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エピローグ【命を抱いて眠りなさい】


【総合目次】

 【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #36




 果物屋のおやじの第一声は、その日もレイチェルのことだった。

「なんだい、あの姉ちゃんはまたいないのかい。もう帰ってきてるんだろ?」

「おじさんには関係ないでしょ」

 トビーはさっと屋台を見回し、林檎、柑橘、ベリー類と、せめて出来の良いものを選んで手早く籠に詰めていく。いかつい顔のおやじは太い眉尻を下げ、残念そうに息を吐いた。

「せっかくいい林檎が入ったから、あの人に喰ってもらいたいんだけどなぁ」

「このライム、なんか変な臭いするよ」

「本当かぁ? 仕入れたてだぞ、そんなわけ……ああ本当だな。こいつぁ駄目だ」

「いい林檎が入ったって? このお店に?」

「いやトビーちゃん、このライムは仕方ねえよ。スルトラ修道院の生臭坊主どもんとこだから。だがこの林檎はアリシア修道院産だ。あっこは水珠派だから保存も心得てるし、なにより良家のご令嬢ばっかりだからな。清潔でたおやかさ」

「関係ないと思うけど」

「そうは言うがよ、たとえば俺が育てた林檎ですって差し出されたら、トビーちゃんはそれ喰うかよ」

「別にどうでも……いや……おじさんかぁ。うーん」

「ったくムカつくガキんちょだぜ。そういうわけだからよ、ほれ、林檎おまけだ。果物屋のおじさんからの贈り物だって、よーく言っといてくれよ」

 おやじはずっしりと重くなった籠を押し付けてきた。トビーはしぶしぶ受け取った。帰り道で食べてやろうかと思ったが、ちょっと量が多かった。

 トビーは歩く。交易都市リディアの目抜き通りの昼は、いつだって賑わっている。特に春を目前にしたこの時期は、人も品も日に日に活気づいていくのが感じられて、トビーは好きだった。

 レイチェルと一緒に歩けたら、もっと楽しいはずなのだが。

 果物屋のおやじが言うとおり、彼女は《緋色の牝鹿亭》に戻っている。冬のあいだずっとあちこちを飛び回っていたが、一段落ついたらしい。だが帰ってきてからも何やかやと忙しくしていて、トビーはあまり一緒にはいられなかった。その忙しさも昨日ようやく終わったようで、今はぐっすりと寝坊している。

 今朝、トビーは久々に買い出しを手伝ってもらおうと、レイチェルを訪ねた。

 彼女はベッドで身を丸くして眠っていた。まるで子犬のように。起こしてはいけないような気がした。疲れているのだろう、と思ったし、それ以上に、そっとしてあげるべきなのかな、とも思った。

 きっと辛い仕事だったのだろう。

 事情を聞きたいとは思わない。《緋色の牝鹿亭》は安らぎを提供する宿屋だ。踏み込んではいけない領域は心得ている。

「やあ、トビーくんじゃないか」

 声を探すと、アルティナだった。彼女もレイチェルと一緒に忙しくしていたが、それなりに元気に見える。

「ひとりで買い出しか? そんなたくさん荷物を抱えて。うむ、偉いぞ」

「だーからアルティナさん、子ども扱いはやめてって、いつも言ってるでしょ」

「何を言う。人を褒めるのに大人も子供も関係ないさ。偉いと思った相手には偉いというべきなのだ。これからは堂々と褒めちぎるから、覚悟しておくんだぞ」

 アルティナはふふんと胸を張る。トビーは片眉を上げた。ちょっぴり残念だった。やり返されておろおろするアルティナは面白かったのだが……。

「それじゃ、素直に受け取っておきますけど。アルティナさんはどこかへ行くの?」

 彼女は銀鎧の上に外套をかぶせている。旅支度のように見えた。アルティナは頷いた。

「例の件でな。大掛かりな手続きが必要になるから、神珠教団のグランダース支部に行く。特任騎士の私にこういうのは荷が重いんだがな」

 例の件。それはレイチェルが帰ってからも忙しくしていた理由である。一介の冒険者に過ぎないはずの彼女は、いつの間にか億万長者になっていたのだ。

 数週間前、メイウッド商会の若き会長が消息を絶った。しかし彼は姿を消す前に、財産を処分していた。一部は使途不明、一部は職員への補償。そして残りの一部が、レイチェルに譲渡されていたのである。

 主に受け継いだのは、メイウッド商会が代々研鑽を重ねてきた製薬技術などの知的財産、製薬設備など、薬屋としての実権のすべてだった。

 レイチェルはそれを神珠教団に寄付することにした。

 彼女にとって、それが最良の選択だったのだろう。アルティナはそれを手伝っている。一角獣印の霊薬は、これからも世に出回り、多くの冒険者を助けていくだろう。

「ふうん。じゃ、またしばらく会えなくなるんですね」

「そうなるな。だがすぐに戻ってくるよ。また友達と酒を飲み交わしたいしな」

「レイチェルさんもそう思ってるでしょうね」

「大きくなったら、君やアイリスちゃんとも一緒に」

「いいですね。その時は、できるかぎり高いのを奢ってくださいね」

「ふふ。したたかな子だ。覚えておくとしよう」アルティナは背を向けて、片手を上げた。「では、壮健でな」

 女騎士は人込みに紛れ、行ってしまった。トビーもふたたび歩き出した。

 群衆には、リディアの住民もいて、過ぎ去るだけの旅人もいる。旅人のなかにはトビーの見知った顔もいる。

 たとえば《鶫の枝亭》から出てきた冒険者たち。ひとりは雑に補修した槍を担いだ青年。ひとりは筋骨隆々の女。ひとりは猫背の研究者。そしてもうひとり、顔の左半分に切り傷を残した剣士。以前までは三人と一人だった。これからは四人でやっていくのだろう。

