【豚が狼を喰らうのか?】 #5
ヒースは鞘に納めた剣の柄に手をそえ、前のめりに腰を落とす。足が床をこすり、ちらばった硝子の破片が小さく鳴いた。
敵の動きを待つ構え。増援までの時間を稼ぐつもりだろう。
レイチェルは飛び込んだ。
次の瞬間、レイチェルは彼の間合いにまで踏み込んでいた。そのことに誰より驚いたのはレイチェル自身だった。それは彼女の想定していない速さだった。
瞬時に悟る。いつの間にか足首が纏っている小さな空気の渦。《風の靴》を履かされている!
ヒースは音よりも速く剣を抜いた。レイチェルの首を落とす軌跡を刃がすべる。
レイチェルは床を強く踏みしめ、上半身を引き戻した。喉元を切っ先がかすめた。現実に遅れて、死の危険を躰が認知する。
それでもレイチェルの本能は反撃を選んだ。歯を食いしばり、引き戻した反動で頭突きを喰らわせようとした、その刹那。ヒースの姿が消えた。
どこだ、と、意識が問うよりも先に答えを出せた。廊下の様子が違う。ヒースが移動したのではなく、レイチェルが反対を向いたのだ。足首から腰にかけて巻き付いた風が、彼女を回転させていた。
背後で剣が振り下ろされる気配があった。
レイチェルは無人の方向に頭突きを繰りだす。その勢いを利用して、後ろ足を跳ね上げた。足裏が剣の柄を打った。
「ぐっ……!」
ヒースのうめき声。レイチェルは床に両手をついて前転し、距離をとった。
片手をついた姿勢で、ヒースに向きなおる。彼は剣を握りしめたまま、レイチェルを睨んでいた。
「やはり……未熟だな。いや、流石あんただ、と言うべきか」
「……」
レイチェルは息を整える。言葉を返す余裕はなかった。
ヒースの得意とする《風の靴》は、地を這う風の流れを支配し、自分の足さばきを操作する霊術である。そう、自分の、だ。そのはずだった。
かつての彼なら、気付かれないままに相手に《風の靴》を履かせるという芸当はできなかっただろう。修行の成果ということか。
床から複数の振動が伝わってくる。増援が迫ってきているのだ。次で突破するしかない。
「あんた。退く気はないか」ヒースは言った。「あんたには借りがある。殺したくはない」
「ないよ。退く気も、貸しも」レイチェルは応えた。「私は行くと決めた。だから行く」
「……そうか」
ヒースは剣先を床にむけ、構えた。
レイチェルは両手両足を床につけ、這うような姿勢をとった。ヒースは訝しんだ。
(トカゲのように床に密着して動けば《風の靴》の影響は薄いと考えたか? 確かにな。だが)
ヒースは己の足元の風を操作した。硝子片をのせて煌めく風が、彼女の顔に走った。
受けるか。躱すか。いずれにせよ隙だ。後の先をとる。
レイチェルは、跳ねた。四肢をバネにして、天井へ跳び上がったのだ。
《風の靴》は足首から腰にかけて、水平方向への加速度を操作する術であり、垂直方向の操作は得手ではない。その弱点を突かれたか。
レイチェルは天井に腕を突き刺し、支えにして半回転、天井に足裏をつける。ヒースを見る。
彼は迎え撃つことにした。
彼女が腕を抜き、天井を蹴って、ヒースに向けて突っ込んでくる……その直前、もう片方の腕が閃いた。
銀色のなにかが飛んでくる。ナイフ、否、手術刀だ。いつの間に!
ヒースは迎撃のために構えた剣を防御に使わざるを得なかった。手術刀を弾き、生まれた空隙に、レイチェルが突っ込んだ。腕がヒースの胸を打った。
「がは……ッ!」
ヒースはしたたかに床へ叩きつけられ、肺の空気をほとんど吐き出した。意識がほんの一瞬だけ途切れた。
その間にレイチェルは起き上がり、彼に構わずに先へ進んだ。壁を次々に蹴り、上階へ。
「待……て……!」
ヒースは彼女の背に手を伸ばした。
骨は折れていない。まだ追える。彼は呼吸を整えながら、引きずるようにして起き上がった。
二階へ上がり、レイチェルはさっと周囲を見回しながら、すんすんと鼻を鳴らした。カンディアーニの臭いは覚えている。それを追って走り出した。
角を曲がり、いくつかの部屋がならぶ長い廊下へ。
レイチェルはそこで立ち止まった。廊下の奥に、赤いドレスの女が立っていた。
「あんたは……」
「来ましたね、雌犬」
女は平坦な声で言った。眇められた冷たい眼には、隠しきれない敵意があった。
離れていても分かった。この女からは魔物と同種の臭いがする。そして手に刻まれた数字の文様。《ベルフェゴルの魔宮》……!
