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【豚が狼を喰らうのか?】 #3


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<前回>
「レイチェル殿、この方はヘクター・ハドルストン卿。今は引退しておられますが、《十二人評議会》を七期務めた偉大な商人にして、我々を始めとする多方面への寄付を惜しまない篤志家であらせられます」

「よしてくだされ、司教。儂は金貸しと土地の売り買いなどという下賤な商売で成り上がった身。その贖いをしているに過ぎませぬ」

 深緑のテイルコートを纏った老紳士は苦笑交じりにそう言った。

 眼光、顔立ち、声、立ち姿、そのすべてから深みを感じさせる老人である。身長は高く、髪も灰に染まっているとはいえ豊かなものだ。背筋も曲がっていない。外部へ溢れ出しそうなほどのエネルギーを、積み重ねた人生の重みで抑え込んでいる、そんな印象をレイチェルは受けた。

 《十二人評議会》とは、自治都市の同盟であるグランダースの統一的な意思を決定する国権的機関である。リディアを含む十二の都市参事会から選挙で選ばれたメンバーは、名実ともにグランダース最高の権力者と認められることになる。それほどの人物、というわけか。

 ハドルストンはレイチェルに手を差し出した。

「ハドルストンです。貴女のことは司教殿から聞いておりますよ。ここまで美しいお嬢さんだったとは思いませんでしたが」

「ありがとうございます。お会いできて光栄です」

 レイチェルはぎこちなく握手に応えた。




 護衛だからと断ったバルドを除き、四人で乾杯した。

 レイチェルは芳醇な香りを味わってから、葡萄酒を呷る。カンディアーニは己の用意した酒が下っていく白い喉元をじっと見ていた。

「まあ……、素敵なお酒ですね。深くて、優しい味です」

「地珠派の大修道院で醸造されたものです。お口に合いましたかな」

「司教様は、地珠派の教えも学ばれておられるそうですね。その繋がりですか?」クリスが言った。

「ええ、ええ。二十年前の、《惑霧の魔王》による災禍の折に助けられましてな」

 《惑霧の魔王》。魔の霧と魔物とを大陸に蔓延させ、人々を分断するという手段によって、大陸全土に悲劇をまき散らした狡猾なる侵略者である。討滅されて二十年、復興は進んでいるとはいえ、今もなお傷跡は各地に残されている。

 神珠教団も当然ながら抵抗した。優秀な術師であるカンディアーニも参戦し、そのときの功績によって教区長の地位を得たという。

「霧と魔物により物流は寸断され、あらゆる物が枯渇していったあの時代……。我ら光珠派は耐えることしかできなかったが、真に民を救ったのは、地を知り、畑を知り、農業を知る、地珠派の仲間たちでした。彼らは過酷な状況下でも知恵と経験を活かし、生きる糧を生産することができた。それが民を、私たちを救ってくれたのです」

 カンディアーニはなだらかな顎を上げ、遠い目で空を見た。

「そんなことがありましてな。節制も大切ですが、人の幸福はまず腹を満たすことからと、私なりに人を導く方法を考えた結果、今のような形に至ります。光珠派の上層部にはよく思われてはいないようですが、それも私の不徳の致すところ……」

「変革者とはどこの世界でも嫌われるもの。司教殿の責任ではありますまい。儂にも覚えがあります」

「卿にそう言っていただけるとありがたい。しかし私はこの体型ですからな。腹を満たすよりお前はまず節制しろ、と思われても仕方ありません」

 カンディアーニは腹を弾ませて笑った。ハドルストンは口を吊り上げた。追従すべきか、とレイチェルは思ったが、杯に口をつけて誤魔化した。

「その様子だと、お二人は親しいのですか? 寡聞にして存じませんでしたが」

 笑い声の隙間にクリスが尋ねた。カンディアーニは横目でハドルストンを見ながら答える。

「親しい……というのは、また違うかもしれませんな。私からすれば、卿は恩人というべきでしょうか。私の教えを実践するための寄付を、長年つづけてくださっておりますから」

「ああ……では、これらの食材も?」

「そう、卿からの資金が大きな支えとなっております。ありがたいことです」

「善意でやっておるわけではないよ」ハドルストンはクリスに向けて言った。「さっきも言ったとおり、これは贖いだ。否、そもそも儂はこの村を通して光珠派から金を頂いている立場だからな。贖いにもなっておらん」

