幕間 4 緋色の牝鹿亭にて
魔教徒による誘拐事件から数日後の夕方、アルティナは革袋をひとつ背負い、《緋色の牝鹿亭》を訪れていた。
「こんにちは、ご主人。ご子息の様子は如何か?」
「お……やや! 特任騎士さま!」カウンターで暇そうにしていた主人は、アルティナの姿を見た途端、笑顔を綻ばせた。「この間は本当にお世話になりまして。感謝の言葉もございませんわ」
「気になさるな。当然のことをしたまでだ」
「おかげさまで、息子はぴんぴんしておりますよ。もうすっかり普段通りです。今はあっちの食堂で、アイリスちゃんと一緒におります」
「それは何より。ご挨拶してもよろしいか?」
「もちろんです。ご案内いたしますよ」
「いや、お構いなく。仕事の邪魔をしては悪い」
「そんな、お邪魔になるような仕事もしておりませんで」主人は苦笑した。「まあ、案内が必要なほどの屋敷でもありませんかな。食堂はこの裏の部屋です」
「どうもありがとう」
アルティナは一礼して奥へ向かった。客室のある方を窺ってみたが、今は誰もいないようだ。
食堂はすぐに見つかった。入り口から覗くと、トビーとアイリスの後ろ姿が見えた。テーブルに隣り合って勉強中のようだ。声をかけるのも悪いかと迷っていると、トビーの方から気付き、振り向いた。
「あ、アルティナさんだ。こんにちは」
「こんにちは」アイリスも振り向き、ぺこりと首を下げた。「この間は、本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして。勉強中か? 偉いな」
「別に偉くはないですよ。より良い将来のために必要な経費を払っているだけです。勉強ってそういうもんでは?」
「むう……まあ確かにそうともいえるが」アルティナは言葉に困った。「なんというかだな、誉め言葉なんだから、素直に受け取ってほしいのだが……」
「子供扱いは好きじゃないんです。前も言いましたよね」
「す、すまん……」
「だから、いじわるしちゃダメだって、トビー……」アイリスが服の裾を引っ張って咎める。「ごめんなさい。トビーって、大人のひとに対しては、素直じゃないから」
「いや、素直に思ったこと言ってるだけだよ」
「私が褒めても、そんなこと言わないじゃない」
「そりゃそうさ。アイリスは子供扱いしないでしょ」
「もう……」
「ふふふ。仲が良いんだな、君たちは」アルティナは微笑ましくなった。「友とは良いものだ。だが、あまり遅くなりすぎないようにな。この間のこともあるし、ご両親を心配させてはいけない」
「大丈夫ですよ。最近は、暗くなる前に帰るようにしているんです」アイリスが言った。「それに、冒険者の人とか、レイチェルさんとかが、一緒に送ってくれてますし」
「ほう、そうか。それなら安心だな」
「いや、案外そうでもないっていうか……」トビーが訝し気に言った。
「なんか、あんまり元気ないよね、レイチェルさん」
「ん? そうなのか?」
「ええ。なんかこう、へにょーんとしてるっていうか」
「だらーんとしてるっていうか……」
「むう……それは心配だな。今日は彼女と話があって来たのだが。大丈夫だろうか?」
「ああ、大丈夫だと思いますよ。二階に上がってすぐの部屋にいますから」
「分かった。アイリスちゃん、帰るときは声をかけてくれ。今日は私も送るよ」
「わあ、嬉しいです」アイリスは小さい花のように笑った。「帰り道、いろいろお話、聞かせてくださいね」
「うむ」
アルティナは食堂を後にした。
軋む階段を上がり、すぐの客室。ドアが少し開いていた。ノックして、声をかける。
「おーい、アルティナだ。入ってもいいか?」
「はぁい……どうぞぉ……」
気怠そうな声。アルティナは眉をひそめながら、ドアを開いた。
狭い部屋の中央、円形のテーブルに頬を乗せて、レイチェルは全身を弛緩させていた。目はぼんやりと霞み、半開きの口からは涎が垂れている。美しい金糸雀色の髪にも枝毛が目立った。
「へにょーんに、だらーん……なるほど……」
「どーもぉ、アルティナさぁん」レイチェルは顔を上げないままで言った。「私のお城にようこそぉ……」
「一体どうしたのだ? その様子は」アルティナは扉を閉めて言った。「……月のものか?」
「んー、そういうわけではないんですよぉ。なんというか、お酒がですね……」
「酒? 飲みすぎたのか?」
「逆ですよぉ。ぜんぜん飲めてないんです」
「はあ?」
「こないだの件で、すっごく霊力を使ったじゃないですかぁ、私。そういうのの後って、なんだか無性にお酒を飲みたくなっちゃうんです、どうしても」
「はあ……」
「でもぉ、あの日、なけなしのお金で買ったベルモットを割っちゃってぇ……。残ったお金も宿賃に使っちゃってぇ……。もう安酒も買えないほどすっからかんでして……ああ、私の神よ……」
「なんだ、例の件で褒賞金が出ただろう? まだ受け取っていないのか」
「手続きに行くのが面倒で……」
「そこまでか……」
アルティナは唸った。かなりの酒好きだとはあの日も思ったが、ここまでくると中毒というべきではないか。だが、あのような特殊な霊術を使うのであれば、そういう体質になることもあるのかもしれぬ。
「まあ、その……大変だな」アルティナは当たり障りのない言葉をかけた。「今日は例の件の事後処理について、一応の報告に来たんだ。ほら、奴に《操魔の呪法》や魔物を提供した後ろ盾がいる可能性だとか、あっただろう?」
「ああ、そうでしたね……。ごめんなさい、私がやりすぎちゃったせいで、本人から聞き取りをできなくしちゃって。手間を増やしちゃいましたよね」
「過ぎたことはいいよ。奴が素直に聞き取りに応じたとも思えんしな」
「そうですかねぇ……まあ、とにかく、ごめんなさいね。私、ご覧のありさまなので、むつかしい話はちょっと頭に入らないかも……」
「そのようだな」アルティナは頷いた。「まあ、それでは私が困るし、子供たちも心配している。さっさと復活してもらうぞ」
「ふっかつぅ……?」
アルティナは口角を斜め四十五度に吊り上げた。荷物を床に下ろし、両手で二本の瓶を取り出す。右手にウィスキー。左手にベルモット。
レイチェルはがばりと身を起こした。
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