「鬱陶しい害獣はさっさと駆除しておきたいところですが……他にやることがありますので、私は失礼します。けだものの相手はけだものに任せましょう。ねえ、司教様?」
「ブゴオオォォォ……」
地の底からひびくような獣の濁声が、女に応えた。
ちょうどその時、ヒースがレイチェルの背後に追いついた。彼は身の毛のよだつ声と、レイチェルの向こうに見えたものに打たれたようだった。
「おい……何だ……これは……!」
レイチェルは答えなかった。
濁声の主は、女が背にした部屋から、天井と壁を破壊しながらその巨体を現した。それは頭に二本の角をはやし、全身を黒々とした肉で鎧った、豚頭の魔人だった。
魔人は閉ざすことを忘却した口からぼたぼたと唾液を垂らし、欲望にぎらつく目でレイチェルを見た。
「オンナ……ウマソウナ……ニク……ニク……!」
魔人は突っ込んできた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「何だ、建物の方が騒がしいな」ハドルストンは葡萄酒を片手に眉をひそめた。
「騎士たちも慌ただしくしていますね」クリストファーは老紳士の目線に追従し、建物を見た。「何事もなければ良いのですが」
言いながら、バルドに目配せをする。彼は小さく頷くと、様子を知るためにその場を離れた。
「調理場で火事でも起きた……というふうでもないな。屋内にとつぜん獣でも現れたかな」
「まさか」クリストファーは笑った。「卿でもお戯れを仰るのですね」
「分からんよ。あそこには今、レイチェル殿がおられるからな。酔ったふりまでして」
クリストファーの笑みはすぐに消えた。ハドルストンは建物に目を向けたまま、葡萄酒を口に含んだ。
たしかに、彼女はわざと酔ったふりをした。自らを囮にしてカンディアーニの「よこしま」な臭いの正体を知るためだ。この老人は気付いていたのか。しかもこの老人は獣と言った。つまり……。
「ご存知だったのですか。彼女の力を」
「まあね。君が優秀な冒険者を雇ったと聞いたので、興味が湧いた。治療役を自称しておきながら、いざとなると獣と化す修道女。リディアの冒険者界隈を調べれば聞ける噂だ」
「それをカンディアーニ司教にも話されたのですね」
「悪いかね? 当然のことだ。司教とも利害関係にある人物だからな」
ハドルストンは葡萄酒を卓に置き、自然体に見える笑みで若き商人を見下ろした。
「そして君を通したほうが確実に連絡できるとも忠告した。彼女は居所さだまらぬ冒険者だからね。白状すると、そうすれば君を引っぱり出せるかもしれんという期待もあったが」
「意味深なことを仰りますね。私に下心でも抱いておいでですか?」
若者の不遜な発言に、ハドルストンは涼やかに笑ってみせた。
「そうだな、下心だ。将来有望な若者に熱視線をむけるのは、老若男女みなに共通する習性だからね。儂のはご令嬢方のそれとはまた別のたぐいの視線だが。だのに君ときたら社交嫌いで有名だ。君がそういった場に出てくる時は、かならず何かはっきりとした目的がある。違うかね」
「今回も、そうだと?」
「そうだ。君はそういう男だ。そしてレイチェル殿も」老人は断言した。「さて、ならば君たちの目的とは何だろうと、想像するのも楽しかろう。この土地についての交渉か? 司教殿のマクミフォートに対する執着の裏を知ることか? あるいは、祝福されていない霊珠が流れているという噂のことか?」
「その全てかもしれません」
「だとしたら、欲張りだな。いかんぞ、欲を張っては。儂のように悪い噂を流されてしまう」
「たまにお聞きしますね。聞くに堪えない悪口雑言。卿もご不満でしょう」
「もう慣れたよ。長生きしているからね。ちなみに、どんな噂を聞いたかね?」
「そう、たとえば……」
クリストファーは一歩、近づく。いつの間にか二人は至近距離で睨みあう形になっていた。彼は囁くような声で言った。
「『ハドルストンは価値の有無にかかわらず、あらゆるものをその狡知で奪ってしまう。正体は老人の皮をかぶった小鬼に違いない』と……」
