【豚が狼を喰らうのか?】 #4
<前回>
(どこだ。どこがいい。できることなら内臓、特に子宮が一番だが、当然そうもいかぬ。だがひと月も我慢したのだ。ならば……いや、いや。冷静になれ。この娘に何かあればメイウッドの小僧がかならず気付く。誤魔化しがきく程度にしなければならない。乳房の肉はどうか……内臓ではないが美味い……だめだ、不自然だ。やはり首から肩にかけてをほんの少し削るくらいが妥当か。味も量も甚だ足りぬが、葡萄酒のつまみにはなるだろう。残りは後日の楽しみとするか……ああ、早くこの娘の子宮を食べたい!)
彼は頭の中でのたうつように思考した。そしてそのすべてを口に出していたことに気付いていなかった。彼の意識は、これから口に含むことになる肉の味を想像することでいっぱいだった。
彼は生唾を飲み込んだ。
ようやく手術刀を見つけ、力強く握る。カンディアーニは振りかえり、ぎらぎらと血走った目でレイチェルを見た。彼女の髪は白くなっていた。
「え?」
レイチェルは目を見開いた。
仰向けの姿勢のまま腰を浮かし、ぐっと膝をたたみ、伸ばす。寝台が悲鳴をあげるほどの勢いをつけ、カンディアーニに跳び蹴りを喰らわせた。
「ぐわーッ!?」
カンディアーニは腹でその衝撃を受け、背中から棚に叩きつけられた。棚が倒れ、押し潰される。
「ぶぐ、ひ……! なに、なんだ、なにが……」
裏返った声をあげながら、棚の下から這い出る。彼は四つん這いのまま振り返った。
さっきまで金糸雀色の髪の女が横たわっていた寝台には誰もいない。代わりに色が抜け落ちたような白い髪の女が、そのそばに立っていた。双眸に冷たい怒りを宿して。
「お前……、私を喰おうとしたの?」
「ひ、ひ……っ!?」
レイチェルが一歩、近付いてくる。カンディアーニは立ち上がろうとして失敗し、尻をついた。
「母さんのことも、そんな風に見てたの?」問いかけるたび、一歩を踏み出す。
「ひ……ひ……」カンディアーニは後ずさる。
「ひと月も我慢したって言ったな」
「だ、誰か……」
「何を我慢したんだ」
「来てくれ……誰か……!」
「お前はッ!」
レイチェルは床を強く踏み叩いた。カンディアーニは跳ねた。
「お前は! この村で! 何をしているんだッ! この村でッ!!」
「ひいい! 誰か、誰か来てくれーッ!」
「なんだ!」「大きな物音が……」
彼らの叫びに呼応するように、警備の修道騎士たちが医務室に駆け込んできた。
「司教様!? これは……!」
「あ、あ……!」カンディアーニは凄い勢いで彼らのもとに後ずさった。「そ、その人は……」
「貴様、司教様に危害を加えたな!」
騎士たちは司教を守るように立ちふさがった。
「司教様、とにかくお逃げください! この女は必ず捕らえます!」
「う、うう……!」
カンディアーニは迷うように騎士とレイチェルを見比べた。やがて意を決し、どたどたと部屋から出て行った。
レイチェルは突き進んだ。
片方の騎士が素早く手を伸ばしてきた。レイチェルは右手でその腕をとり、ぐいと引っ張った。その力の強さに騎士は驚いた顔をした。
レイチェルは腕を掴んだまま、左腕で騎士の肩をねじる。ぼきりと小気味よい音がした。騎士が絶叫をあげる前に、首筋に手刀を喰らわせ、気絶させた。
あまりに滑らかな流れでくずおれる相棒を、もう一人は唖然として見ていた。レイチェルは掴みかかった。騎士は反射的に身を躱し、レイチェルの背後に回り込んだ。彼は剣を抜くことを決心した。柄に手をかけた、その腕に、レイチェルは後ろ回し蹴りを放った。
「ぐはっ……!」
騎士は壁に叩きつけられた。レイチェルは自分の体を押し付けるようにして、彼の首を掴み、頭突きを見舞わせた。
「ぐあっ! こ、の……ぐわっ!」
