【静けき森は罪人を許したもうのか?】 #2
次の日。トビーはいつものように朝の市へ向かおうと、入り口のドアを開けた。その金切り声を聞きつけたのか、食堂で朝食をとっていたレイチェルが慌てて姿を見せた。
「トぶぃひゃ、んぐ……んむぐっ、んんっ」レイチェルは手で口を隠し、中のものを飲み下すと、改めて言った。「トビーさん、お買い物ですか?」
「うん、まあ」
「お手伝いしますね。朝ごはん食べたら追いつきますから、先に行っててください」
「いや、ひとりで大丈夫だよ。ゆっくり食べてて」
「まあまあ、そう遠慮なさらずに。私は大人なんですから、もっと頼って下さい」
「……そっちこそ、僕に気を使わなくていいよ」
トビーは把手に手をかけたまま、レイチェルに体を向ける。
「子供と大人っていう前にさ、従業員とお客様でしょ、僕ら。お客様に店の仕事を手伝わせるわけにはいかないよ。だからレイチェルさんは僕に構わず、くつろぐなり冒険に出るなりして下さい」
「え……で、でも、今までずっとお手伝いさせてくれたじゃないですか」
「今までがおかしかったの。これからはちゃんとしましょうねって話。じゃ、そういうことで」
「ま、待ってくださ……」
「レイチェルさん」トビーは指で頬を叩いた。「ついてるよ」
レイチェルは右頬についた南瓜のスープを指で拭う。彼女がそれを口に含んでいる隙に、トビーは外に出て、扉を閉めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
厨房の隅で、トビーは自分の腰ほどはある自家製ビール醸造樽を棒でかき混ぜていた。かれこれ数十分になる。麦芽とハーブが織りなす香りに誘われてか、そこにレイチェルがやってきた。
「トビーさん、腕がお疲れでは? 代わりましょうか?」
「平気だよ。ずっとやってきたことなんだから、慣れてる」
「でもぉ……」
「っていうか、厨房は立ち入り禁止だよ。お客さん」
レイチェルはしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて肩を落として引き下がっていった。背を向けていたので、トビーはそれを見ていなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「トビーさん、危ないですよ! せめて片方……」
「平気だ……ってば。危ないと思うなら、話しかけないで」
水の入った桶を両手にぶら下げて、トビーは一歩一歩、階段を上っていく。視線に背中をくすぐられ、少年の体はぷるぷると揺れた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……トビーさぁ~ん……」
「……」
食堂の入り口から縋ってくる声に背を向けて、トビーは野菜を切り続ける。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「トビー、お前、いいかげん機嫌を直したらどうだ?」
《緋色の牝鹿亭》の三階、物置を兼ねた従業員用寝室で、月の光が射し込む窓を閉めようとしたトビーは、父の言葉に手を止めて振り向いた。
「機嫌? 何のことさ」
「とぼけるなよ」父は寝床を床に敷きながら応える。「レイチェルさん、部屋の隅で膝を抱えてたぞ。お前に嫌われたと思ってるみたいだ」
「ん……」
トビーは唸りを発しかけたが、それを誤魔化すように、音を立てて鎧戸を閉めた。真っ暗闇の中、早足で自分の寝床へ潜り込む。
「他のお客さんと同じ対応をしてるだけなんだけどね。そう思われるのは、ちょっと癪だな」
「そうかもな。嫌ってるんじゃなく、拗ねてるだけだもんな」
「はあ?」寝転んだまま、父に顔を向ける。「拗ねてる? 僕が?」
「俺にはそう見えるよ」父は毛布をかぶり、天井を見上げながら言った。「『あなたは僕を何ヶ月も放っておいて平気なんだね。そうですか、僕もあなたがいなくたって平気ですよ。ほら、この通り』……ってな」
トビーは今度こそ唸った。暗闇でなかったら、彼の赤らんだ顔が見えていただろう。
