【君の安らぎは何処にあるのか?】 #2
坂の下で待っていたレイチェルを二頭立ての箱馬車が迎えに来たのは、陽が沈み切る直前のことだった。
馬車から大柄な男が下りてくる。灰色の短髪に、浅黒い筋肉質の身体。先程もクリスと一緒にいた男だ。彼は低い声で話しかけてきた。
「お待たせ致しました、レイチェル様。バルドと申します。どうぞお乗りください」
「ありがとうございます」
促されるまま乗り込む。バルドが窮屈そうに頭を屈めながら乗り、扉を閉めると、馬車はゆっくりと走り出した。
バルドはレイチェルの正面に座り、目と口を閉じて顔に三本の線を引いた。張り詰めた糸のような沈黙が箱の中を満たす。蹄と車輪の音がほぐしてくれなければ、息苦しく思ったかもしれない。
レイチェルは声をかけることにした。
「バルドさん、さっきもクリス……トファー会長と、一緒におられましたよね」
「……はい」バルドは眼を閉じたまま答える。
「彼とはどういうご関係です? 執事さんですか?」
「いえ、護衛です。冒険者だった私を、会長が雇ってくださったのです」
「そうだったのですか。でも、宜しいのですか? 護衛の方が送迎だなんて」
「会長のご命令ですので」
バルドは淡々と、切るような口調である。会話の意思はあまりなさそうだ。そういう気質なのかもしれないが、レイチェルはどうも自分が拒絶されているような匂いを感じた。大人しく口を噤むことにする。
運ばれたのは都市の外れの方だった。《緋色の牝鹿亭》はおろか、目抜き通りからもずいぶん離れている。豪商たちの住まいや支部は、利便性のため目抜き通りの周辺に集まっていることが多い。たぶん、だからこそ、なのだろう。彼らしい選択である。
馬車を下り、バルドが門を開く。《緋色の牝鹿亭》の倍以上はある屋敷だった。その大きさの割には狭い庭を抜け、中へ入る。この時間にも仕事があるのか、幾人かが忙しそうに動きまわっていた。
バルドに連れられ、一階の奥の部屋へ。執務室だろう。バルドがその扉を叩いた。
「会長、お連れしました」
「うん、入ってくれ」
バルドは扉を開け、無言で促す。レイチェルは一礼してから入室した。
商人の執務室としてはありがちな部屋だった。両脇の壁は書類や酒瓶、食器類などが仕舞われた棚で埋め尽くされている。中央には応接用のテーブルと四脚の椅子。その奥には執務用の机があり、クリスはそこで蝋燭を頼りに書き物をしているところだった。
「どうぞ、そこのテーブルに座って。もう終わるから」
「終わっちゃうんですか? クリスがお仕事してるとこ、見たかったです」
「何も面白いことなんてないよ」クリスは苦笑しながら、羊皮紙の山に一枚を加えた。「はい、おしまい。楽しい時間はここから」
「会長、私は廊下に」バルドが言った。
「ああ。ご苦労だったね、バルド」
バルドは黙礼し、静かに部屋を出て行った。
クリスは机を立ち、棚から酒瓶とグラスを取り出していく。それを眺めながら、レイチェルは椅子に座った。
「彼、何か失礼なことを言わなかったかい?」
「え? いいえ、別に何も」レイチェルは首を振った。「会話らしい会話もありませんでしたし。でも、そうですね、何となく、歓迎されていない気はしました」
「ああ、やっぱり……。どうも彼、むかし光珠派の女性と何かあったらしくてね。指示を出した後で思い出した。君達には悪いことをしたな」
「いえ、私は気にしていませんから」
そう言いつつも、レイチェルは少しだけ残念に思った。彼の朴訥な佇まいは好ましく感じていたのだが。
クリスは向かいの椅子に座り、ブランデー・グラスに琥珀色の液体を注ぐ。ヘスペリデスという銘柄だった。
「有名な水珠派の修道院で生産されているアップル・ブランデーだよ。商取引のおまけに頂いたんだ。八十年熟成ものらしい」
「まあ! 最高級じゃないですか」
「知ってのとおり、僕はあまり強くないから、好きなだけ空けていいよ」
「いいんですか、そんなこと言って。知りませんよ」
クリスは笑いながらグラスを掲げた。レイチェルもそれに応えた。水晶のような音が蝋燭の火を揺らし、再会を祝した。
芳醇な香りを楽しんでから、僅かな量を口に含む。
「ああ、素敵ですね」