「おお、嘆かわしい!」ハドルストンは芝居がかって天を仰いだ。「さすがの儂も泣きたくなるな。まさかあんな醜悪な魔物にたとえられるとは。ゴブリンに襲われて損害を受けた商隊は数知れず、全商人の敵であろうに」
「まったくです。我が商会もたびたび煮え湯を飲まされています」
「そういえばこの夏、リディア街道に巣食っていた小鬼どもを掃滅したそうだね」
「ええ」
「一商人として礼を言わねばな。君たち《ユニコーン騎士団》の働きには実に助けられているのだ」
「そうですか。意外なお言葉です」
「何故かね」
「卿の商隊が魔物に襲われたという話は、ほとんど耳にしませんから」
「勘が良いのでな。これも年の功だ」
「私からも卿にお礼を申し上げたい」
「はて。何のことかな」
「私の両親が街道で事故死したあと、進行中だった商取引のいくつかを卿が引き継いでくださりました。未熟な私にかわって道義を果たしてくださったこと、感謝しています」
「礼などいらんよ。ずいぶん儲けさせてもらったからね」ハドルストンは口元を歪めた。「ところで……、ご両親の事故の原因は、確かゴブリンに襲われたことだったな」
「はい。だから私は魔物を憎む。それを操っている人間がいるならば、そいつも」
応酬はそこで途切れた。両者とも、これ以上つづける必要はないと判断したのだ。彼らの間にあるのは敵意による沈黙だけだった。
その時である。
「ぐ……ぐお、おおお……!」
男のうめき声がした。二人が同時に声のほうを見ると、修道騎士が胸をおさえて苦しんでいた。客人の多くは怪訝そうに彼から離れたが、温厚そうな紳士がひとり、心配して近付いた。
「お、おい君。どうしたんだ。具合が悪いのかね?」
「お……おお……ブオオォォォッ!!」
騎士は天にむかって叫んだ。慟哭する顔の肉が不気味にうごめき、またたく間に彼の姿を変えていった。異形の豚の姿へと。
「うわあ!」「きゃあーっ!」「な、何だ!?」「化け物だ!」
大きな石の起こす波紋のように、混乱と悲鳴がひろがっていく。声こそあげなかったが、クリストファーも驚愕に固まっていた。
豚頭の異形と化した騎士は、己の両手を戸惑いの目で見おろしていた。その視線が白いワンピースの淑女に向けられると、戸惑いは欲望にかわった。
「ニク……ニクダ……タベタイ……!」
「ひ……! こ、来ないで……!」
淑女は恐怖に腰をぬかし、その場にへたりこんだ。豚の騎士は涎をまきちらしながら、淑女に飛びかかった。
「ブゴオオオーっ!」
「ぬううん!」
猛然と駆け込んできたバルドが、豚騎士の横面に拳を叩きこんだ。豚騎士は濁った悲鳴をあげ、卓に突っ込んだ。
「バルド!」
「会長、お気を付けください!」バルドは戦闘姿勢を解かずに言った。「騎士や聖職者たちが皆このようになっています。この場は危険です!」
「ブオ……オ……」
豚騎士が起き上がる。騎士はバルドを認識していたが、標的はあくまでも淑女のようだった。攻撃された怒りより食欲が勝っているのだ。
バルドは淑女を守る位置に立った。豚騎士は不服そうに唸り、剣を抜いた。
「ブゴーッ!」
豚騎士は斬りかかった。バルドは難なく手首をつかみ、強く捩じって剣をとり落とさせる。もう片方の手で首元をつかみ、引き寄せ、頭突きを見舞った。
「ブゴーッ!?」
二発。三発。掴んだ腕をのばして距離をとり、強烈なフック。豚騎士は回転し、倒れた。その首は異様な方向に曲がっていた。もう動かなかった。
バルドはクリストファーを見た。
「会長、これは……」
「ああ。魔人化だ」そう言って、顔を歪める。「カンディアーニめ。とっくのとうに穢れていたのか」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ようあんた! 俺たちのふるさと、ミーティスへようこそ! 旅の騎士様かい?」
「うむ、そんなところだ」
「ちょうどいい時期に来たもんだな! ここにある肉や酒はカンディアーニ司教様のお慈悲で供されたもので、誰だろうと好きなだけ喰っていいんだぜ。もちろん旅人のあんたもだ。何かとってきてやろうか?」
