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地獄行きオクトーバー (5/10)


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 わたしは昔から明るい性格ではなかった。そのうえ思ったことは口に出すのを躊躇わない性質で、だから学校で嫌われるのは自然の帰結だった。いじめと断言できる程度ではない。きっとどこのクラスにもあった、どんよりとした無形の檻。その中に囚われて、わたしは小学と中学をやり過ごした。

 別に平気。あんな頭の悪い連中、むしろこっちからお断りだ。そう思っていた。でも日々を重ねていくと、いつまでも掃除されない灰皿のように、心の底に何かの滓が溜まっていく。それは決まって寒い夜、わたしの胸に穴を空け、洟まじりの汚い涙となって枕を濡らした。



 お姉はいつだってそれに気付いてくれた。

「ヘイ、泣き虫ちゃん。映画みようぜ」

 日付を跨ぐような時間でも、お姉は躊躇せずわたしの部屋のドアを開け、リビングまで連れだした。そして父の映画コレクションを勝手に借りて、一緒に鑑賞した。
 この時、お姉は必ずホットミルクをつくってくれた。どこにでも売ってる低脂肪牛乳のはずなのに、お姉のつくるそれは不思議に甘くて、わたしの胸の穴を塞いでくれた。

 両親が自動車事故に見せかけてヤクザに殺されたのは、父が弁護士で、母がその秘書だったからだ。
 十六歳だったわたしは、ただ泣くことしかできなかった。でもお姉は違った。お姉は強い人だったから、どこからか悪魔と契約する方法を知って、それを実行した。
 両親のため。そしてわたしを守るために。



 五年前、雷雨の夜。
 古式ゆかしいヤクザの邸宅に、サキュバスとなったお姉は着物姿であらわれた。
 ヤクザたちはわたしをさらって人質にしていたけれど、無駄だった。しとどに濡れたお姉が江戸紅型びんがたをはだけさせ、鎖骨から乳房にかけてつうと撫でると、ヤクザたちは理性を失くして群がった。百人分のミイラができあがるまで、一時間もかからなかった。
 助け出されたわたしは、べとべとになったお姉の胸に抱かれ、安堵に泣いた。

 その時だ。あいつが地獄からやってきたのは。

 突然、畳に黒い渦が巻いた。そこから二本の触手が天井に届きそうなほど伸びてきた。驚き固まるわたしの前で、黒い渦からどっしりと貫録のある声が響いてきた。

『済んだか。では契約履行の時間である』
「……そうね。わかってるよ、男爵

 お姉はわたしを離し、ゆっくりと立ち上がる。

「お姉?」
「ごめんね、ミナ。ダメなお姉を許してね」

 お姉は寂しげに微笑む。そんな風に笑うお姉を、わたしは生まれて初めてみた。

「どういうこと? そいつ、何なの?」
『貴様、話していないのか? 家族などの親しい人間には事前に話しておくのがコンプライアンス的に推奨されると説明しただろう』

 男爵と呼ばれた触手は呆れたように言った。

『娘よ。貴様の姉は地獄の女衒たるこの吾輩と契約し、淫魔となった。すなわち地獄の生き物となったのだ。もはや現世にはいられぬ』
「うそだ」
『うそではない。契約書面にも書いてある。請求があれば開示するが』
「お願いします」

 しばらくの間をおいて、三本目の触手が渦から出てきた。羊皮紙の束を差し出してくる。わたしはそれを受け取り、日本語で書かれた文章を読んだ。
 男爵の言うとおりだった。他にも隅々まで粗を探したけれど、どこにも瑕疵はみつけられない。そもそも地獄の法を知らないし。

『理解したか。吾輩としても訴訟リスクは回避したいゆえ』
「撤回は、できないんですか」
『地獄にクーリングオフ的な制度はない』

 わたしは目の前が真っ暗になった。
 お姉が歩き出す。男爵の方へ向かって。わたしは声を張り上げた。

「待ってよ、お姉! わたしを一人にしないで!」
「ごめんね。契約だから」
「だったら、わたしも地獄に行く。わたしも連れて行ってよ」

 男爵がこれを否定した。

『無理だ、娘よ。生者と聖者に地獄の門をくぐることは叶わぬ』
「じゃあ、わたしもサキュバスにして。できるんでしょう」
『それも無理だ。淫魔契約法は十八歳未満との契約を禁じておる。そもそも貴様の魂には淫魔の素質がない。その薄い体がどれだけ育とうと、貴様は淫魔にはなれぬだろう』