もう一発。二発。三発目で、やっと騎士は気を失った。しなだれ落ちる騎士を放置し、レイチェルは医務室を出た。
「どうしました!?」「司教様が襲われたらしい!」「あの女だ! 捕縛せよ!」
礼拝堂と逆側へ伸びる廊下に、修道士や騎士たちが次々と現れていた。その向こうに、ひた走るカンディアーニの背が見えた。
レイチェルは床を蹴って走り出す。
「魔女め! 司教様に手出しは……ぐふっ!?」
レイチェルは瞬間的な速さで騎士に迫り、鳩尾を殴って昏倒させた。続いて駆け寄ってきた騎士を体当たりで先制し、胸に肘を打ち込んで空気を吐き出させる。騎士は倒れた。
「こいつ……! 皆、警戒せよ! 舐めてかかるな!」
年配の騎士が号令をかけると、騎士たちから戸惑いと躊躇の気配が消えた。もはやこれまでのようにはいくまい。
レイチェルはドレスの裾を裂き、両側にスリットを入れた。
三人の騎士たちは年配の騎士を先頭に横に広がり、動かない。増援まで時間を稼ぐつもりか。
レイチェルは年配の騎士に飛びかかった。その瞬間、年配の騎士は後ろに飛び下がった。レイチェルの動きを予測している。だが今さら標的は変えられない……!
二人の若い騎士の間を通過し、年配の騎士を押したおす。年配の騎士はうめきながらも、レイチェルの背中に両腕をまわし、ベアハッグで拘束した。
「掴んだぞ……! やれッ!」
「「はいっ!」」
二人の騎士が後ろから襲い掛かってくる。レイチェルはもがいたが、年配の騎士は決して放さない。この形にするために、彼は先頭に立ってレイチェルを誘ったのか。
レイチェルは起き上がることを諦め、彼に倣った。両腕を年配の騎士の背にまわし、締め付ける。彼の何倍もの力で。
「お、おおお……ッ!?」
騎士の筋肉と骨格がみしみしと悲鳴をあげる。彼が緩めた力はほんの僅かだった。それでもレイチェルには十分だった。
互いに拘束し合ったまま、レイチェルは横に転がり、若い騎士たちの手を躱した。年配の騎士は後頭部を壁に打ち付けられ、ようやく意識と共にレイチェルを手放した。
「き、貴様!」「よくもーッ!」
若い騎士たちが抜剣して襲ってくる。レイチェルは顎が床につくほどに姿勢を低くし、残像をともなう速さで彼らの足首を叩いた。
「ぐあっ」「ぐわーっ!」
騎士たちは倒れた。骨に罅くらいは入れられただろうか。もはや追ってはこれまい。
レイチェルは起き上がり、走り出した。
廊下を一瞬で駆け抜け、突き当たりを左へ。そこは右手側にいくつもの窓が並ぶ廊下。奥には上り階段があった。
レイチェルが進もうとした時、窓のひとつが割れた。外から誰かが飛び込んできたのだ。
その男は……、ヒースはゆっくりと身を起こし、レイチェルを睨んだ。
「レイチェル……あんた、何してる」
「……そこをどいて」レイチェルは言った。「カンディアーニ司教に用がある。あんたと戦う気はない」
「そうはいかない。あれは依頼人で、俺は冒険者だ。……仕事は果たす」
レイチェルは小さく息を吐いた。握った拳が空気を軋ませた。
割れた窓から風が吹き込む。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ひーっ、ひーっ」
カンディアーニは二階の床をずしずしと踏み鳴らしながら、自室へむかって倒けつ転びつ走っていた。
(狼だ。狼が私を喰いに来た……!)
おそろしかった。しかし同時に、ついに来るべき者が来たのだ、という思いもあった。心のどこかで、彼はこの日を予感していた。
心臓と共に激しく乱れる彼の魂は、忌まわしき過去の記憶を呼びさます。
霧に囲まれたあの陰鬱な日々……いつ終わるとも知れぬ城塞都市の戦……忍耐を説いても罵声を返すだけの飢えた群衆……打ち倒された魔物と人々の死体……信徒だった少女の死体……死体……肢体……!