「忠告するぞ。子供扱いされるのが本当に嫌だってんなら、一人で何でもできますって殊更に見せびらかすのはやめておけ。むしろ子供っぽく見える」
「む……」
「母さんもよく言ってただろ。『今の自分にできないことなら、遠慮なく他人を頼りなさい。それを見極められるのが本当の大人だよ』……ってな。それを守れてた分だけ、以前のお前の方が大人だ」
「……」
「明日の買い物当番、レイチェルさんに手伝ってもらえ。いや、手伝わせてやれ。その方がいい」
トビーはこれに返事をせず、寝返りを打つ。背中越し、仕方がないな、とでも言いたげに、父が鼻を鳴らした。
その鼻息が寝息へ、やがて鼾へ変わる頃になっても、トビーは目を開けたままだった。一度血がのぼった頭は容易に夢に落ちることなく、とりとめのない思考と記憶をたぐり寄せる。
(母さんのこと……父さんの口から久しぶりに聞いた気がするな)
たくさんの人に好かれる人だった。快活で、少し皮肉屋で、白い髪留めで纏めたポニーテールの元冒険者。歯に衣着せぬ物言いに魅せられた客は多く、そんな母に似ていると言われることは、トビーにとって密かな誇りだった。
母は時々、近隣の街へ出稼ぎに行った。たまにトビーを連れて行ってくれることもあり、幼いトビーはその小旅行が何よりも楽しみだった。
魔物に襲われるのは怖かったけれど、そのたび、靭やかに舞うような戦いぶりで、母が必ず守ってくれた。その姿を見るのも大好きで、だからいつだって、トビーは母についていきたかった。母の傍にいたかったのだ。
(でも母さんは、僕と父さんを置いて、いってしまった……)
あの日。旧知の仲だという男に乞われ、母は遠出することになった。嫌だ嫌だとぐずるトビーに、いつになく真剣な瞳で、それでも微笑みながら、三ヶ月以内には帰るからと言い聞かせて。
母は約束を守らなかった。月を四つ数えた頃、《緋色の牝鹿亭》を訪れたのはあの男だけだった。何かの汚れで黒ずんだ髪留めを手にして……。
あの日々の不安を、あの日の悲しみを、時の流れは眠りに就かせた。だがレイチェルが不在の三ヶ月は、少なくとも前者の気持ちを目覚めさせようとした。彼女が帰ってきた時、それまでに抱いていた焦燥感の由来を、ようやくトビーは悟ったのだ。そして自分が、思った以上に彼女に依存していたことも。
これじゃいけない。レイチェルは冒険者だ。《緋色の牝鹿亭》は彼女の帰るべき家ではないのだ。母のように頼ってしまえば、いつか必ず、後者の気持ちも目を覚ますだろう。
(そうなる前に、あるべき形に戻しただけだ。拗ねてるわけじゃないんだよ、父さん……)
けれど、思う。
自分はその台詞を、まっすぐ父の目を見て言えるだろうか?
……やがてトビーも寝静まった頃、一階の空き客室の物影で、それは行動を開始した。
僅かに閉め忘れられたドアの隙間をするりと抜け、目指すは上階。二階への階段、三階への階段を、かすかな足音ひとつ立てず……いや、足をつけることさえなく、夜の影に潜みながら、ふらりふらりと上っていく。
それが初めて《緋色の牝鹿亭》の床を踏んだのは、三階従業員用寝室の扉の前に立った時だった。
把手をつかみ、押し開ける。大人の鼾と子供の寝息がひびく闇に、警告するようにドアが鳴いた。体を左右に揺らしながら、それは覚束ない足取りで部屋を進んだ。
四歩のところで立ち止まり、それは……ローブに全身を包んだザシャは、もはやろくに見えぬ目で獲物を見下ろす。かすれるような寝息をたてる少年を。
《ベルフェゴルの魔宮》より下された最後の命令。『狼を怒らせろ』。ザシャは生まれてから死ぬまで魔宮の忠実なるしもべだ。だからそれを果たすのだ。その身がどんな形になろうとも。
彼は少年に手を伸ばした。
「何してるの。お前」
背後から、凍てつきそうな女の声。
振り返ろうとしたザシャより先に、レイチェルがその肩を掴んだ。白い髪が闇に踊り、ザシャの体を廊下の壁へと叩きつけた。
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