 魔族は残酷だった。
 わたしは未練がましく、地獄行きの理屈を探す。それを尻目に、黒い渦は勢いを増す。お姉を足元から飲み込んでいく。

「お姉ッ!」
「ミナ。風邪ひかないようにするんだよ。あんた寒がりちゃんだから」

 お姉の体が沈んでいく。わたしが駄々をこねる時の、困ったような笑顔のままで。

「ハロウィンには現世に来られるって話だからさ。その日には必ず帰ってくるよ。それまで、元気でね」

 その言葉を最後に、お姉は完全に渦に呑まれた。
 男爵の触手も引っ込む。渦が小さくなり、地獄の門が閉じる。後にはわたしだけが残された。
 わたしは声を涸らして泣いた。



 神父さまが来たのはその直後のことだ。

「少女よ。今ここに魔族がいなかったか?」

 全身にタバコの臭いを染みつかせたカソックコートの老人は、低くざらついた声でそう言った。
 わたしはうずくまったまま答える。

「いました。わたしの姉を、地獄に連れて行ってしまいました」
「そうか」

 キン、という金属音と、火の点いた音。映画で聞いたことがある。ジッポライターだ。淫臭ただよう和室に紫煙がくゆる。

「少女よ。姉を取り戻したいか」
「取り戻したいです」
「魔族をブチ殺したいか」
「ブチ殺したいです」
「神の名において許す。お前の魂からはエクソシストの素養を感じる。覚悟があるならば、自分の手で拾え」

 ぽとりと、何かが畳のうえに落ちてきた。かすんだ目を凝らす。ロザリオだった。
 わたしは掻き毟るようにそれを掴んだ。



「……で、その神父はどうしてんの?」
「肺癌で死んじゃったよ」

 チュパカブラとの戦いの後、わたしたちはシャワーで血を流し、自宅のリビングでだらだらしていた。お姉は床に胡坐をかいてサキイカをつまみに缶ビール。わたしはジャージに着替え、また炬燵でお姉の特濃ホットミルクだ。

「まさかあの衣装がコスプレじゃなかったとはねぇ。なんで黙ってたのさ」
「お姉、魔族だから……嫌われると思って」
「かわいい妹を嫌う姉なんてこの宇宙にいるもんかい」

 嬉しい。頬がもにょもにょする。

「でもね、ミナ。あたしを助けるためにエクソシストやってんなら、別に必要ないかんね」

 二本目の缶ビールを開けながら、お姉は言う。

「あたしはサキュバス生活をけっこう楽しんでる。それに地獄もそんな悪いところじゃないわよ。魔族は契約を守る生き物だから、コンプラ意識もしっかりしてるし」
「でも地獄でしょ?」
「まあ、ダンテさんが書いてた通りでしたけどね」

 黒い暴風が亡霊を吹っ飛ばしてたりするのか。やっぱ最悪じゃん。

「でもあたしは罪人をいぢめる側だから、そんなに苦労はないわけよ」
「ああ、なるほど。ビシバシ鞭打ったりするんだ?」
「そうよぉ。現世で傲慢の罪を犯した野郎どもを、きゃんきゃんケツ振る哀れな畜生に調教してやんの。楽しいわよ」
「そっか……」

 ギャハハハハ、と笑いながら拷問するお姉の姿が易々と浮かんできた。複雑だけど、お姉が元気ならそれでいいのかもしれない。

「でもわたし、エクソシストは辞めないよ」
「ほう?」
「たしかに最初はお姉を助けることしか考えてなかった。でも、やってく内にさ……月並みだけど……誰かを守ることの喜びを知ったっていうか」

 「ありがとう、おねえちゃん」。血塗れになったわたしを怖れもせず、そう言ってくれた女の子を思い出す。
 あの子のおかげでわたしは知った。お姉がわたしを守ってくれていた理由。お姉が宇宙一のお姉である所以を。

「つまり、あんたはあんたなりに人生を楽しんでるってことね」
「そうなるのかな」
「なるのよ。立派になったもんだ。お姉は喜んでいます」

 お姉は目を細めた。妖艶なサキュバスの顔ではない。むかしの母さんによく似ていた。

「決めた。現世にいるあいだは、お姉がミナの仕事を手伝ってあげる」
「仕事?」
「もちろん退魔よ。まだ一ヶ月あんのよ。チュパカブラだけで終わるはずないわ」
「でも、お姉も魔族じゃん。いいの?」
「あんただって、エクソシストのくせにあたしを守ってる」
「そうだけど」
「サキュバスだエクソシストだいう前に、あたしらは姉妹なのよ。お互いを思いやって何が悪いの」

 お姉は身を乗り出し、缶ビールの底を炬燵に叩きつけた。

「十月は二人で出歩くわよ。人間にも、魔族にも、この美人姉妹の仲良しっぷりを見せつけてやりましょ」



【続く】


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