喰え、と、記憶のなかの男が言った。彼は餓えたカンディアーニの目の前で、少女の死体を『解体』し、鍋で煮込んだその肉を差し出した。
(『何を躊躇う。こんな下らん戦で死にたいのか?』)
彼は……猪の神を崇める地珠派の男は、自らも少女の肉を喰らいながら言った。彼の目は底なしの闇色に堕ちていた。
(『もうここには何もないぞ。せっかく耕した畑も台無しにされちまった。俺たちが守るべき民とやらにな。……だが俺たちの命はある。そこに喰えるモノもある。だったらやることは一つじゃあないか? え?』)
……何度も吐いた。しかし、疑心暗鬼に駆られた群衆のなかで最後まで教えを信じ、自分を慕ってくれた少女の肉は、カンディアーニに生きる意志を与えてくれた。
代償に、彼は許されることのない飢餓感をかかえて生きていくことになった。
彼の魂は知ってしまった……否、思い出してしまったのだ。人の肉の味を。罪という言葉を知らぬ獣だった頃の感覚を。
それでもカンディアーニは人間だ。何が罪で、何を忌むべきか、光の道に学んできた。そして何が人を堕とし、何を与えれば人を救えるのか、地の道に学んだ。
心を尊厳で満たし、腹を食物で満たす。そうして人は幸福になれる。飢えは心の尊厳さえも瘦せ細らせてしまうのだ。ならば人々の腹を満たすことは、節制を是とする光の道にもかなうはず。
彼はそう信じた。そしてその道を違えずに行くことを、己が喰らった少女に誓った。その誓いはよく守られてきた……リアに出逢うまでは。
(ああ! あの娘がいけないのだ! あんな若く、健康で、柔らかな光を宿す娘が現れなければ……私がふたたび過ちを犯すことなど!)
カンディアーニは歯噛みした。あるいはあの娘が生きている内に喰えていれば、それきりで満足できたかもしれない。だが手出しできなかった。あの娘の叔父の、狼のような恐ろしい眼光に射竦められたからだ。そうやって怯んでいる内に、機会は永久に失われた。
そしてカンディアーニは昂った飢餓を癒すため、ハドルストンを通し、魔の闇と手を結んだ。腹を満たす喜びが罪悪感を塗りつぶした。
だが連中の提供する肉は、すべて絶望の魔に染まった魂のものだ。美味ではあるが、やはり光を宿す乙女の肉でなければ、魂の底から満たされることはない。
だから今日、成長したレイチェルを見て、彼の胃袋は賛美の音楽を鳴らしそうになった。彼女は立派な肉に育っていた。しかも薬を盛ったわけでもないのに、自分の前で眠りに落ちるとは。彼女は自らを差し出すためにここへ来たのだと、そう思わずにいられなかった。
その結果が、これだ。
あれは供物の羊などではなかった。その牙で人を狩り屠る狼だ。あの恐ろしい叔父と同じ、裁きのけだものだ……!
「し、死にたくない。私は喰われたくない。喰われてたまるか……!」
カンディアーニはきつく目を閉じた。この期に及んでそう思う自分が情けなかった。瞼の裏で、あの少女が悲しげに見つめている。
自室の両開きの扉が見えてきた。そこには白き森より違法に採掘した光霊珠が保管されている。それらを媒体にし、カンディアーニの得意とする《輝ける守護壁》の術を張って籠城する。とれる手はそれしかない。
カンディアーニは息をせき切らせ、扉の取っ手を掴み、乱暴に引き開けた。閉めたはずの鍵が開いていることを訝しむ余裕はなかった。
「な!?」
カンディアーニは驚きに立ち止まった。
彼の部屋の左側には、酒や菓子類、保存食や食器などが仕舞われた棚。右側には教典などの書類が並べられた棚。そして奥には執務机がある。
その椅子に、赤いドレスの女が座っていた。
「どたどたと重たい足音が近付いてくると思ったら、やっぱり貴方でしたか。如何されました、カンディアーニ司教?」
横向きにした椅子に座ったまま、女はまるで自分が主であるかのように言った。
夜へと沈みゆく空のような藍色の髪を右手で撫でつけ、切れ長の目でカンディアーニを見る。手袋を脱いだ右手の甲に、1から始まる禍々しい数字の刻印が覗いていた。彼女はその手の指に書類を挟み、術の力であっという間に腐食させていく。
この女のことは知っている。名前はソーニャ。人肉およびその他の食料の提供者、《ベルフェゴルの魔宮》の手の者だ。しかし何故ここにいる? 何をしているのだ? 腐らせている書類は確か連中との取引の記録……どうしてそれを……?