「口に合ったなら何よりだ」
「それは勿論ですけれど。それより、貴方とこうしてお酒を飲み交わせる日が来たことが、とても素敵です」
「ああ、うん。そうだね」クリスは頷いた。「少しは大人になれたってことか。確かに……想像できなかったな。昔は」
か細い灯りに照らされた彼の顔は、やはり青白くはあったが、子供の頃と比べればずっと血色が良い。背も抜かされていた。彼は大人の男性なのだ。
群衆が話していたように、メイウッド家は製薬業で財を成した家柄である。およそ二百年ほど前、神聖にして凶暴なる一角獣ユニコーンを手懐けたのがその歴史の始まりだ。ユニコーンの角には癒しの力がある。クリスの祖先はその成分を研究し、万能薬とまでは言えないものの、解毒や神経の病に効く薬を開発した。一角獣印の小瓶に入った薬は、冒険者なら必ず目にするであろうアンチドーテ・ポーションのひとつである。
そのような家系に生まれても、簡単には癒せない病に彼は罹っていた。今では自分の命を自分で支えられるようになったのだ。レイチェルは誇らしく思った。
クリスが二回目に口をつけるころには、レイチェルは二杯目に手を出していた。本当においしいお酒だ。ほう、と長めの息を吐いていると、クリスがじっと見つめていることに気付いた。
「どうしました? よだれ垂らしちゃってます?」
「いや……そうしていると、君のお母さんにそっくりだなって思って」
「え?」レイチェルはグラスを置いた。「本当ですか?」
「ああ。思えば、あの頃のリアさんと同じくらいの歳になったんだよね。……君は大人になったよ」
レイチェルはグラスの中の液体に視線を落とした。琥珀色に歪んだ女の顔。自分ではよく分からなかった。
「そうですか。もしそうなら、嬉しいです。本当に」
「……」
クリスは無言で彼女を見つめた後、ぐい、とグラスを呷った。彼も二杯目を注ぎ始めた。
「僕が君の家に初めて行ったときのこと、覚えてる?」
「ええ、覚えてますよ」レイチェルは顔を上げた。「そういえば、あのときも二人でお酒を飲もうとしましたね」
「リアさんが秘蔵してたお酒を、君がこっそり盗み出して」
「そうでした、そうでした」くすくすと笑う。
「僕は止めたのに、君は全然聞かないでさ。お陰で僕までリアさんにこっぴどく叱られた。大人に叱られるなんてあれが初めてだったよ」
「ごめんなさいね。でも、楽しかったでしょう?」
「うん、楽しかった」クリスは笑みを浮かべる。「そのときはよく分からなかったけど、今なら分かるよ。僕は楽しかった」
「私も楽しかったです」
レイチェルは酔いとは違うものが胸のなかに広がるのを感じた。ああ、これが「懐かしい」という気持ちだと、彼女は思い出した。
二人はしばし想い出話を語り合った。レイチェルが話を投げかければ、クリスはそれをしっかり受け止めてから、別の話を投げ返す。それを繰り返した。
二人の共有する想い出は大体パターンが同じだ。レイチェルが思いついた悪い遊びに、クリスが引き止めながらもついてくる。そして大人に叱られて、反省したふりをする。どこにでもいる悪童だったといえるが、レイチェル一人だったら決してそんなことはしなかっただろう。クリスが隣にいるときだけ、小さな悪魔が囁くのだ。
「それでぇ、ブラッドおじさんが珍しく困った顔を……あら?」レイチェルは手にした酒瓶の軽さに驚き、瓶底を見た。「もう空っぽでしたぁ……」
「そりゃそうだよ、それだけ飲んだら」クリスは可笑しそうに言った。
「私、そんなに飲んでました? 変ですね。まだ三杯目くらいじゃ?」
「僕ならそれで合ってる」
「いいお酒っていうのは、なくなるのも早いんですねぇ。残念です」
「別のお酒もあるよ。飲むかい?」
「うーん……。いえ、お酒はここまでにしましょう!」レイチェルはぷるぷると首を振った。「『呑まれるんなら酒呑むな』、です」
「なるほど、至言だね」
クリスは銀の水差しをよこした。レイチェルはグラスを透明な水で満たす。やっぱり色がついていないと寂しい気がした。
「友達っていうのは、やっぱりいいね」クリスはそう言って、グラスに残っていた分を流し込んだ。「商売相手だとかと飲むより、ずっとずっと良い酒だ。こんなに美味い酒は初めてだよ」
