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【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #4


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 グランダース南東。濁り河と黒曜の山の狭間。

 そこに広がっていたのは、樫を中心とした常緑樹が密集するいたって普通の森林であった。冬場でも鮮やかな葉を茂らせる樹木たちは、濁り河から立ちのぼる湿気を素材にして、うっすらと霧の白衣を身に纏っている。

 レイチェルは小高い丘の上に立ち、その景色をじっと見下ろしていた。

 森は乳白色の夢にまどろんでいるかのように静かで、邪悪な魔教徒が潜んでいるとは思えない。しかしレイチェルはどこか落ち着かない気分にさせられた。静かすぎるのだ。鳥獣たちの気配さえ感じない。

 違和感は音だけでなく、匂いの中にもあった。湿った土と葉の有機的な匂いの他に、鼻腔がひりつくような何かが僅かに混じっている。言葉にはできないが、森にあってはならない何かの匂いだ。

(何でしょう……これ……)

 レイチェルは右手でつねるように左肩を抱いた。

 この匂いを、自分の魂は知っている気がする。いつかどこかで嗅いだことのあるような……。

 彼女は思索を深めようとした、が、背後からの声がその邪魔をした。

「そいでのお、こっからが儂の孫のイケてるところなんじゃよ。どうしたと思う、マッハ?」

「あ~~~~ハイハイハイハイ、知ってるのだわ。村中の同い年の子供たちに木彫りのお守り作ったげたんでしょ。この話もう四回目だわよ、ウィップお爺さま」

 呑気な会話だ。レイチェルは苦笑と共に振りかえった。

 身振り手振りで自慢の孫の話をする黒コートの老人と、石に座ってうんざりとその話を聞き流す赤髪の少女。《クルトのいくさ屋七代目》ウィップ老に、自称《偉大なる冒険術師》マッハである。二人ともレイチェルと旧知の冒険者だ。

 ウィップは齢六十を超えるが、灰色に染まった硬質の髪と髭の毛先まで活力に満ち溢れた老人である。彼の口から出るのは八割がた溺愛する孫の話ばかりで、周囲の者は今のように何度も同じ話を聞かされる。しかしその愛嬌のある瞳は、いざ戦いとなると熟練の傭兵のそれへと変わる。レイチェルの知る限り、もっとも強い戦士の一人であった。

 対するマッハは、肌の隅々にまで瑞々しさを湛え、大きな瞳に黄玉のような輝きを宿した少女だ。赤い癖毛の上に三角帽子、黒いマントにブラウス、ミニスカート、そして雷霊珠の杖サンダーオーブロッドと、いかにもな見た目の術師である。「人生とは冒険、冒険とは遊びなのだわ!」と公言するおてんば娘だが、その才覚は本物だ。レイチェルの知る限り、もっとも強い術師の一人であった。

「おおー、そんなに聞いてくれたんか。よっぽど儂の孫が好きなんじゃな。そんならもう一回話してやろう。孫は本当に手先が器用でのぉ、ありゃ確実に女神に愛されしフィンガーの……」

「んがーッ! もうヤダこのお爺さまァ! レイチェルさん、助けてえ!」

 マッハは石から立ち上がると、こちらに向かって飛び込んできた。レイチェルは胸で受け止めた。

「あらあら。いつもみたいに聞いてあげればいいじゃないですか」

「ここまでの旅程でさんざん聞いたげたわ!」胸の谷間に顎をのせ、不満げな顔で見上げてくる。「いっぺんに三人の女の子に告られたってのを三回!」

「はい」

「怪我した小鳥を助けたら霊珠を咥えた親鳥が恩返しに来たってのを二回!」

「ええ」

「きちんと教えたわけじゃないのに自力でミスリルの短剣をこしらえたってのなんか五回よ! もう耳タコなのだわ!」

「川に落ちた羊を知恵と勇気で助けた話を忘れとるぞ」

「そりゃ前回の冒険の時でしょ。アッだからって今するのナシ! それ累計六回目だから!」

「マッハさん、相変わらず凄い記憶力ですねぇ。回数まで覚えてるなんて」

「んー? まあね、あたいったら天才だから。うひひひ」

 マッハは尖った歯を剥き出しにして笑う。そう、彼女は頭が良いし、何だかんだで付き合ってあげる娘なのだ。ウィップ老が気に入るのも道理である。

「まあ、それはとにかくッ!」レイチェルの胸に頬を押しつけたまま、マッハはウィップ老をびしりと指差した。「あたいを含め、お爺さまの長話にはみんな飽き飽きしてるのだわ! 聴衆の興味を惹きたけりゃ、おもしろい新エピソードでも引っ提げてくることね!」

