」(2200円)
秋峰善「夏葉社日記」(1650円)
「B面の歌を聴け」(990円)
「本と本屋とわたしの話vol.21」(300円)
辻山良雄「しぶとい10人の本屋」(2310円)
辺野古発「うみかじ8号」(フリーペーパー)
夕暮宇宙船「小さき者たちへ」(1100円)
「超個人的時間紀行」(1650円)
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「フォロンを追いかけてtouching FOLON Book1」(2200円)


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