「こっちの台詞ですよ、クリス」
「レイチェル」クリスは口元から笑みを消した。「君は何のために冒険者をしている?」
急な質問に、レイチェルは面食らった。クリスの視線は優しいが、鋭かった。彼女は酔いの回った思考のなかで、真剣に言葉をさがす。
「私にもうまく言えませんが……、そう……『善く生きるため』、でしょうか」
「『善く生きるため』」クリスは繰り返した。
「私の神様が仰っていることです。善く迷い、善く考えなさいと。その果てに下した決断は、たとえ完全なるものでなかったとしても、ひとつの善き理を必ず含むからと。それが善く生きるということなのだと」
クリスは黙って聞いている。レイチェルは無意識のうちに祈りの手を組んでいた。
「私に具体的な目的というものはありません。出口の見えない迷いの中にいるからです。でもそれは、必要な迷いなのだと私は思っています」
「……」
「旅という迷いの中で、色々なものに触れられる。その都度、私はたくさんのことを学び、考える。その積み重なった果てに、善き決断を下せる私が出来上がるのだと、私はそう信じています。それが私の……」言葉はそこで途切れた。「……私の……」
「……君の神様の教え、というわけか」
クリスはか細い声で言った。レイチェルは頷いた。そして質問の意図は何なのか、目で問うた。
「……レイチェル。君にひとつ、お願いしたい」クリスはそう口を開いた。「そしてそのお願いは、君が旅をする理由からそう外れるものでもないと思う」
「……」
「僕の私兵集団に入らないか。《ユニコーン騎士団》に」
レイチェルは驚かなかった。その提案がくることを、彼女はあるていど予想していた。
《ユニコーン騎士団》。騎士団とはいうが、クリスの言ったとおり、内実は金で雇われた私兵集団である。目的は「魔物による被害を防ぐこと」であり、魔物退治や護衛の任を請け負って、大陸各地に派遣される。中枢は騎士団の活動に専任するメンバーで構成されているが、末端は必要に応じて冒険者などを雇い、柔軟な活動を可能としている。
三年前に設立されて以来、レイチェルは他の冒険者を通じてその噂を聞いていた。実際に契約した冒険者と仕事をしたこともある。彼は一角獣の紋章のメダルを控えめにぶら下げた、確かな実力者だった。そして魔物のことをひどく憎んでいた。
クリスの瞳の奥、あの冒険者と同じ光が見える。レイチェルには当然その理由が分かった。分かった、つもりだ。
「その様子だと、知っているみたいだね。どういう団体なのか」
「私も冒険者ですからね」
「そう、我々は戦う力を持ち、人格的に信頼できる冒険者を歓迎している」
クリスは商人の口調で言った。
「君ならどちらも申し分ない。幹部になってもらうのが第一希望だけど、君が自身の旅を優先したいのであれば、末端としてでも良い。多少の協力をしてもらう代わりに、できる限りの援助を約束する。言っておくけど、特別扱いしてるわけじゃないよ。他の冒険者と同様の契約だ」
「ええ、分かってますよ」
「……というのは、建前だけどね」クリスは口調を崩した。「本音を言うと、目的はふたつ。『君と繋がっていたい』『君の旅を助けたい』。それだけのことなんだ」
「あらあら。素直にそう言えばいいじゃないですか」
「ただ助けたいと言っても、君は受け取らないだろう? 君は冒険者で、修道女だ」
「私のことをよく分かってますね」
レイチェルは微笑んだ。それから黙り込み、クリスの「お願い」への返答を考え始めた。十秒ほど経って、クリスは言った。
「決断は今じゃなくてもいいよ。ゆっくり考えて……」
「いえ、決めました」レイチェルは遮った。「入団させてください。いきなり幹部というのは恐れ多いので、末端として」
「本当かい?」クリスは安堵した様子で椅子に腰を深めた。「ははは、そうか。なんていうか、うん、すごく嬉しいよ。また君の隣人になれたみたいで」
クリスはそう言って笑った。はにかむようなその笑顔は、蝋燭の炎よりも明るく染まっているように見えた。レイチェルはその瞳に自分の姿を見ようとした。
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