「いや。ご厚意痛み入るが、務めがあるのでな」
「そうかい? そりゃ残念だな。せっかく俺たちの自慢の村に来てくれたんだし、務めが終わったら楽しんでくれよ」
「そうさせてもらおう」
赤ら顔の男とのやりとりを流し、孔雀緑の髪の女騎士はその場を離れた。食欲をさそう匂いに後ろ髪をひかれながら、まっすぐ教会へ向かう。
彼女……特任騎士アルティナがこのミーティスを訪れたのは、任務のためである。
この地域を管轄していた光珠派の特任騎士、ロドルフ・ショーソンの行方が分からなくなっていたが、それが解決した。家族のもとに首だけの姿で送りつけられたのだ。そして近隣地域であるリディア周辺を担当していたアルティナが、臨時で代役を務めつつ、下手人を突き止めるよう命じられたのだった。
ロドルフは死の直前、《ベルフェゴルの魔宮》という邪教を追跡しており、その過程で、カンディアーニ司教のことも調査していたという。彼がなぜ同じ教派の高名な司教を調べていたのかは分からない。アルティナはひとまず探りを入れてみることにした。
(このような形で訪れることになるとはな……)
歩幅を一定に保ちながらも、彼女は村の様子をしっかり観察した。
人々はみな、思い思いに祭りを満喫している。かつて魔物の襲撃により滅亡した村の跡地に住む人々は、十分な幸せを享受しているようだ。喜ぶべき光景である。
しかし、アルティナは心のどこかに複雑な思いを抱くことを禁じえなかった。滅びた村のたった一人の生き残りが、ここにいないことを知っているからだ。
(君がこれを見たら、何を思うのだろうな。レイチェル……)
湿って黒ずんだ道を歩き、教会へ近付いていく。
その途中で、彼女はなにか異様な気配を感じた。
教会の方が騒がしい。祭りのそれとは趣がちがう。彼女は足を速めた。
礼拝堂の入り口は、いまは無人のようだ。喧噪は屋内からではない。裏庭か。彼女は礼拝堂の左側から回り込むことにした。
裏庭に到着したとき、彼女は騒ぎの理由を知った。
「何だ、これは……!」
「ブオオォォーッ!」「ブゴーッ! ブゴォーッ!」
「ひいい!」「誰か! 誰か守ってくれ!」
濁った咆哮をあげる豚頭の魔物。怯えまどう貴人たち。アルティナの予想だにしなかった光景が、そこに広がっていた。
なぜこんなことに? それを把握するよりも先に、彼女は動かなければならなかった。豚騎士が身なりのよい少年に斬りかかろうとしている。
「ブゴーッ!」
「うわあああ!」
アルティナは走りながら、腰にさげていた愛剣ブリュンヒルトを抜き、振り下ろされる刃を受けた。金属音とともに火花が散った。
「くっ……この、力……!」アルティナは唸った。剣が小刻みに震え、徐々に押し込まれていく。彼女は少年に叫んだ。「君、逃げなさい! 今のうちに!」
「う、う……!」
少年は涙を流していたが、やがて踵を返して走り出した。アルティナはそれを確認し、豚騎士に向きなおる。
この魔物が身につけているのは修道騎士の鎧だ。彼女はそれに気付いていた。だが容赦するわけにはいかない。
「《戦乙女よ! 汝、赤熱の鎧を身にまとえ!》」
所有者の言葉にブリュンヒルトが応えた。陽を待ちかねて燃える地平のように、霊銀の刃に光が満ちた。戦乙女の熱は敵の剣をたやすく溶かし斬り、そのまま首を刎ねた。豚騎士は倒れ、焼け焦げた切断面から煙があがった。
アルティナは熱をふり払い、周囲を見まわす。豚の魔物はまだ多い。どれも修道服や鎧を着用している。単なる魔物でないことは明らかだ。
貴人たちは森の近くへ集まっていた。長身の老紳士が号令をかけている。
「皆、こちらへ! 建物の方は危険だぞ!」
周囲には彼らが連れてきた護衛が何人もついているようだ。ひとまず大丈夫だろう。
そのとき、二階の窓を割って、ふたつの人影が降ってきた。
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