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酔夢 4 友が初めて家にきた日


【総合目次】

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「それじゃあ、今日はとっておきのおまじないを教えてあげますね」

「おまじない……ですか」

 小さな子に話しかけるような母さんの言葉に、クリスは神妙な様子で頷く。

 イラは百人にも届かない小さな村だけれど、私と母さんが住む教会の礼拝堂はけっこう立派なものだった。村の人たち全員を詰め込めるくらいの広さ。そして森の中で月を見上げる白狼を描いた大きなステンドグラス。その光を背にして立つ母さんを、いくつも並べられた長椅子の先頭に座ったクリスが眩しげに見上げていた。

 見慣れた場所に見慣れた友達がいる。その見慣れない光景を、私は礼拝堂脇のドアからこっそりと覗いていた。

「あなたの魂が乱れ、胸が苦しくなったとき、このおまじないはきっと効きますよ。覚えておいてくださいね」

「は、はい」

「じゃあ、まずは眼を閉じて」

 クリスは言われたとおり目を閉じる。

「できるだけ呼吸をゆっくりにして……そう、いいですよ。そして自分が、雪の積もった森にいると想像してください」

「雪の森……」

「あなたの目の前に足跡が続いています。獣の足跡です。それを追って、呼吸と同じ刻み方で六歩、歩いてみましょう」

 クリスの胸が上下する。そのリズムに合わせて彼が雪の森を歩く様子を、自然と私も思い描いた。さくり、さくり、と雪を踏みしめる音が聞こえた気がした。

「どう? 落ち着いた感じがするでしょう。六歩でも治まらなかったらもっと歩き続けてくださいね」

「あの……、これだけなんですか?」

「そう、これだけ。でもね、これだけのことで、私たちイラの民は救われてきたのですよ」

 母さんは膝を折り、クリスに目線を合わせる。

「クリス。あなたの苦しみの源は、体でも、心でもなく、魂の奥深くにあります。今の世にそれを根絶するすべはありません。きっと一生をかけて付き合っていくことになる」

「……」

「でも、上手な付き合い方を身につけることはできます。あなたの内に棲む獣のことを理解して、仲良くしていきなさい。あなたのご先祖様がそうしたようにね」

「……獣の足跡っていうのは」彼はステンドグラスを見た。「やっぱり、この村の守り神様のものなんですか?」

「私はそう信じています」

「じゃあ、僕も信じます。リアさんが信じるものなら」

 母さんは目を細めて頷き、膝を伸ばした。

「ねえ、母さん」

 私の声に、ふたりが振り向く。クリスの嬉しそうな顔がむず痒かった。

「あら。勉強してたんじゃなかったの?」

「ちょっと小休止。それでさ、こないだ行商人から買ってたお菓子、クリスと食べていい?」

「むむ、バレてましたか。そういうとこばっかり目聡いんだから」母さんは肩を竦め、困り顔で笑った。「でもまあ、いいでしょう。最近あなた頑張ってるものね。頑張った後は、好きなことしてぐっすり休みなさい」

「言われなくたってそうするよ」

「私、ちょっとおじさまの家に行ってきますから。クリスのこと、しっかりお持て成しするのよ」

「ん」私はクリスを手で招いた。「クリス、こっち」

 クリスは立ち上がって母さんに頭を下げ、小走りでこちらに向かってくる。それを見送り、母さんは外へ出て行った。

「おはよう、レイチェル」

「今日、うちなんだね」

「うん。リアさんがおいでって」彼は礼拝堂を振り返った。「とてもいい場所だね。静かで、綺麗だ」

「都会の教会の方がずっと豪華なんじゃないの」

「そうだけど。僕はこっちの方が好きだよ」

 やっぱりむず痒い。私は顔をそむけ、歩き出した。

 廊下を進み、台所へ。食卓にはすでにビスケットを出してある。私はそれに構わず、食器棚の一番下の戸をひらいた。クリスの不思議そうな視線を背中に感じた。

 戸の中では隙間を埋めるように積み重なった箱が、私の手が奥に伸びるのを阻もうと通せんぼしている。この形に戻すのには苦労した。私はひょいひょいと箱をどけ、息をひそめて縮こまっていた古びた壺を出した。

「何だい、それ?」

「母さんの巣の卵」

 壺の口は広く、木で蓋がしてある。私はそれを外し、腕を突っ込んで、中から瓶を引きずり出してやった。

「わ、綺麗な赤だね」

「葡萄酒じゃないよね」

 赤い液体で満たされた瓶をテーブルに置く。光にあたると輝いて見えるくらい、透き通った赤だ。

「ああ、この色、見たことがあるよ。たぶん『ジュノーの涙』っていうザクロ酒じゃないかな」

「ザクロのお酒? クリス、飲んだことあるの?」

「ないけど、うちの商会で扱ってる品だから」

「ふうん。ってことは、薬効酒なんだ」

「薬効はある。でもこの酒の一番の売りは味だよ。上品で芳醇な香りと、さっぱりした甘酸っぱさが人気で、富裕層の女性に高く売れるんだ」

「本当に飲んだことないの? あやしい」

「知らないことでも商売人なら語れるようになっておけって、父さんがね」

 クリスは照れ臭そうに笑む。彼の屋敷で字の読み書きを習っている時も、彼の語り口や教え方はとても上手だと思っていた。お父さんの教えってわけか。

「なるほど。とにかく美味しいんだね」

「そうだけど……レイチェル、もしかしてさ……」

「ザクロのお酒なんて、合いそうだよね。ビスケットに」

「リ、リアさんのなんでしょ、それ」

「クリスのこと、しっかりお持て成ししなさいって言われたし?」

「そんな……でも……」

「頑張った後は好きなことしなさいって言われたし?」私はコルクを掴んだ。「頑張ったし、ザクロも好きだから、いいよね」

「い、いいのかな……」

「いいですよお。開けてごらんなさい」

 ぐっ、という声が喉に詰まった。隣でクリスも顔を青くした。そんな私達の首を、母さんが後ろから両腕で抱え込んだ。

「白狼様のお導きですねえ。忘れ物をとりに帰ってみれば、かわいい泥棒さんを捕まえちゃいました。うふふふふ」

「か、母さ、ぐるし……」

「どうしましたあ? 開けてみていいんですよお。こつこつ貯めてきた800クリムで買ったお酒です、とーっても美味しいでしょうからねえ。ぜひ感想を聞かせてくださいねえ」

 私はおそるおそる目を動かす。横では顔を真っ赤にしたクリスが「あっあっ」とわたわたしている。それ以上うごかして、不気味なほど満面の笑みを浮かべているのだろう母さんを見る勇気はなかった。




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