「そう言われてものォ~。少なくともお前さんにゃ、粗方のことは話し尽くしちまったぞ」

「方向性を変えてごらんなさいよ。何かに失敗した話とかさ。そーゆーのなら前のめりで聞いたげるのだわ」

「それが失敗とは無縁なんじゃよなぁ。精霊か何かに愛されとるとしか思えん」

「けッ! いけ好かないお子さまなのだわ。天才の失敗は愛嬌なんだから、たまには転んで家畜の糞に突っ込むぐらいしてみなさいっての」

「なんちゅう下品な物言いじゃ! レイチェルさんよ、修道女らしく説教してやってくれい」

「うひひひ。あたいは天才だから、下品なのも愛嬌の内よ。ねー、レイチェルさん」

「ええっと……そうですねえ……」

 レイチェルは曖昧に笑って誤魔化した。二人のことは大好きだが、こうして間に挟んでくるのはちょっぴり困りものである。

 どう答えたものか、と悩んでいると、向こうから助けがやって来た。クリスにバルド、それにアルティナの三人である。これ幸いと手をあげて、声をかけた。

「あー、クリス! アルティナさんも!」

「おお、会長さんかい。あんたも儂の孫トークを聞いてくれるか?」

「いや、いくさ屋殿。それについてはこの後でお聞かせ下さい」

 クリスは涼しい顔で老人を躱し、改めてレイチェルを見た。

「ジルケたちが偵察から帰ってきた。やはりこの地の風には濃い魔の霊気が混じっているらしい。断定的ではないけど、レイチェルや僕たちが捕虜から得た情報と併せて、この地が《ベルフェゴルの魔宮》の本拠地である証拠と見なし、行動を開始する」

 ウィップ老は目を細め、マッハはレイチェルから身を離した。レイチェルは緩めた頬を引き締め、アルティナに目を向ける。

 ミーティスの村での事件の後、彼女は黒幕である《ベルフェゴルの魔宮》を正式に追い始め、クリスと協力体制を組んだ。こうして行動を共にしているのもそのためだ。しかし今回の攻撃には慎重論を唱えていたはずだ。

「アルティナさん、本当によろしいんですか?」

「うむ……。止めても無駄らしいからな」アルティナは難しい顔のまま応えた。「私の意見は変わっていない。《ベルフェゴルの魔宮》はそこまで大きな規模ではないが、侮れない相手だ。攻勢をかけるのならば、神珠教団からの援軍を待つべきと……」

「それにどれくらいかかりますかね?」クリスが遮るように言葉をかぶせた。「神珠教団は大きな組織です。身じろぎひとつ起こすのも大変でしょう。それを待っている間に、奴らは本拠地を移してしまうかもしれませんよ」

「私は可能なかぎり犠牲を出したくないだけです」

「我々のことはご心配なく。魔物狩りを生業としている者ばかりですし、いざという時の覚悟もしています」

「……とまあ、こんな調子でな」アルティナはレイチェルに肩を竦めてみせる。「何を議論しようと平行線だ。あげくに『特任騎士たる貴女が協力してくれれば、我々の犠牲は確実に少なくなりますよ』などと言われてはな……商売人というのは食わせ者ばかりだ」

「光栄ですね。今後ともご贔屓に」

 アルティナは頬をひくつかせた。仲の良い友人同士がぴりついていると、レイチェルとしては気が気でない。

「あんたは相変わらず真面目だねぇ。肩のちから抜きなよ、特任騎士さま?」

 そう言って、背後からアルティナの肩に腕をまわす者がいた。ジルケだ。


 


【続く】

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