「それは……、どういうことでしょうか?」

 レイチェルの質問に、ハドルストンはまっすぐな視線を返す。

「レイチェル殿。儂は貴女に懺悔をせねばなりません」

「え?」

「唐突に失礼。ですが告白させていただきたい。十年前、イラの悲劇のどさくさに紛れて、貴女が相続するはずだった土地を奪ったのは、この儂なのです」

 レイチェルは面食らい、クリスを見た。彼は無言で頷いた。

 ハドルストンは目を伏せて続ける。

「先に申しました通り、儂は賤しき生業で身を立てておる者です。返すあてを期待できる者に債務を押しつけ、実りの期待できる土地が安ければそれを買う。十年前、イラを襲った悲劇を知った儂は、それを悲しむより先に、この土地を買えるか否か、買う価値があるか否かを考えた。そういう性分なのです」

「……」

「あるべき流れに任せていれば、この土地は教団のもとに落ち着くことになったのでしょう。しかし欲深な儂は、教団よりも手早く動き、その流れに割り込みました。教団に土地を貸し付けるために」

「貸し付ける……? では、今現在も?」

「そう。この土地の現在の所有権は儂にある。そして利用料を教団から巻き上げているのです。儂はそうやって善良な人々の弱みにつけこむことで、金儲けをしている俗物なのです。篤志家などと評されるのは光栄ですが……儂に相応しい言葉ではありませんな」

「そのような自覚を持ちながら、罪悪感を抱かない連中も山ほどいます。卿はご立派だと思いますよ」

 クリスが言った。ハドルストンは再び苦笑する。

「君は人をおだてるのが上手いな。わざとらしさがない」

「事実に対する正当な評価を申し上げているだけです」

「メイウッド殿の仰るとおりですよ、卿」カンディアーニが頭を上下させながら言う。「利用料といっても、土地の規模からすれば微々たるもの。実に無欲なお方です」

「司教殿の世辞は下手ですな。無欲なら割り込んで土地を買ったりするものですか。……まあ、ともかく」

 老紳士はレイチェルに視線を戻した。

「そういう意味で、この土地の所有を巡っては、儂と貴女は対立関係にあると言えましょうな」

「そんな、対立だなんて。私は……」

「儂としては、この土地を貴女に返すのが筋だと考えております」

 ハドルストンはレイチェルの言葉をさえぎった。

「しかし、法の上での所有者が誰であれ、実態としてこの土地は神珠教団が利用し、生活している人々もいる。儂と貴女の一存で決められるものでもありますまい。司教殿も交え、じっくりと議論をする必要があるでしょうな。そのつもりで我らを招いたのでしょう、司教殿?」

「いかにも、いかにも」カンディアーニは再び頭を上下させる。「道義に照らせば明らかなことであっても、うまく回らぬ現実はありますからな。貴女には申し訳ないが、ここはひとつ……」

「そのことなんですが」クリスが片手を上げた。「彼女には、この土地の相続権を主張するつもりはないそうです」

「何ですと?」

 司教はだらしなく口を開けた。老紳士は眉を上げてレイチェルを見た。レイチェルは頷いた。

「実際に訪れてみて、司教様がしっかりと民の皆さんを導いておられることが確信できました。未熟な私にはとてもできないことです。この地は貴方がたの手にお任せいたします」

「おお……」カンディアーニは戸惑いを浮かべていたが、やがて安堵した様子で笑った。「なんと心の広い女性であることでしょう! 貴女に白狼の守護あれかし!」

「メイウッド君。君はそれで良いのかね?」

 ハドルストンの問いに、クリスは肩を竦めた。

「当事者はレイチェルですから。彼女の意思を尊重するだけです」

「……そうかね」

「それで司教様」レイチェルは言った。「土地のことは良いとして、他にも私に聞きたいことがおありなのでは?」

「むほほほ。どうやらお見通しのようですな。白き森から産出される聖光珠は、我ら光珠派にとって得がたき逸品です。それを得るための正しき手法……《月の祝福の儀》のやり方をご教授いただきたい。それと……」

「それと神狼珠の在り処、ですよね?」

 それを口にした途端、彼らの表情が強張ったように見えた。

 きわめて高密度の霊素から構成されており、神としての力や意志さえも宿している霊珠のことを、神珠と呼ぶ。現存しているもので意志を残しているものはほとんどないが、それでも一般的な霊珠とは比較にならないほどの力をもつ。当然、金銭的な価値も比較にならない。

 白狼を宿した神珠……イラの村に伝わりし神狼珠は、たしかに現存しているとリアは言っていた。クリスがそれを覚えていた。しかしレイチェル自身は、その神珠を見たことは一度もない。どこかに封印されていたのだろう。リアだけがその在り処を知っていたのだ。

 この二人が聖域を侵し、正しき手順をふまずに光珠を横流しするような輩ならば、喉から手が出るほど欲しいもののはず。レイチェルは微笑みに鋭い視線を隠し、彼らの反応を観察した。

「レイチェル殿は、その……ご存知なのですか?」

 カンディアーニは声をひそめて訊いた。その目線は、泰然とした様子のハドルストンをちらちらと窺っている。この二人の関係がいかなるものなのか、レイチェルにも分かった気がした。彼女は気付かれぬよう、横目でクリスに視線を向けた。