 また別の酒場から、身ぐるみを剥がされて尻を丸出しにした男が蹴り転がされていた。入り口では三角帽の少女が歯を剥いて、下品に笑っていた。賭博で大勝した者特有の笑いだ。そこには老人の呵々大笑する声も重なっていた。

 その様を横目に、酒を入れる革袋を手にした男が通り過ぎていく。荒んだ様子だった。目も頬も落ちくぼみ、髭も当たっていない。足取りも病人のようだ。視界から消える瞬間、男は革袋を躊躇うように揺らし、一口だけ呷った。

 通りの一角に、人だかりがある。トビーは近付いていく。どうやら詩人が二人組で吟じているようだ。歌っているのは巻き髪の優男で、もう一人、いかにも田舎出という感じの娘が、上手とはいえない竪琴を弾いている。

 優男には片腕がなく、娘は義足だ。

 幸せそうな二人が奏でる音は、とても魅力的だった。

 ふと、トビーは人だかりのなかに、見覚えのある姿を見つけた。健康的に日焼けした肌の少女。たしか数年前、剣士の少年と一緒に《緋色の牝鹿亭》に泊まっていた、弓使いの少女だった。

 だが、今の彼女には、片腕がなかった。

 あれでは弓は引けないだろう。

 でも、左隣には、あの少年もいる。右隣には、ぼさぼさの蒼い髪の少女がいて、失っていない右の手を握っている。

 彼らはみな、詩人たちの声に聞き入り、その姿に見入っていた。

 その背後、少し離れたところで、頭部を爛れさせた男が、満足そうに微笑んで、彼らを見守っていた。

 ならば、彼らは大丈夫だろう。

 生きていれば、どうにかなるものだ。詩人の言葉はよく聞き取れなかったが、たぶんそんなことを歌っていた気がする。きっとそうだと、トビーは思った。

 歌が止まった。群衆が盛大に歓声をあげた。トビーはそこを離れ、帰ることにした。

 目抜き通りから枝分かれすること三回、傾斜の半端な坂を上り詰めたところにある、周囲の民家から頭一つ抜けた建物。よく転ぶ子供のように補修の跡が目立つ三角屋根。

 トビーの帰る場所。《緋色の牝鹿亭》。

 ドアを開ける。いつもと同じ金切り声が鳴る。カウンターでは父がだらしない顔で舟を漕いでいる。通りすがり、その顔に林檎を投げつける。「んがっ」と目をきょろつかせる父を尻目に、トビーは軋む階段を上がっていった。

 二階には大部屋がひとつと個室がよっつ。階段に最も近い個室がレイチェルの部屋だ。

 扉の前に立ち、ノックする。

「もしもーし、レイチェルさーん?」

 返事はない。もう一度繰り返してみるが、同じだった。

 トビーは肩を竦め、把手に手をかける。

「入るよ、レイチェルさん」

 扉を引き開けた。

 ほぼ正方形の小さな部屋。正面の壁には長方形の窓。家具はベッドと円形のテーブルと椅子しかない。テーブルには空になったウィスキーの瓶とグラスがひとつずつ。

 窓は開いていた。

 ベッドでは、修道服のままのレイチェルが、まだ眠っていた。

 トビーはしばし、逡巡した。もうそろそろ、起こしてもいいだろうか。

 彼は果物の入った籠をテーブルに置き、ベッドに近付く。

「レイチェルさーん、もうお昼だよー」

 耳元で囁く。まだ起きない。

「一緒にいいベッドを探そうって約束したじゃん。そろそろ行かない? いつまでも寝てばっかじゃさ、体にも……うわっ!?」

 突然、レイチェルが彼を掴んだ。

 そのままベッドに引きずり込まれた。

 トビーは両腕で抱き締められた。顔いっぱいに、レイチェルの豊かな胸が当たっていた。トビーは顔を真っ赤にした。随分とご無沙汰だったからすっかり油断した。彼女にはトビーを抱き枕にする癖があるのだ!

「ちょっ、と、レイチェルさん! 駄目だって! こんな昼間から、いや、夜ならいいってわけでもないけど」

 胸の谷間で、トビーはくぐもった声でわめく。なんとか顔を出す。

「レイチェルさん! いいかげん起き……」

 顔を見た。

 レイチェルは目を開けていた。目元がほんのりと染まっていた。紫色の瞳は、雨期に咲く花のように潤んでいた。

 綺麗だと思った。

 涙が生んだ綺麗さだった。

 トビーは何も言えなくなった。

「ごめんなさい、トビーさん」

 レイチェルは言った。

「少しだけでいいです。あともう少しだけ、こうしていたいんです。許してくれますか?」

「……」

 トビーは仕方なく頷いた。「ちょっとだけだよ」

 レイチェルは包み込むようにトビーを抱いた。トビーも彼女の背中に腕をまわし、抱き返した。

 胸に顔をうずめる。

 鼓動を感じた。

 レイチェルは生きている。

 トビーはそれを感じている。

「トビーさん、あったかいです」

「……レイチェルさんも」

 レイチェルはトビーの頭に腕をまわし、髪に口づけるようにして抱いた。

 髪をくすぐる彼女の呼吸は、やがて寝息へと変わっていった。

 トビーも目を閉じた。呼吸は一定のリズムを刻み、だんだんとゆっくりになって、レイチェルと同調した。

 二人は微睡みに落ちた。

 春を孕んだ風が窓から吹き込み、寄り添いあう二人を撫でていった。





(了)



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