次々と脳裏を飛び交う疑問を、しかしカンディアーニはすべて放り棄てた。彼は床に額づいた。
「おお、おお、ソーニャ殿! なんと幸運なことか! どうか私をお救い下さい!」
「……」ソーニャは目を細めた。「救うとは? どういうことですか?」
「お、狼が……マクミフォートの娘が、私を裁きに……」
「ああ。下の騒ぎはそういうこと」ソーニャは得心がいった様子で頷いた。「貴方のしてきたことに感づいたのですね。お気の毒」
「どうか、どうか貴女様のお力で、怖ろしき獣を退けてくだされ。騎士たちではあの獣は止められぬ。だが貴女なら!」
「……」
ソーニャは嫌悪の息を吐いた。椅子から立ち上がり、腐り切って自然にちぎれていく書類をばら撒きながら、カンディアーニへ歩み寄る。そしてぶよぶよと弛んだ後頭部を、容赦なく踏みつけた。
「ぶぐえっ!?」
「本当にどうしようもない野郎ですね、貴方」ソーニャは詰りながら踵に力を込め、何度も彼の顔面を床に押しつけた。「天狼の星を守護する光の血筋に生まれ、女神に愛された戦猪に学んだ司教ともあろうお方が、このざまですか?」
「ぐひ……ひ……」
「堕落の餌を貪るために私どものような存在に縋り、あまつさえ信徒や民に魔性の肉を喰わせ、無自覚に罪を犯させる……。お前は牙を抜かれた豚野郎です。そんなになっても命が惜しいのですか?」
「し、仕方なかったッ! 私の財力で彼らを飢えから救うには! そ、それに、それを喰わせろと言ってきたのは貴方がたで……ぶげえッ!?」
ソーニャは顔面を蹴り上げ、ひっくり返した。カンディアーニは鼻血を垂らし、ひいひいと泣いた。
「ああ、なんと情けない……。教区長にまで上り詰めたほどの光が、こんなにも脂ぎった闇を蓄えてしまうなんて。今のお前はどんな味がするのでしょうね?」
「ひいい! い、嫌だ嫌だ、喰わないで、喰わないでくれえ!」
「ご安心を。お前のような下品な肉、頼まれたって食べたくありません。さあ、その汚らしい血と涙を拭って。救ってさしあげましょう」
ソーニャは捨てるようにハンカチを投げつけた。カンディアーニはきょとんとそれを見ていたが、やがて彼女の言葉を理解すると、引きつった顔で見上げた。
「ほ、本当に……救ってくださるので……?」
「はい。初めからこうするつもりでした。『お客』の要望ですし」ソーニャは右手をあげた。「もはやお前たちが飢えに悩まされることはない」
彼女は指を鳴らした。
その瞬間、カンディアーニは己の腹が満たされていくのを感じた。それは至上の幸福だった。しかしそれは膨れ上がり、止まらなかった。腹だけでなく全身が膨張し、彼を肥大化させていった。
「ぶおっ!? おごおお、お、おッ! ぶおおおおおぉぉぉーッ!!?」
堕ちた光珠派の司教は絶叫し、異形の姿と化していく。ソーニャは軽蔑と愉悦に錆びた瞳で、それを眺めた。
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