「ええ。母から聞きました」レイチェルはにっこりと笑って言った。「大切なことなのでそう簡単にとは参りませんけれど、司教様になら、私……あら?」

 そのとき、レイチェルの体がぐらりと揺れた。手を伸ばすクリスより先に、カンディアーニが彼女を抱きとめた。

「おっと……大丈夫ですか、レイチェル殿?」

「申し訳ありません……ちょっと、めまいが……」カンディアーニにもたれかかりながら、彼女は悩ましげな顔に手をあてた。「ああ、どうしたのでしょう、私……」

「酔いが回ったのではありませんかな? 少し横になった方がよろしいでしょう。良ければ医務室にお連れしますぞ」

「司教様、いかがなされました?」

 警護をしていた二名の騎士が近付いてきた。

「おお。すみませんが、この女性を医務室へ。具合が悪いようです」

「分かりました」

「うう……ご迷惑を……」

 レイチェルは朦朧とした様子で騎士たちに支えられた。

 クリスは縋るように手を伸ばす。ハドルストンがその肩に手を置いた。

「心配はいらんよ。すぐに良くなるさ」

「……ええ」

 クリスは小さく頷き返した。

 レイチェルは丁重に礼拝堂へと運ばれていく。カンディアーニもそれについていった。彼はそれをただ見送った。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 医務室にはくたびれた顔の修道士がひとり詰めているだけだった。並べられた寝台のうち窓際のものにレイチェルを横たえ、騎士たちは持ち場に戻っていった。

 カンディアーニはそれを見送ると、修道士に向き直った。

「ヴィジリオ君。ちょっと席を外してもらえますかな?」

「え? でも、この人は……」

「酔っぱらってしまっただけでしょう。他に誰もいないようですし、私が代わりに診ておきますよ」

「そんなこと、司教様にお任せできませんよ。僕がどやされます」

「私が望んだのですから、そう言いなさい。久しぶりにこういう仕事をしたい気分なのです。君、ずっとここにいて暇なのでしょう? 少しくらい祭りを楽しんでも罰は下りませんよ」

「うーん……。じゃあ、お言葉に甘えて」修道士は申し訳なさそうな笑みを浮かべて、腰を浮かせた。「いつも気遣ってくださってありがとうございます、司教様。すぐ戻って参りますんで」

「のんびりして構いませんのに」

 修道士は出て行った。カンディアーニは入り口から廊下の様子をうかがい、扉を閉めた。

 彼は寝台に横たわるレイチェルを見た。眠っているようだ。

「しかしまあ……本当によく育ったものだ。あの痩せっぽちのお転婆が……こんなに瑞々しく……」

 カンディアーニは生唾を飲み込み、彼女の肢体に顔を近づけた。

 胎の上で組まれた両手に、豊かな胸。無防備にさらされた喉元。安らかに閉ざされた瞼。

 そのすべてが、呼吸と共にかすかに震えている。

 生きているからだ。心臓が拍動し、肉のすみずみにまで血液と光の御霊とを行き渡らせているからだ。彼は生唾を飲み込んだ。

「ああ……! だめだ、我慢できん!」

 カンディアーニは弾かれたようにレイチェルから身を離した。彼は足をもつらせながら、医療器具の仕舞われている棚に走った。

 そして刃物を探した。

 切り刻むために。彼女の体を。瑞々しき肉の塊を。

(どこだ。どこがいい。できることなら内臓、特に子宮が一番だが、当然そうもいかぬ。だがひと月も我慢したのだ。ならば……いや、いや。冷静になれ。この娘に何かあればメイウッドの小僧がかならず気付く。誤魔化しがきく程度にしなければならない。乳房の肉はどうか……内臓ではないが美味い……だめだ、不自然だ。やはり首から肩にかけてをほんの少し削るくらいが妥当か。味も量も甚だ足りぬが、葡萄酒のつまみにはなるだろう。残りは後日の楽しみとするか……ああ、早くこの娘の子宮を食べたい!

 彼は頭の中でのたうつように思考した。そしてそのすべてを口に出していたことに気付いていなかった。彼の意識は、これから口に含むことになる肉の味を想像することでいっぱいだった。

 彼は生唾を飲み込んだ。

 ようやく手術刀を見つけ、力強く握る。カンディアーニは振りかえり、ぎらぎらと血走った目でレイチェルを見た。彼女の髪は白くなっていた。

「え?」

 レイチェルは目を見開いた。

 仰向けの姿勢のまま腰を浮かし、ぐっと膝をたたみ、伸ばす。寝台が悲鳴をあげるほどの勢いをつけ、カンディアーニに跳び蹴りを喰らわせた。




【続く】

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